第10話 戻った日常と、調律師の旅立ち
王都に、日常が戻りつつあった。あの騒動が嘘のように、街は再び動き出している。だが、確かに“何か”は変わっていた。
広場では、あの日起きた出来事がまことしやかに語り継がれている。聖女の失墜、不透明な金、そして───説明のつかない知識を用いた「異端」の消失。人々は口々に語るが、その結論は常に一つに収束していく。
───「あれは、最初からこの世界の人間ではなかったのだ」と。
それでいい。それが、この世界の“整合”というものだ。人々の記憶から詳細は零れ落ち、ただ「秩序が守られた」という結果だけが刻まれる。
王都の外れ。かつて封鎖されていた小さな薬舗の扉が、静かに開いた。
「……よし」
アンナは、新しく掲げ直された看板を見上げて、小さく息を吐いた。手は相変わらず荒れているが、薬草を扱う指先に迷いはない。棚には丁寧に乾かされた薬草が並び、秤も元の位置に据えられた。すべては、以前と同じ。
「お、開いてるな」
背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、製薬ギルドのミラーが立っていた。
「ギルドからの正式な通達だ。営業再開の許可、それから……」
ミラーは少し気恥ずかしそうに咳払いをした。
「“正当な技術を持つ製薬師”として、ギルドの台帳に改めて記録された。……あの時は悪かったな」
「……ううん。あたしの方こそ、ご迷惑をおかけしました」
アンナは静かに頭を下げた。驚くでもなく、ただ受け入れる。その落ち着いた佇まいに、ミラーは怪訝そうに目を細めた。
「……なあ、アンナ。ずっと気になってたんだが」
「はい?」
「あの公開討論の時……お前、随分とはっきり『王の法』やら『因果』やらを語ってたじゃないか。あの時の凛とした物言いは、一体どこで身につけたんだ?」
ミラーの探るような視線。アンナは一瞬、きょとんとした顔を見せた後、困ったように笑って首を傾げた。
「えっ? ……あたし、そんなこと言ったっけ? 正直、あの時は頭が真っ白で、必死すぎてあんまり覚えてないんだよね。……たぶん、お父さんの残した本か何かで読んだことが、口から出ちゃったのかな?」
「……覚えてない? 本気か?」
「うん。気づいたら広場で座り込んでて……なんだか長い夢でも見てたみたい。あたし、変なこと言っちゃったかな?」
嘘偽りのない、純朴な下町の娘の反応。ミラーは拍子抜けしたように溜息をついた。
「……いや、いい。気のせいならそれでいいんだ。……変なことに首を突っ込むなよ。次は運がいいとは限らんからな」
「はは、気を付けるよ」
ミラーが去り、店内に静寂が戻る。アンナは作業台に向かい、薬草を手に取った。香りを確かめ、刻み、火にかける。原因があり、過程があり、結果として存在する薬。それが、彼女が選んだ世界の理だ。
その頃。誰もいないはずの教会の片隅で。
「……終わったわね」
長椅子の上、一匹の黒猫が優雅に尾を揺らしていた。金色の瞳に、赤いリボン。───リリーだ。
「主様、お疲れ様ー!」
ぱっと光が弾け、キラが無邪気に現れた。
「いやー、今回も綺麗に決まったね! あの『聖女様』、今頃元の世界で泣いてるんじゃない?」
「十分よ。過剰な演出は品を損ねるもの」
リリーは猫の姿のまま、落ち着いた声で返す。その背後で、影が静かに形を成した。
「……次の対象を選定しました」
ダークだ。感情を削ぎ落とした声で、淡々と報告を始める。
「“自由主義”を掲げる、ある転生者が一名」
「ふふ。面白そうじゃない」
リリーの瞳が、わずかに細められる。その笑みはどこまでも優雅で、そして冷徹だ。
「道理を無視して“自由”を振りかざす……よくある、醜い歪みね」
「また世界の秩序を壊してるやつだね! よーし、次も派手にいこう!」
「……騒がしくなりそうです」
光と影を従え、黒猫はゆっくりと立ち上がった。
「では、参りましょうか」
その一言で、空間がわずかに歪む。リリーは最後に一度だけ、王都の片隅でひっそりと灯る薬舗の明かりを振り返った。
「……正しい選択をしたわね、アンナ」
誰にも届かない言葉。調律師は、痕跡も名も残さない。ただ“整った結果”だけをそこに置き、次の歪みへと向かう。
三つの存在は、音もなく消えた。世界は何事もなかったかのように回り続ける。だが、どこかでまた歪みが生まれるたび、彼女たちは現れるだろう。静かに、確実に。───それは正されるのだ。




