第九十五話 ローマ軍が兄弟の合流を阻止しようとしたので、二つのカルタゴ軍が同時に動いた
紀元前207年。
イタリア中部。
ハンニバル軍は、慎重に北上していた。
一方、ハスドルバル軍も南下を再開していた。
両軍の距離は、少しずつ縮まっている。
だが、その間にはローマ軍がいた。
俺は地図を見つめた。
「……あと少しなんだけどな」
メルカルが尋ねた。
「あと何日ですか?」
「予定どおりなら、十日ほど」
「予定どおりなら?」
「戦争で予定どおりに進むことなんて、滅多にないからね」
ハンニバル軍の陣営。
偵察兵が報告した。
「前方にローマ軍が布陣しています!」
ハンニバルは地図を確認した。
「兵力は?」
「正確には不明ですが、相当数です!」
ハンニバルは頷いた。
「……やはり、阻止しに来ましたか」
俺は軍議に参加した。
「正面突破は危険ですね」
ハンニバルが頷いた。
「敵もそれを期待しているでしょう」
「では?」
ハンニバルは地図を指差した。
「敵を動かします」
俺は顔を上げた。
「……どうやって?」
ハンニバルは少し笑った。
「敵に、こちらが別の場所を攻めると思わせるのです」
ハンニバルは、一部の騎兵を別方向へ派遣した。
さらに、複数の街道で偵察活動を活発化させた。
ローマ軍は、カルタゴ軍の進路を判断できなくなった。
「敵は東へ向かうのか?」
「いや、西の街道にも騎兵がいる!」
「ハンニバルの主力はどこだ?」
ローマ軍の指揮官たちは、情報を集め続けた。
俺は、その間に補給部隊を移動させた。
荷車。
食料。
馬の飼料。
そして、負傷者。
メルカルが尋ねた。
「……これで敵を騙せるんですか?」
俺は答えた。
「騙すのはハンニバルの仕事だよ」
「では、私たちは?」
「騙したあとに、ちゃんと進軍できるようにする仕事」
メルカルは苦笑した。
「地味ですね」
「地味だけど、重要だよ」
数日後。
ローマ軍の一部が、別方向へ移動した。
俺は報告を聞いて頷いた。
「……動いた」
ハンニバルも地図を見つめていた。
「今です」
カルタゴ軍は、夜明け前に進軍を開始した。
主要街道を避け、丘陵地帯を通る。
兵士たちは静かに歩いた。
馬の蹄には布を巻いた。
荷車の数も減らした。
俺は、補給部隊の後方からついていった。
「……頼むから、見つからないでくれ」
メルカルが小声で言った。
「声が大きいですよ」
「……ごめん」
だが、完全に気づかれずに進むことはできなかった。
昼過ぎ。
ローマ軍の騎兵が現れた。
「敵の偵察隊です!」
ハンニバルはすぐに騎兵を出した。
短い戦闘が起きた。
ローマ軍の偵察隊は後退した。
だが、これで進軍方向が知られた可能性がある。
俺は眉をひそめた。
「……急がないと」
そのころ。
ハスドルバル軍にも連絡が届いていた。
『ハンニバル軍、北上中』
『予定の合流地点を変更』
『新しい合流地点は、ウンブリア南部の丘陵地帯』
ハスドルバルは書簡を読んだ。
そして、静かに言った。
「……兄上が来る」
将校が頷いた。
「はい!」
ハスドルバルは命じた。
「進軍を急ぐ。
ただし、敵との決戦は避けろ」
数日後。
俺たちは、合流地点の近くへ到着した。
だが、問題が起きた。
メルカルが報告書を持ってきた。
「アドン殿!」
「どうした?」
「ハスドルバル軍の到着が遅れています!」
俺は顔を上げた。
「……何?」
「ローマ軍の部隊が、進路を塞いでいるようです」
俺は地図を広げた。
「……ここか」
ハスドルバル軍の前方には、ローマ軍がいた。
しかも、別方向からも増援が接近している。
俺は眉をひそめた。
「……このままだと、また戦闘になる」
ハンニバルへ報告すると、彼は静かに頷いた。
「ならば、こちらから動きましょう」
俺は尋ねた。
「どうするんですか?」
ハンニバルは地図を指差した。
「弟を阻止しているローマ軍の側面へ進みます」
俺は息を呑んだ。
「……挟み撃ち?」
「敵がこちらの接近に気づかなければ、可能です」
「でも、危険では?」
ハンニバルは頷いた。
「危険です」
そして、少し笑った。
「ですが、今度は我々が敵を驚かせる番です」
その夜。
ハンニバル軍は進軍した。
ハスドルバル軍も、敵の注意を引くために陣地を動かした。
ローマ軍は、北と南の両方を警戒しなければならなくなった。
俺は、遠くに見える松明を見つめた。
「……もう少しだ」
メルカルが尋ねた。
「合流できますかね?」
俺は答えた。
「今度こそ、会わせたい」
翌朝。
ローマ軍の陣営に、緊急報告が届いた。
「南方にカルタゴ軍!」
指揮官が立ち上がった。
「何だと?」
「ハンニバルの旗が確認されています!」
ローマ軍の指揮官は、顔色を変えた。
「……ハンニバルが、ここまで来たのか!」
同じころ。
ハスドルバルのもとにも報告が届いた。
「南方に、カルタゴ軍の旗が見えます!」
ハスドルバルは立ち上がった。
「……兄上か?」
「はい!」
ハスドルバルは、しばらく言葉を失った。
そして、静かに笑った。
「……本当に来てくれたのか」
俺は、ハンニバルの隣で地図を見つめていた。
ハンニバルが言った。
「弟は、あの丘の向こうにいるようです」
俺は頷いた。
「はい」
「……長かったですね」
「本当に」
俺は少し笑った。
「でも、まだ会ってませんよ」
ハンニバルは頷いた。
「そうですね」
そして、命じた。
「全軍、前進」
二人の兄弟は、ついに互いの軍旗が見える距離まで近づいた。




