其ノ漆『夢現』
夢の中でも師は変わらず。
夢を見ていた――。
それを夢だと気付くまで時間は要しなかった。
ただ、その感覚は夢と呼ぶにはあまりにも〝現実〟と区別がつかぬほどに鮮明だった。
土の匂い、湿った地面、差し込む木漏れ日。
鬼道丸はその中に立っていた。
「まだ、迷っているのか」
ふと懐かしい声音が背後で響く。
優しさでも慰めでもない感情が籠る低い声音。
振り返る前から、それが誰だか分かった。
ジンの変わらぬ立ち姿がそこにある。
無駄のない気配。
そこにいるだけで安息を感じる。
その背後、今は無きジンの小屋が佇んでいる。
「師匠…」
「師匠は止せ」
顔色ひとつ変えず、ジンは答えた。
懐かしいやり取り。
だが、続く言葉が出てこない。
「僕は…」
何を問えばいいのかさえ、曖昧だった。
山を下り、いろいろなことを経験した。
初の鬼との実戦、『人』から向けられた本気の殺気、『鬼』の脅威に怯える村の存在――。
もう何も知らない『半鬼』の少年ではない。
話したいことはたくさんある。
だが、どれから話せばいいのか。
ジンは迷いを見せる鬼道丸を静かに見詰めた。
気休めの言葉など意味を為さない。
そこにあるのはジンの静かな眼差しだけ。
静寂が訪れ、微かに風だけがふたりの間を吹き抜けた。
「お前はお前だ。他の何者でもない」
ふとジンが口を開いた。
「必ず道はある。ただ信じた道を進めばいい」
真っ直ぐに鬼道丸を見遣るジンの目。
そこに嘘はない。
揺るぎない意思が宿っていた。
その目を見、鬼道丸の胸の奥で何かが疼いた。
恐れか、迷いか。
それすら曖昧な揺らぎ。
それを見透かされた気がした。
「忘れるな。お前には俺がついている」
無駄のない真っ直ぐな言葉。
「――胸を張れ」
師としての教え――その言葉は鬼道丸の心に深く突き刺さった。
山を離れて尚、ジンは鬼道丸の心の拠り所。
進むべき道であり、目指すべき到達点。
そして、鬼道丸が帰るべき場所でもあるのだ。
「――はい!」
力強く鬼道丸は返事を返した。
満足そうに頷いたジン。
その表情には鬼道丸への信頼が滲んでいた。
そのとき、視界がぐにゃりと歪んだ。
ジンの輪郭が崩れ始める。
木々が解け、山の風景が緩んでいく。
世界が――遠ざかる。
鬼道丸が目を開く。
◇
白、天井。
薬草の匂い。
気が付くと、鬼道丸は『医術所』の寝台の上に寝そべっていた。
昨夜、『医術所』内へと芒に案内された鬼道丸は軽い措置を施された後、この寝台に寝そべった。
それから眠りにつくまでの記憶がない。
末吉の村を出てから休めた夜は数えるしかなかったからだろう。
おもむろに起き上がった鬼道丸が周囲を見渡す。
薄い障子越しに差し込む光。
それが白い壁を柔らかく照らしている。
水が流れる音や器が触れ合う音、何かを刻む規則正しい音が遠くから聞こえてくる。
(朝か――)
鬼道丸が胸中で独りごちた。
無意識に首元へと手が伸びる――そこには確かに『赤い襟巻』が巻かれていた。
あの山の空気はない。
ジンの気配も感じることができない。
だが、たった一言。
――〝胸を張れ〟
ジンの声が脳裏を過る。
思わず鬼道丸の表情が緩んだ。
そのとき、スーっと薄い障子が開かれたかと思えば、そこには御膳を運ぶ芒の姿があった。
「あ…」
わずかに目を見開いた芒が鬼道丸を見遣る。
「お目覚めでしたか」
「…おはようございます」
芒の登場に鬼道丸は即座に飛び起き、寝台の上で正座の姿勢を取る。
「朝餉をお持ちしました」
そう言うと、芒がおもむろに手に持つ御膳を鬼道丸の眼の前に置く。
そこには握り飯がふたつ。
作りたてなのか、仄かに湯気が立っている。
穏やかな朝――イチ婆の家に滞在していた時にも感じた人の〝温もり〟を再び感じた。
「そ、そんな…朝餉まで…」
遠慮がちに鬼道丸が芒を見る。
「遠慮せずに召し上がってください」
その様子を見、芒が細い手で口元を隠しながらフフと柔らかに笑う。
鬼道丸よりも年上なはずの芒。
だが、その笑顔はまるで少女のようだった。
「では、他の配膳もありますので」
小さく頭を下げた芒。
そのまま部屋を後にする。
スーっと障子を閉めると、芒の気配が廊下の奥へと遠ざかってゆく。
「有難く…」
静かに手を合わせた鬼道丸。
「いただきます」
そう言うと、握り飯をひとつ手に取り頬張った。
絶妙な塩加減。
炊きたての米の仄かな甘み。
非常に美味。
すぐにふたつの握り飯を平らげてしまった。
◇
ちょうどその頃――。
障子の奥がわずかに騒がしくなる。
ひとりの男が『医術所』へやってきたようだ。
その気配――鬼道丸も知っていた。
スタンッと開け放たれた障子。
そこには昨日と変わらぬ姿の香坂の姿があった。
その傍らには芒が控えている。
「休めたかね?」
「…お陰様で」
鬼道丸は上目遣いのまま、頭を下げる。
「君が助けた第一陣の彼から、『土蜘蛛』についての情報を聞き出す。君も来たまえ」
「はい…!」
二つ返事。
思いもよらぬ誘い。
――迷う理由がなかった。
すぐに鬼道丸は立ち上がる。
香坂は満足そうに小さく頷く。
その表情はどこかジンにも似た感情が滲む。
彼は経験の浅い鬼道丸に〝鬼狩り〟としての教えを託そうとしているように見えた。
芒の案内のもと、香坂と鬼道丸は『医術所』の廊下を進む。
重傷者ほど奥へと通されるのだろう。
奥に進むにつれ、血の気配が濃くなった。
薬の匂いが混ざり合い、つんと鬼道丸の鼻を突く。
「こちらです」
不意に芒が立ち止まる。
そこには寝台の上に横たわる包帯だらけの男がいた。
昨夜、鬼道丸が救った男だ。
痛々しい傷の跡。
全身に巻かれた包帯には乾いた血と膿が滲む。
呼吸は浅く、わずかに開かれた目の焦点は疎らだ。
「――来たか」
床に伏す彼を腕組みしながら見下ろすひとりの男が、香坂を見ると低く呟いた。
短い白髪に窶れた横顔、眉間には深い皺が刻まれている初老の男。山葵色の着物の上から白衣を着込み、腰には薬籠を吊り下げている
この『医術所』の責任者、医術師――『薬師寺玄朴』の姿がそこにあった。
「玄朴殿。朝早くからすまない。彼の様子は?」
軽く会釈し、香坂が静かに問う。
「妙だ――傷の措置は終えているのだが、容体が一向に安定しない。今はなんとか薬で落ち着かせておる状態だ…」
香坂の問いに、玄朴は端的に答える。
「原因は?」
「不明だな」
寝台に歩み寄った香坂がそこに横たわる満身創痍の『野良狗』を見る。
「私の名は香坂菊次郎。【華ノ国】の鬼狩りだ」
静かに名を名乗った香坂。
落ち着いた様子で、さらに続ける。
「どんなことでも構わない。第一陣の生存者として、当時の状況について教えてくれ」
その声に『野良狗』の目がわずかに動く。
香坂を見るや、その瞳にみるみる光が宿ってゆく。
「あんた、正気か?」
第一声は冷淡なものだった。
「また、あそこへ誰かを送り込むつもりなのか?」
「………」
ぴくり、と香坂の背がわずかに震えた気がした。
鬼道丸は香坂の背後――。
黙ってその会話を聞くことしかできなかった。
「ありゃ『人』がどうにかできる相手じゃねぇ。俺達は手も足も出ず、奴等の〝糸〟に絡め取られちまった…」
その『野良狗』の目に恐怖が滲む。
遠くを見るその目にかつての記憶が過ったのか。
そして、今にも泣き出しそうに顔を歪めると、『野良狗』は両手で顔を覆った。
がちがち、と歯の根が合わぬ音が響く。
「『蜘蛛之巣』に着くまでは何もなかった。ただ気味の悪い森を進んでいたんだ…」
震える声で『野良狗』は続ける。
「その森の奥に、廃れた古い屋敷があった…。崩れかけで、至る所にクモの巣が張ってた。如何にも『土蜘蛛』の巣って雰囲気だったよ…」
『野良狗』の呼吸が乱れる。
「異変は屋敷に踏み込んだ時からだ。気付けば、俺達は地中から這い出してきた蜘蛛の群れに取り囲まれていた…そして――」
その一言一句を聞き逃さぬように香坂は何も言わず、静かに『野良狗』の言葉に耳を傾けている。
「ひとり、またひとりと糸に絡め取られて、何も出来ずに屋敷の中に引き摺り込まれちまった…瞬く間に俺達〝第一陣〟は壊滅さ」
重い空気が漂う中――香坂や鬼道丸、玄朴達は静かに『野良狗』が語る当時の情景を思い浮かべた。
彼の感じた恐怖や絶望は計れ知れない。
『鬼』の根城に踏み込み、次々と姿を消す仲間。
『土蜘蛛』を討つはずがまるでクモの巣に捕まった獲物のように為す術もなく〝捕食〟されてゆく。
「俺は逃げた――仲間を見捨てて、逃げ出したんだ。脇目も振らずに森の中を走ったさ。だが、後ろから女の笑い声が追ってくるんだ。その間に全身を切り刻まれた」
鬼道丸はふと男の体に目をやる。
全身に巻かれた包帯。
そこには赤黒い血の痕が滲む。
止血は済んでいても、痛々しい傷跡が想像できた。
追手の双子ノ女鬼は彼を弄んでいたのか?
――ふと、鬼道丸は違和感を覚えた。
あの鬼の技ならば、逃げる『野良狗』の頸を刎ねることなど造作もないはずだ。
なのに、しなかった。
わざと致命傷を避け、【華ノ都】付近の街道まで追ってきたということか。
言い知れぬ不安が胸を締め付ける。
何故そんなことをする必要があったのか。
思考する中、突如として『野良狗』が激しく咳き込み始めた。
「ゴホッ!ゴホゴホ!」
血痰を吐き、苦しげに顔を歪める。
すぐさま玄朴と芒が彼に取り付いた。
「芒…」
「はい」
芒が『野良狗』の上体を起こして気道を確保する。
その間に玄朴は脈を測り、腰から吊り下げた薬籠から素早く薬瓶を取り出す。
慣れた手つきでその薬瓶の栓を抜くと、中の薬を『野良狗』へと半ば強引に飲ませる。
「ここまでだ。一旦、退出してくれ」
振り返り、険しい表情で香坂を見る玄朴。
「承知した…」
低く応じ、隣の鬼道丸を見た香坂が部屋を後にする。
鬼道丸も香坂に続き、部屋から出た。
「君はどう見る?鬼道丸くん」
廊下に出ると、香坂が短く問うた。
それは生存者の証言をどう見るか、というもの。
正直、『土蜘蛛』討伐に有益な情報はなかった。
第一陣は根城に踏み入ると同時に壊滅――『土蜘蛛』本体との交戦はなく、どんな姿をしているか、どんな鬼術を持っているのかさえも不明。
いまだ未知数――というのが現状だ。
「分かりません」
鬼道丸は正直に答えた。
だが、彼の中の〝違和感〟が何かを訴える。
「ただ――あの人は〝生かされた〟んじゃないかな、と思うんです」
やや眉をひそめ、自信なさげにそう続けた鬼道丸。
「と、いうと?」
香坂の目に興味の光が走る。
「風を使うあの女鬼――あれほどの技量がありながら、なぜ【華ノ都】まであの人に致命傷を与えなかったのか…」
あのときは彼を助けることで精一杯。
そんなことに思考を巡らせる余裕などなかった。
だが、今考えれば、不自然なことに気付く。
香坂もまた、彼を救出する任務を帯びていた――あの場にいた誰もが〝彼を助ける〟という目的の為に動いていたのだ。
「奴等は〝わざと〟彼を生かしたということか」
「はい。あくまであの人の話を聞く限りの憶測ではありますが…」
ふむ、と香坂が何やら思案顔をする。
(鬼側が彼を生かす理由――恐怖の伝播か…それとも我々への牽制か?)
無意識に怖い顔になった香坂が黙り込む。
(彼に鬼化兆候はなかった。それは玄朴殿から聞かされている。だがもし『土蜘蛛』側が〝彼を使って〟何かを企んでいるのならば――)
無視できない重大な懸念事項となる。
ざわ――嫌な感触が背筋を這いずった。
スッと不意に視線を逸らした香坂。
その表情には明らかに焦りが滲んでいた。
「念の為、彼には監視を付ける…」
そう言って香坂は急いで踵を返した。
「今日の聞き取りは終了だ。玄朴殿にはそう伝えておいてくれたまえ」
ばさ、と袖無し羽織を靡かせながら香坂が足早に『医術所』の廊下を進んでゆく。
その手は鬼斬刀の柄に添えられ、指で柄頭を叩く。
わずかな苛立ちを滲ませた香坂が振り返ることもうなく、急ぎ足で廊下の先へと遠ざかっていった。
「わかりました」
鬼道丸は静かに返事を返す。
その頃にはすでに香坂の姿は消えていた。
部屋の中から聞こえてくる激しい咳き込みと、玄朴と芒の冷静なやり取り。
じわじわ、と『土蜘蛛』の悪意の糸が【華ノ都】に迫ってきていた。
そして、鬼道丸の中でも〝違和感〟だけが残される。
◇
同刻――第二陣の参加者達に立花家の国主屋敷への招集命令が下されていた。
それは『土蜘蛛』討伐に向けた軍議の開催に加え、第二陣の面々の顔合わせも兼ねた召集。
呼び出された第二陣の人数は――〝七名〟
鉄左衛門は第一陣の壊滅を教訓とし、数に頼った力押しではなく、第二陣の編成は実力者のみに絞った少数精鋭に舵を切ったのだ。
この〝七〟という数字――
それが現状【華ノ都】に集った『野良狗』の中で『土蜘蛛』討伐に向かう資格ある者として数えられる人数を意味した。
無論、第二陣の参加者名簿には腕に覚えのある血気盛んな『野良狗』達の名が連ねている。
皆、各人各様の実力と信念を持つ強者達の名だ。
そして、その末尾に記された名は――
〝鬼道丸〟
――第壱章其ノ漆 完
鬼道丸の違和感。
それは当たらずとも、遠からず。




