其ノ肆『夜明け』
夜が明ける。
山の空気は冷たく澄み、白い霧がゆるやかに木々の合間を流れていた。
崩れた小屋の跡地には、砕けた木片と土塊が散らばり、かつての生活の名残だけが静かに残っている。
その中央、簡素に組み上げられた焚き火の傍で鬼道丸は目を覚ました。
「…ん」
ゆっくりと上体を起こす。
身体に痛みはあるが、意識ははっきりしていた。
ふと、昨夜の光景が脳裏をよぎった。
黒い瘴気。
己の内から溢れ出した『鬼』。
そして――壊れた小屋。
「……あ」
視線を上げた先、そこにあったはずの場所にもうかつての小屋はなかった。
もはや何も残されていない。
風だけが吹き抜ける空間。
その事実が遅れて、鬼道丸の胸を締め付ける。
「僕は…」
小さく呟き、拳を握る。
腕には何やら黒ずんだ痣が残されていた。
かすかに瘴気の残滓が滲んでいる。
「――起きたか」
聞き慣れた低い声が耳朶を打つ。
振り返ると、少し離れた場所にジンが立っていた。
唯一残された柱に背を預け、逞しい腕を組みながら鬼道丸へ視線を向ける。
身に纏う純白の装束、その左の肩口には乾いた血。
「師匠…」
鬼道丸は視線を逸らさず、立ち上がろうと床に手をつく。
「まだ全快じゃないだろう。寝てろ」
ぶっきらぼうなジンの声音。
鳥の鳴き声だけが、やけに遠く響く。
「…問題ないです」
短い応答。
だが、その声にはわずかな躊躇いが滲む。
ジンはそれ以上は何も言わず、ただ静かに鬼道丸を見据える。
やがて、ジンは何もない天井を見あげた。
「派手に壊れたな…」
ぽつりとそう呟く。
鬼道丸は息を呑み、何も言えずにただ顔を伏せた。
「結界は破られた。あの鬼――『朧』に場所も知られた」
「はい…」
「次も来るだろう」
確信しているジンの断言。
その言葉に鬼道丸の胸の奥がわずかに軋む。
「師匠…」
躊躇いながらも、鬼道丸はジンに呼びかける。
「師匠は止せ、と言っているだろう…」
いつもと変わらぬジンの返事。
しばらく鬼道丸は口を噤むも、すぐに意を決して、真剣な顔を上げた。
「僕はここを出ます」
はっきりとした声だった。
ジンの太い眉がわずかに跳ね、真っ直ぐに鬼道丸の顔を見返している。
「あの『鬼』の目的は――僕でした」
「……」
「そうしたら、次は――」
言葉を飲みこんだ。
断片的な昨夜の記憶が蘇る。
鬼化した僕は本気でジンのことを――。
「師匠が死ぬかもしれない…」
鬼道丸は静かに、だが確かな声音でそう告げた。
ジンはしばらく何も答えない。
怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも動揺しているのか。
ただ黙って鬼道丸を見ていた。
「それに…僕は自分のことを何も知らない…」
鬼道丸の視線が落ち、震える拳を強く握り締めた。
昨夜、朧に強制的に視せられた情景。
雨の夜。白髪の女。赤ん坊。
あれが何なのか――知る必要がある。
「『出雲ノ形見』って、何なのか」
「……」
「僕は何のために生まれたのか」
ゆっくりと顔を上げ、ジンを見遣った鬼道丸。
その目に迷いはなく、確かな覚悟が秘められていた。
「全部、知りたいんです」
言い淀むことなく、鬼道丸は己の決意を語る。
お前は『何者』だ――。
謎の鬼が語った言葉。
その答えを鬼道丸はまだ知らない。
「その上で――僕が『何者』なのかを見極めます」
その決意にはすでに、ジンの言葉を差し込む隙がないほどに固められていた。
しばらく逡巡するジン。
そして、ようやく口を開いた。
「俺には何も聞かないのか――」
重い声音が静かに響く。
鬼道丸はしばらく伏し目がちで黙る。
だが、鬼道丸はふと微笑を浮かべた。
そして、ジンの方を向く。
その顔は、いつもの鬼道丸の情けない笑顔。
「それは――『楽な道』でしょ、師匠…」
意地悪そうに笑う鬼道丸。
その顔は紛れもなく、ジンを師と仰ぐ弟子の表情。
強くなった鬼道丸を見詰め、静かにジンは込み上げる感情を飲み込んだ。
「貴方が教えてくれたことです。僕は貴方の教え通りに自分の力で知りたいんです…」
もう己の手を離れる覚悟を固めた。
それでいて、どこか穏やかな表情。
もはや言葉さえも――無粋。
ジンはどこか悲しげな、それでいて誇らしい表情を浮かべた。
「そうか…」
たった一言。
彼はおもむろにその場を離れる。
崩れた小屋の残骸を手で取り除き、小屋の中でごそごそと何かを探し始める。
鬼道丸は何も言わず、その背中を静かに見詰めた。
そして――ジンは地面の中から土塊に塗れ、白い布でくるまれたひとつの包みを持ち上げた。
その白い包みには、何かが入っている様子。
ジンは黙って、その白い包みを鬼道丸に手渡した。
「…これは?」
「広げてみろ」
不思議そうにジンを見上げた。
対して、ジンは真顔でそう告げる。
鬼道丸は白い包みを見下ろし、固く結ばれた紐を解くと、中には――白拵えの鬼斬刀が一振りときれいに畳まれた一着の灰色の狩装束。
ふと鬼道丸は白い鬼斬刀を手に取る。
重い――
木刀とはまるで違う感覚。
柄を掴むと、静かに引き抜いた。
すらり、と鞘を滑るように刀身が現れる。
そこに『灰雲』という二文字が刻まれていた。
「…〝灰雲〟?」
「お前の刀だ」
短く告げたジンの目に柔らかな光が宿る。
「いつか今日のような日が来ると思っていた」
そう言って、ジンは初めて鬼道丸に笑みを浮かべた。
「俺からの餞別だ。受け取れ、鬼道丸」
「…ジンさん」
しばらくの沈黙――。
不意にジンは視線を逸らした。
「俺は――お前を信じているぞ…」
ぎこちない笑みを浮かべ、ジンは言う。
ジンらしい。
真っ直ぐな飾り気のない不器用な言葉。
たった一言だけ。
だが、鬼道丸の心がわずかに軽くなった気がした。
――僕は『ひとり』じゃない。
ジンの手が迷いなく鬼道丸の背中を押した。
たとえそれが残酷で、厳しい道程になると分かっていても――。
〜
鬼道丸はジンと暮らした地を後にする。
物心ついた頃から、鬼道丸はジンとふたりで暮らしていた。
彼はここで育ち、
寝食を共にし、
そして――師の剣を修めた。
寂しくない――といえば、嘘になる。
だが、ここにいてはいつまでも『守護られる』だけの存在。
そして、己の存在がジンとの平穏な日々を壊した。
ここにいてはいけない――
そう鬼道丸は悟った。
ここから先、鬼道丸は未知の世界に、足を踏み入れることになる。
『朧』のような――凶悪な鬼が蔓延り、人々を脅かす『現世』。
『半鬼』の自分に居場所があるのかさえ分からない。
――それでも『往く』。
色の抜けた白髪に灰色の狩装束、首には赤い襟巻を巻いた『半鬼』の少年。
その腰には師から授かった白拵えの鬼斬刀を差している。
鬼道丸は今日この場所から、『鬼狩り』として守られるだけの山を降りる。
彼は生まれて初めて、結界の外へ足を踏み出す。
不意に踏み出した足が躊躇うように止まりかける。
だが、鬼道丸はすぐにその躊躇いを――『境界』を踏み越えた。
その背中は確かに『人』――
しかし、どこか黒い影が滲んでいる。
彼が最も欲しているのは――『普通』。
〜
鬼道丸は程なくジンの許を去った。
ジンは敢えて彼を見送らなかった――
それは、もはやこの地が鬼道丸の帰るべき場所ではないからだ。
そして、ジンの存在は鬼道丸の門出の足枷となる。
それを理解するジンは敢えて鬼道丸の前に姿を現さなかった。
――もしその背中を見てしまえば、引き留めてしまうかもしれない。
ジンは己の『弱さ』を自覚している。
ひとり残されたジン。
崩れた小屋の跡地、静かに腰を据えていた。
かつて鬼道丸と過ごした日々。
跡形もなく、残るのは散乱する木片と砕けた土。
これでよかった――
そうジンは胸中で言い聞かせる。
鬼道丸は『強い』。
『半鬼』という悲運の身の上。
それでも『人』であろうと、己の足で力強く踏み留まっている。
この手で斬った姉――彼女と同じ『強さ』。
言い知れぬ表情でジンはおもむろに天を仰いだ。
赤ん坊の頃から一緒だった。
子育ての経験はなく、すべてが不慣れな毎日。
鬼を『断つ』刃としてではなく、
ひとりの血の通った『人』として、ジンはひとりの鬼狩りを育てたのだ。
その巣立ち――誇らしく思う。
幼き頃の鬼道丸を思い返し、ジンは笑う。
〝雲〟が流れてゆく。
ゆっくりと、だが確実に――。
「死ぬなよ、鬼道丸――」
もはや鬼道丸には届かぬジンの言葉、その微かな響きが快晴の空に吸い込まれていった――。
――序章『半鬼ノ少年』 完




