第九十一話 メタウルスの戦いでハスドルバルを死なせないために、勝つことより生き残ることを優先させた
紀元前207年。
メタウルス川。
ローマ軍とカルタゴ軍が激突していた。
俺は、戦場から離れた補給拠点で報告を待っていた。
本当なら、すぐにでも駆けつけたい。
だが、俺が戦場へ行っても、できることは限られている。
俺は商人だ。
剣を振るうより、兵士たちに食料を届ける方が得意だった。
メルカルが尋ねた。
「……大丈夫でしょうか?」
俺は答えた。
「分からない」
「……」
「でも、準備はした」
戦場では、ローマ軍が攻撃を続けていた。
ハスドルバル軍は、高地を利用して防御していた。
だが、敵の兵力は多い。
特に、ネロが率いてきた増援が厄介だった。
ローマ軍は、カルタゴ軍の側面を狙っていた。
ハスドルバルは、戦況を見つめていた。
「……敵が右へ回り込んでいる」
将校が頷いた。
「はい!」
ハスドルバルは命じた。
「予備兵を送れ!」
戦闘は激しかった。
カルタゴ軍は抵抗した。
だが、ローマ軍の圧力は強まっていた。
将校が叫んだ。
「左翼が押されています!」
ハスドルバルは顔を上げた。
「持ちこたえさせろ!」
そのころ。
俺のもとへ、最初の報告が届いた。
『戦闘開始』
俺は頷いた。
「……始まったか」
メルカルが尋ねた。
「どうします?」
俺は答えた。
「負傷者を受け入れる準備をする」
俺は、補給拠点の責任者たちを集めた。
「医療用品を確認してください」
「はい!」
「水も必要です」
「はい!」
「それから、撤退してくる兵士がいた場合に備えて、食料を用意してください」
責任者たちは頷いた。
数時間後。
新しい報告が届いた。
『カルタゴ軍、苦戦』
俺は目を閉じた。
「……やっぱりか」
メルカルが尋ねた。
「どうします?」
俺は答えた。
「まだ待つ」
さらに時間が過ぎた。
そして。
新しい伝令が到着した。
「報告!」
俺は立ち上がった。
「どうなった?」
伝令は息を切らしながら答えた。
「カルタゴ軍が、撤退を始めています!」
俺は顔を上げた。
「……撤退?」
「はい!」
俺は思わず尋ねた。
「ハスドルバル将軍は?」
伝令は答えた。
「まだ戦場にいます!」
俺は拳を握った。
「……頼むから、生きてくれ」
戦場。
ハスドルバルは、撤退を指示していた。
「全軍を失うな!」
将校が叫んだ。
「将軍も撤退してください!」
ハスドルバルは首を振った。
「まだだ!」
ローマ軍は、カルタゴ軍を追撃していた。
ハスドルバルは、後衛を率いて抵抗した。
だが、敵の数が多い。
将校が叫んだ。
「このままでは危険です!」
ハスドルバルは、戦場を見つめた。
そして、静かに言った。
「……分かった」
彼は、ようやく撤退を決断した。
残された騎兵を集める。
負傷者を運ぶ。
そして、後衛を少しずつ下げる。
だが、ローマ軍は追撃を続けた。
俺のもとへ、次の報告が届いた。
『ハスドルバル将軍、撤退中』
俺は息を呑んだ。
「……生きているのか?」
伝令が頷いた。
「はい!」
俺は、ようやく息を吐いた。
「……よかった」
だが、まだ安心できなかった。
撤退する軍は、追撃を受ける。
補給が途絶えれば、さらに損害が出る。
俺は叫んだ。
「食料を積んだ荷車を前へ!」
メルカルが頷いた。
「はい!」
俺たちは、撤退してくる兵士たちを迎える準備を進めた。
水。
食料。
医療用品。
そして、休息場所。
俺は呟いた。
「……頼むから、ここまで来てくれ」
夕方。
最初の撤退部隊が到着した。
兵士たちは疲れ切っていた。
鎧は泥だらけ。
顔には傷がある。
俺は声を張り上げた。
「水はこちら!」
「負傷者は、あの天幕へ!」
「食料もあります!」
兵士たちは、次々と到着した。
だが、ハスドルバルの姿はない。
俺は落ち着かなかった。
「……まだか」
メルカルが頷いた。
「はい」
夜になった。
ようやく、騎兵の一団が現れた。
俺は顔を上げた。
そして。
その先頭にいる男を見つけた。
「……ハスドルバル!」
ハスドルバルは、馬から降りた。
鎧は傷だらけだった。
顔にも疲労が見える。
だが、生きていた。
俺は駆け寄った。
「無事だったんですね!」
ハスドルバルは苦笑した。
「……無事とは言い難いがな」
俺は頷いた。
「それでも、生きている」
ハスドルバルは静かに答えた。
「……そうだな」
俺は尋ねた。
「損害は?」
ハスドルバルは、しばらく黙った。
そして答えた。
「大きい」
俺は頷いた。
「……そうですか」
「だが、全軍を失ったわけではない」
俺は顔を上げた。
ハスドルバルは続けた。
「まだ、戦える兵士が残っている」
俺は頷いた。
「……それなら、まだ終わっていません」
その夜。
俺たちは、残存兵力を確認した。
兵士。
騎兵。
荷車。
そして、食料。
損害は大きかった。
だが、ハスドルバルは生き残った。
そして、軍の一部も残っている。
俺は帳簿を見つめた。
「……歴史が変わった」
メルカルが尋ねた。
「何か言いました?」
俺は首を振った。
「いや」
ハスドルバルは、地図を見つめていた。
「兄上に会いたかった」
俺は頷いた。
「まだ会えます」
ハスドルバルは顔を上げた。
「……本当に?」
俺は答えた。
「生きていれば、可能性はあります」
そのとき。
ハスドルバルは、少し笑った。
「……商人らしい考え方だな」
俺も笑った。
「商人ですから」
だが。
ローマ軍は、カルタゴ軍の撤退を知っていた。
そして、追撃を準備していた。
俺は地図を見つめた。
「……まだ終わってないな」
メルカルが頷いた。
「そうですね」
俺は、ハスドルバルへ提案した。
「ここから、さらに南下するのは危険です」
ハスドルバルが頷いた。
「分かっている」
俺は続けた。
「まず、軍を立て直しましょう」
「……」
「それから、ハンニバルと連絡を取る」
ハスドルバルは頷いた。
「そうしよう」
その夜。
俺は、ハンニバルへ書簡を書いた。
『メタウルスで戦闘がありました』
『ハスドルバル軍は敗北しましたが、将軍は生存しています』
『残存兵力もあります』
『現在、軍の再編を進めています』
そして、最後に書いた。
『兄弟の合流は、まだ諦めていません』
数日後。
ハンニバルから返事が届いた。
俺は封を開いた。
『弟が生きていると知り、安堵しました』
『ローマ軍は、我々の合流を阻止しようとするでしょう』
『ですが、まだ機会はあるはずです』
俺は頷いた。
「……そうだな」
俺は、地図を見つめた。
ハンニバル。
ハスドルバル。
そして、ローマ軍。
本来の歴史では、ここでハスドルバルは戦死していた。
だが、今回は生きている。
俺は呟いた。
「……これで、少しは未来が変わる」
だがそのとき新しい報告が届いた。
『ローマ軍が、カルタゴ軍の残存部隊を追撃中』
俺は顔を上げた。
「……まだ追ってくるのか」
メルカルが頷いた。
「はい」
俺は地図を広げた。
そして、静かに言った。
「……なら、逃げ切る方法を考えよう」
メタウルスの戦いは、カルタゴ軍の敗北に終わった。
だが、ハスドルバルは生き残った。
それは、歴史に存在しなかった新しい可能性だった。




