其ノ陸幕間『雁字搦め』
鬼道丸と別れた香坂菊次郎は真っ直ぐに都の中心地――国主『立花鉄左衛門』の住まう『国主屋敷』へと足を進めた。
民の生活感溢れる『居住区』を過ぎ、華やかな光に照らされた『華街区』へ――。
夜を彩る赤提灯と遊女の甘言、行き交う者達は先程とは違い、上等な着物に身を包む者達が目立つ。
裕福な商人や商家の若旦那、見知った顔もちらほら。
三味線の音色が弾け、笑い声が爆ぜる。
皆、遊興の為にこの国へやってきている。
この国の現状を知る者として、この光景は異様なものに見えた。
彼らが遊女と遊ぶ傍ら、外では『野良狗』が死んでいる――そんなことなど露知らず、彼等は一時の快楽を得る為に遠路遥々この地を訪れているのだ。
その金で救える命もあるだろうに。
(呑気なものだ――)
そんな光景に視線を巡らせ、香坂はふと小さく鼻息を吐いた。
しかし――この国を維持する為には彼等の存在が不可欠という現実。
遊郭が国として形を成した歪な体系がこの矛盾を生み出しているのだ。
『華街区』を進む香坂は軒を連ねる絢爛な遊郭になど目もくれず、真っ直ぐに国主屋敷へと急いだ。
国主屋敷は遊郭に囲まれた小高い丘の上に佇んでいる――屋敷を囲む高塀と浅めな濠、正面には黒鉄補強の立派な正門がそびえ立つ。
国主の威厳を感じさせる厳格な佇まい。
豪華絢爛とは程遠い、静かに威圧感を湛えていた。
この国を治める『立花家』はかつて【火ノ国】から多くの鬼狩りを輩出した名門の家系だ。
現国主『鉄左衛門』は二代目であり、初代国主『立花金右衛門』はかつて【火ノ国】の上席格にまで上り詰めた英傑。
鬼狩りとなって間もない頃、何かと世話になった。
今となっては己も準上席格――この国の鬼狩りのなかで最も格上になってしまった。
その間、多くの仲間を失った。
(私も年を取ったということか――)
自嘲気味に苦笑した香坂は厳かに正門を潜る。
両脇に立つ門番達は顔色ひとつ変えず、深く一礼をし、香坂の帰還を迎えた。
門をくぐると、そこには表屋敷。
国主の名に恥じぬ厳格な雰囲気の木造家屋があり、その正面玄関からちょうど先に報告に来ていた猪狩松太郎が現れた。
短い黒髪を後ろ手に纏め、眼鏡を掛けた青年の鬼狩り。少々臆病な面があるのが否めないが、それでもこの若さで中席格の実力を有する有望な鬼狩りだ。
そんな彼は香坂の姿を見るや、眼鏡越しに目を見開く。
「香坂準上席…」
「報告御苦労だ。松太郎」
ここで彼と会ったということはすでに国主への報告を終えたということ。
香坂は静かに労いの言葉を彼に投げかけた。
「はい。任務報告は済ましてあります」
「うむ。では、先に詰所へ戻っておいてくれ」
頭を下げた松太郎はそのまま正門へと歩き出し、香坂は国主屋敷へと足を踏み入れる。
正面玄関から上がった香坂は広い廊下を進み、真っ直ぐに鉄左衛門が控える『華ノ間』へと向かった。
「香坂菊次郎、参りました」
『華ノ間』に到着した香坂は襖の前で名乗りを上げると、中から「入れ」と低い声が聞こえる。
襖を開けると、そこには畳敷きの大広間の上座に腰を据える【華ノ国】国主――『立花鉄左衛門』の姿があった。
白髪混じりの黒髪に髭を蓄えた厳格な顔立ち、大柄な体躯に身に纏う黒装束と陣羽織――武人然とした男が真っ直ぐに香坂を見詰めていた。
香坂はそのまま『華ノ間』へと足を踏み入れ、鉄左衛門の真正面まで歩を進めると、ばさりと袖無し羽織を翻しながら、その場で胡座をかいて座った。
「報告は松太郎から聞いておいでで?」
ちらり、と香坂が鉄左衛門を見遣る。
その問いに鉄左衛門は深く頷いた。
「件の『野良狗』、傷は深かったようだが、一命は取り留めたと聞いておる」
第一陣の壊滅、その事実に鉄左衛門は内心穏やかではないようだ。
深い皺が眉間に刻まれていた。
「意識が戻り次第、『土蜘蛛』について情報を聞き出すよう松太郎に伝えた」
「その件ですが…私にお任せいただいても?」
互いの視線が交差する。
香坂に何か考えがある様子。
「構わん。ならば、お前に任せる」
鉄左衛門は深くは問わず、了承した。
「ありがとうございます」
礼を返す香坂。
そんな彼を見つめる鉄左衛門がふと目を閉じ、眉間を指で押さえた。
「第一陣は総勢一五名だったな。菊次郎」
鉄左衛門が問う。
「…はい」
視線を逸らさず、香坂は答える。
「だが、帰ったのは一名だけ。残る者は全滅か?」
低い声音に宿るのは怒りでも悲観でもない。
長年多くの死の報せを受ける者の静かな疲弊が滲んでいた。
この残酷な現実を受け入れる為。
分かっていながらも鉄左衛門は香坂に聞いた。
それは香坂への信頼の証でもある。
「そう考えるのが自然かと…」
顔色ひとつ変えず、香坂は淡々と告げた。
気休めの言葉など何の意味も為さない。
それを理解する香坂はそう告げると、しばらく黙った後に再び口を開いた。
「鉄左衛門殿。もはや『野良狗』だけでは現状は打開できませぬ」
そう語る香坂の目に鋭い眼光が宿った。
静かな声音だが、そこには彼の覚悟が滲んでいた。
「…お前が出る、か?」
「そのつもりです。第二陣の編成は?」
即答だった。
その上で次の手を考えている。
「すでに編成済みだ。だが、今お前を失えばこの国は終わる。もし『土蜘蛛』が攻勢に出れば、誰がこの国を守護るのだ?」
香坂はこの国にとって最も腕の立つ〝鬼狩り〟。
その存在は国防の要といっても過言ではない。
万が一、その要を失えば――【華ノ国】は『土蜘蛛』の手勢によって完膚なきまでに蹂躙されるだろう。
「ですが、第二陣として『野良狗』だけを送り込んでも恐らく今回の二の舞となりましょう。事態の解決にはなり得ません」
香坂の見立ては正しい。
だが、鉄左衛門の考えもまた間違ってはいなかった。
「加えて、『土蜘蛛』は人を喰らって手勢を増やしているとの情報もあります。下手な戦力投入は相手に餌を与えるようなもの。ここで腹を括らねば…」
香坂の決意は揺るがなかった。
【華ノ国】を預かる筆頭鬼狩りとしての矜持。
何より『土蜘蛛』という強大な鬼を前に、何もせずにいるのは香坂にとって拷問に等しい。
己だけ結界に守護られた安全地帯にいては、他に示しがつかない。
そう考えていた。
「お前の気持ちも理解はするがな…」
しばらく腕を組み、伏し目がちに黙考していた鉄左衛門がふと視線を上げると、神妙な面持ちで香坂を見遣った。
「「第二陣派遣が終結するまで、準上席格香坂菊次郎には【華ノ都】の守護を命ずる――」
有無を言わせぬ固い声音。
「承服しかねます」
「すでに決まったことだ」
鋭い視線が交差する。
「よいな?菊次郎…」
一国の主としての厳格な下命――この国の鬼狩りを束ねる者として従わざるを得ない。
ぎり、と香坂は歯噛みする。
香坂は滅多に見せぬ静かな怒気が滲ませた。
が、すぐに諦めたように香坂は目を伏せる。
「承知――」
苦渋を呑み込み、香坂は静かに頭を下げた。
感情だけで動く訳にはいかない。
肩書きを背負った者の歯痒い返答だった。
「分かってくれ」
重荷を背負う男の硬い声音。
【華ノ間】に気まずい静寂が訪れる。
お互い、付き合いは長い――。
言葉にせずとも胸のうちに秘めた思いは大方は理解できる。
どちらも正しいからこそ、苦しいのだ。
「して、さきほど西門の門番からも報せがあった」
ふと鉄左衛門が重い口を開いた。
「妙な『野良狗』の少年を連れて来たそうだな」
「はい。彼は先の任務、私と松太郎が到着するまで第一陣の生存者を鬼から護ってくれました」
香坂は淡々と続ける。
「ほう――」
興味を示すように鉄左衛門が切れ長の目を細めた。
「相手は『土蜘蛛』配下の双子鬼です」
「あの厄介な小娘どもか。腕は確かなようだな」
「私の見立てでは――既に中席格を凌ぐものと考えております」
そこで鉄左衛門はわずかに目を見開いた。
香坂にここまで言わしめる『野良狗』。
彼の眼識は鉄左衛門も一目を置いている。
だからこそ、〝中席格を凌ぐ〟という言葉に驚く。
それ即ち――準上席格である菊次郎に匹敵する存在であることを意味した。
「名は?」
「鬼道丸――と名乗っておりました」
「聞かぬ名だな…」
ふむ、と鉄左衛門の視線が天井を仰ぐ。
「出自は?」
「語りません」
その返しに鉄左衛門がふと怪訝な表情を見せた。
「大丈夫なのか?」
鉄左衛門の静かな問い。
それに対し、香坂は「はい」と迷いなく答えた。
「確かに危うさはあります。ですが、それは他の『野良狗』とて同じこと――」
つまり鬼道丸の危うさを知りながら、香坂は【華ノ都】へと受け入れたということ。
鉄左衛門の知る香坂は本来そのようなことをしない男だからこそ、鬼道丸という名の『野良狗』の異様さが際立った。
「守護結界も通過し、ある程度の身の保証はあるものと考えます」
鉄左衛門はまだ納得しきっていない様子。
「少々、見識不足は否めませんが、それも若さ故――その点を差し引いても只の『野良狗』として扱うには無視できぬ程の才覚がある」
率直な感想――香坂の言葉に嘘はひとつもない。
「次なる〝第二陣〟の編成に加えるべきかと…」
その言葉に黙って耳を傾けていた鉄左衛門。
ふと身を乗り出すと、鋭い目で香坂の瞳のさらに奥を見据えた。
「信じてよいのだな?」
鉄左衛門が低く問うた。
その声音に重みが滲む。
出自不明の『野良狗』。
腕が立つからと、懐に入れるのは早計だ。
吉と出るか、凶と出るか――。
「すべての責は私が負います」
強い意思が宿る目で香坂は鉄左衛門を見返した。
「分かった――」
その答えを聞き、鉄左衛門が目を閉じる。
香坂は黙したまま、鉄左衛門の次の言葉を待った。
しばらくして、鉄左衛門が目を見開く。
「ならば、その鬼道丸という『野良狗』はしばらくお前の預かりとする。見極める価値はありそうだ」
低く、だがはっきりとした声音。
「但し監視をつけろ。都内での行動も制限をかける。所在を常に明確にするのが条件だ」
「すでに『医術所』に身を置かせております。何か異変があれば報告があるでしょう」
「よし。ならば、第二陣への加入も視野に入れておく」
熟考の末、鉄左衛門は鬼道丸の沙汰を言い渡した。
「しかし――」
不意に鉄左衛門が言葉を切る。
「分からんな。その鬼道丸という少年の為にお前がここまで動く理由はなんだ?」
眉をひそめ、怪訝な眼差しを向けた鉄左衛門。
その問いに香坂はフッと口元を緩めて見せた。
我ながら無理な采配だ、と自覚していた。
しかし、今は国そのものの存亡の危機。
多少の無理を通さねば、状況は何も好転しない。
――いつの世も、時代の流れを変える者は何の前触れもなく姿を現すものだ。
出自不明、所属不明。
世を知らぬ純粋な少年。
肩書きに縛られた己にはない――〝可能性〟
彼が【華ノ国】を救うかもしれない。
無論、明確な根拠がある訳ではない。
それでも香坂の中に確信にも似た予感があった。
「〝勘〟――ですかな…」
冗談めいた香坂の返答。
あながち間違いでもなく、その証拠に香坂の顔は真剣そのもの。
「笑えんぞ」
対し、鉄左衛門は苦笑気味に口元を歪めた。
お互いに己の責務と信念の狭間で揺れ動き、思うように身動きできぬ雁字搦めの男がふたり。
そんな重く張り詰めていた【華ノ間】の空気が、このときだけはほんのわずかに緩んだ。
――第壱章其ノ陸幕間 完




