第11話 模倣の聖女~ある少女の誤読~
夕暮れの街は、いつもと同じ色をしていた。制服のスカートを揺らしながら歩く少女───ミサキ。どこにでもいる、ごく普通の女子高生。ただ一つ、他の者と違うことがあったとすれば。
「やっぱり、こういうのが一番いいよね」
彼女の手にあるのは、異世界の英雄譚を描いた一冊の物語本。そこでは、特別な力も持たない異邦人が、元の世界の知恵だけで無双し、人々に傅かれ、世界の中心となっていく。
「あたしなら、もっとうまくやれるのに」
くすり、と笑う。ページをめくる指は軽やかだ。本の中の主人公は、奇跡のような技術で周囲を驚かせ、感謝され、愛される。
現実は退屈で、自分は特別でも、選ばれた存在でもない。だからこそ、ページの向こう側の「輝ける自分」に憧れた。
───その瞬間だった。
強い光。耳を劈くような金属音。世界が、反転する。
次に目を開けたとき。そこは、物語で読んだような石造りの部屋だった。
「……え?」
起き上がると、そこには見慣れない衣服と、見たこともない天井。だが、不思議と恐怖はなかった。それどころか、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
(……来たんだ。あの世界に。選ばれたんだ、あたしが)
それからの日々は、驚くほど順調だった。言葉はなぜか通じ、身分も「聖なる娘」として都合よく整えられた。
そして何より、彼女の手元には「神の道具」があった。光る板───スマートフォン。繋がるはずのない世界の叡智が、なぜかそこには記されていた。
「抗生剤……作り方は……これね」
検索し、表示される情報をなぞる。専門的な用語の意味など理解する必要はない。ただ、書かれた手順通りに「結果」を模倣すればいいだけだ。
「なるほど、こうやるんだ。簡単じゃない」
材料を集め、手順を真似る。何度かの失敗の末に、それは形になった。そして───それは「効いた」。
「すごい……本当に治ってる……!」
人々が驚き、跪き、感謝の言葉を捧げる。「奇跡だ」「聖女様だ」という叫びが、ミサキの耳を心地よく震わせた。
(……やっぱり。あたしは、できる側の人間だったんだ)
間違っていなかったという確信。
それからの彼女は、欲望のままに「知識」をばらまいた。砂糖の製法、石鹸、簡単な薬品。物語の主人公がそうしたように、ただ検索して、作り、広める。
「すごい……」
「こんなもの、見たことがありません!」
称賛。富。地位。すべてが向こうから転がり込んできた。
「あたし、やっぱり才能があるんだわ。……だって、みんな助かってるじゃない?」
善意のつもりだった。使命感すら抱いていた。けれど、彼女は一度も考えなかった。
───なぜ、この世界にその技術が存在しなかったのか。
───なぜ、法やギルドという「壁」が築かれていたのか。
───自分がもたらした「結果」が、この世界の何を壊しているのか。
そんなことを知る必要もない。だって、自分は「正しい」ことをしているのだから。
「こんな遅れた世界、あたしが変えてあげなきゃ」
その言葉に、一点の曇りもなかった。だが、その一歩が、静かに、確実に、世界の理を歪めていた。その先に何が待っているのか。彼女は知らなかった。いいえ、知ろうともしなかった。
どこか高い場所から、一匹の黒猫が彼女を見下ろしていた。金色の瞳が、蔑むように細められる。
「……典型的な事例ね」
誰にも届かない、冷ややかな独り言。
「物語の“結果”だけを読み取り、そこに至るための“前提”を一切理解しようとしない。……積み上げられた歴史を無視して、薄っぺらな果実だけを盗み取る。愚かしいこと」
長い尾が、不快そうに揺れる。
「だからこそ───“調律”が必要になるのです」
風が吹き、物語のページが捲れるように、一人の少女の没落へと時が進む。これは、特別な聖女の成功譚ではない。
ただの、無知なる「誤読者」が消え去るまでの、当たり前の記録である。




