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第12話 選択~名もなき薬師の矜持~


 朝の光は、どこまでもやわらかく、そして公平だった。王城の一室。磨き上げられた床に白い光が差し込み、その中央にアンナは立っていた。


 質素な麻の服。薬草の灰で汚れた爪。そして、長年の作業で荒れた手。豪華な装飾に彩られたこの場所には、あまりにも不釣り合いな姿だ。けれど、アンナの背筋は、かつてないほどまっすぐに伸びていた。


「顔を上げよ」


 威厳ある声に、アンナは静かに顔を上げた。玉座に座すはこの国の王。その傍らには、これまでアンナを蔑んできた重臣たちが居並んでいる。


「そなたの功績、聞き及んでおる。ギルドの正当性を守り抜き、不透明な『異端』の正体を暴き、民の混乱を最小限に食い止めた。……見事であった」

「……身に余るお言葉です」


 アンナは深く頭を下げた。その所作には、迷いも卑屈さもない。


「謙遜はよい。そなたの持つ知識と、土壇場で見せた判断力は本物だ」


 王はわずかに口元を緩め、本題を切り出した。


「提案がある。王家直属の薬師として、この城へ仕えぬか。そなたの技術を国のために役立てよ。必要な資材も、人員も、すべて用意しよう」


 場が静まり返った。それは、名もなき薬師に与えられるにはあまりに破格の、最高級の栄誉だ。富、安定、そして権力。すべてが手に入る。断る理由など、この世界のどこにもないはずだった。


「……恐れながら」


 アンナは、ゆっくりと、しかしはっきりと口を開いた。


「そのお話、お受けすることはできません」


 ざわり、と重臣たちの間に驚愕が走った。当然だ。王の招きを蹴る者など、まず存在しないのだから。


「理由を聞こう。怒りはせぬ。ただ、純粋な問いだ」


 王の問いに、アンナはまっすぐな視線を返した。


「私は……薬を、“市井しせい”で作っていたいのです。日々の暮らしの中で、必要とされる場所。目の前の人に、手渡せる距離。そこが私の居場所です」

「王城に上がれば、より多くの民を救えるのではないか?」

「はい。ですが……それは『私でなくてもできる形』に整えられるべきだと考えます」


 王の目が細められた。アンナは言葉を重ねる。


「あの『聖女』と呼ばれた娘がもたらしたものは、彼女一人に依存した歪な救いでした。誰か一人に依存する技術は、いずれ必ず途絶え、混乱を生みます。私は特別ではありません。ただ、先人たちが積み重ねてきたものを学んだだけです。……だから、同じように積み重ねれば誰もが辿り着ける形として、技術を磨き続けたい。それができるのは、机の上ではなく、常に人がいて、反応が返ってくる現場だけなのです」


 沈黙が流れた。アンナの言葉は、派手な「奇跡」を否定し、地道な「継続」を肯定するものだった。


「……なるほどな」


 王は小さく息を吐き、そして豪快に笑った。


「面白い。実に見事な屁理屈だ。……よかろう、そなたの望む道を行くがよい。だが、もし国が真にそなたを必要としたときは、その力を貸せ」

「はい。謹んでお受けいたします」


 王城を出る頃には、空はすっかり高くなっていた。石畳を歩く足取りは軽い。胸の奥には、ようやくすべてが終わったという確かな実感があった。




 ふと、人通りの途絶えた路地裏に差し掛かったとき。アンナは立ち止まり、誰もいない空間に向かって呟いた。


「……お礼を、言わせてください」


 応える声はない。けれど、そこに“いる”ことは分かっていた。


「あたし一人じゃ、何も守れませんでした。……でも、最後に自分の足で立つ道を選んだのは、あたしです」

『───ええ。素晴らしい選択だったわ』


 澄んだ、鈴を転がすような声。振り返ると、そこには一匹の黒猫がいた。黄金色の瞳に、鮮やかな赤いリボン。


「……あなたは、一体」

『ただの通りすがり。そして、この世界の『歪み』を好まない、ただの調律師(おせっかいやき)


 猫はしなやかに尾を揺らした。その姿は陽光に透け、どこか現実味を欠いている。


「ここはもう、正しく整いました。……寂しくなりますか?」

「そうですね。少しだけ。……でも、それでいいんだと思います。あたしはもう、自分で選べるようになりましたから」

『ふふ、合格。あなたはあなたの道を進むのよ? 幸せになりなさい』


 黒猫は目を細め、くるりと背を向けた。


『では、名もなき薬師さん。良い人生を。貴女の選んだその道が、次の因果を紡ぐのだから』


 一陣の風が吹き、アンナが目を細めた瞬間に、黒猫の姿は消えていた。そこには、ただの静かな路地裏だけが残されている。


「……帰ろう」


 アンナは歩き出した。向かう先は、あの小さくて古い、けれど大切な自分の店だ。そこでまた、薬草を刻み、調合し、一つひとつ積み重ねていく。それが彼女の選んだ、この世界の一員としての矜持だった。


 物語は終わる。けれど、正しい理の上に築かれる日常は、ここからまた始まっていくのだ。

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