第九十四話 兄弟を合流させるため、ハンニバルに南イタリアを離れてもらうことにした
紀元前207年。
南イタリア。
ハンニバルの陣営。
俺からの書簡を読んだハンニバルは、しばらく黙っていた。
『ハスドルバル軍の南下だけでは、ローマ軍の阻止を突破できません』
『ハンニバル軍にも北上していただき、合流地点を変更する必要があります』
『ただし、南部の拠点を失う危険があります』
マゴンが尋ねた。
「兄上、どうされますか?」
ハンニバルは地図を見つめた。
「北上すれば、ローマ軍も動くでしょう」
「はい」
「南部に残れば、弟との合流は難しくなる」
ハンニバルは腕を組んだ。
「……どちらも危険ですね」
数日後。
俺はハンニバルの陣営へ到着した。
「久しぶりです」
ハンニバルは少し笑った。
「また無茶な提案を持ってきましたね」
「無茶なのは分かっています」
「それでも進めたい?」
「はい」
俺は地図を広げた。
「ハスドルバル軍は、メタウルスで大きな損害を受けました。
これ以上、単独で南下させるのは危険です」
ハンニバルは頷いた。
「私も同じ考えです」
「だから、こちらが北へ動く必要があります」
「ですが、ローマ軍が追ってきます」
「追わせればいいんです」
ハンニバルが顔を上げた。
「……ほう?」
俺は地図の中央を指差した。
「ローマ軍がハンニバル軍を追うなら、その分だけ北方のハスドルバル軍へ回せる兵力が減ります」
ハンニバルは考え込んだ。
「逆に、私が北上している間に敵が先回りする可能性もあります」
「あります」
「南部の同盟都市も危険になります」
「それもあります」
ハンニバルは、少し笑った。
「危険ばかりですね」
俺は頷いた。
「だから、全軍で一気に北上するつもりはありません」
俺は新しい計画を説明した。
まず、南部の同盟都市へ連絡する。
守備兵を残し、食料を分散する。
ローマ軍が接近した場合の避難先を決める。
そのうえで、ハンニバル軍の一部を北上させる。
主力は敵の動きを確認しながら移動する。
そして、ハスドルバル軍と連絡が取れた時点で合流を図る。
ハンニバルは地図を見つめた。
「……問題は、敵がどちらの軍を追うかですね」
「そうです」
「そして、我々が予定どおりに動けるか」
「はい」
ハンニバルは頷いた。
「軍議にかけましょう」
軍議では、反対意見が多かった。
「南部を離れるべきではありません!」
「ローマ軍に拠点を奪われます!」
「ハスドルバル将軍がこちらへ来るまで待つべきです!」
俺は、反対する将校たちの言葉を聞いていた。
どれも正しい。
実際、南部を離れれば危険は増える。
だが、俺には別の恐怖があった。
このまま時間が過ぎれば、ローマはヒスパニアを制圧する。
そして、いずれアフリカへ来る。
そうなれば、ハンニバルは本国へ呼び戻される。
そして――。
ザマ。
俺は拳を握った。
その未来だけは、変えたい。
ハンニバルが立ち上がった。
「皆の意見は理解しました」
将校たちが静かになった。
「南部の拠点は重要です。
しかし、我々がこのまま南部に留まり続ければ、戦争の主導権はローマに移ります」
ハンニバルは続けた。
「弟の軍と合流できれば、状況を変えられるかもしれません」
そして、決断した。
「北上します」
軍議のあと。
俺はハンニバルに尋ねた。
「本当にいいんですか?」
ハンニバルは頷いた。
「勝つためには、危険を冒す必要があります」
「……」
「ただし、無謀な戦いはしません」
俺は少し笑った。
「それなら安心です」
ハンニバルは笑った。
「あなたが言うと、不思議ですね」
「何がですか?」
「いつも無茶なことを考える人なのに」
俺は苦笑した。
「……否定できないな」
こうして、ハンニバル軍は北上の準備を始めた。
だが。
ローマも、その動きを見逃していなかった。
南方のローマ軍から、元老院へ報告が届いた。
『ハンニバル軍に北上の兆候あり』
ローマ元老院は騒然となった。
「兄弟を合流させてはならない!」
「北方の軍へ増援を送れ!」
「南方の軍はハンニバルを追撃せよ!」
だが、ここで問題が生じた。
ローマ軍も、無限に兵士を動かせるわけではない。
北方にはハスドルバル。
南方にはハンニバル。
そして、各地には守らなければならない都市がある。
ローマは、どこへ兵力を集中させるべきか判断を迫られた。
そのころ。
俺はハンニバル軍の補給計画を確認していた。
メルカルが尋ねた。
「本当に合流できますかね?」
俺は答えた。
「分からない」
「また、それですか」
「未来が変わり始めてるからね」
俺は地図を見つめた。
「でも、一つだけ確かなことがある」
「何ですか?」
「ローマは、今までと同じようには戦えなくなった」




