第九話 食料を奪う軍隊は、いずれ味方を失う
翌朝。
俺はハンノの屋敷を訪れた。
カルタゴでも有数の有力者だけあって、その屋敷は大きかった。
広い中庭。
石造りの柱。
壁には美しい装飾が施されている。
案内された部屋では、ハンノがすでに待っていた。
「来たか、アドン」
「お招きありがとうございます」
「座りたまえ」
俺は椅子に腰を下ろした。
ハンノは机の上に置かれた書類を指差した。
「昨日の君の提案を読み直した」
「ありがとうございます」
「軍事費の監査、商人との共同投資、長期契約。
どれも興味深い」
「実現できそうでしょうか?」
「一部ならな」
ハンノは答えた。
「だが、今日は別の話をしたい」
「ローマとの外交ですか?」
「そうだ」
ハンノは頷いた。
「君は、カルタゴがローマと再び戦う可能性をどう考えている?」
俺は少し考えた。
「十分にあると思います」
「理由は?」
「両国の利益が衝突する可能性があるからです」
「具体的には?」
「ヒスパニアです」
俺は地図を広げた。
「カルタゴがヒスパニアで勢力を広げれば、ローマも警戒するでしょう」
「当然だな」
「そして、どこまで勢力を広げてよいのか、互いの認識が違えば争いになります」
ハンノは頷いた。
「ならば、勢力を広げるのをやめればいい」
「それも一つの方法です」
俺は答えた。
「ですが、問題があります」
「何だ?」
「カルタゴが勢力拡大をやめても、ローマが勢力拡大をやめるとは限りません」
ハンノは黙った。
俺は続けた。
「こちらが譲歩すれば、相手も譲歩するとは限らないんです」
「……ほう」
「だから、戦争を避けるなら、互いの勢力範囲を明確にする必要があると思います」
ハンノは腕を組んだ。
「境界を決めるということか?」
「はい」
「それで戦争を防げるか?」
「完全には防げません」
俺は首を振った。
「ですが、争いが起きたとき、すぐに戦争へ進まない仕組みは作れると思います」
「例えば?」
「まず使者を送る。
問題になっている地域を調査する。
双方の主張を確認する」
「それから?」
「交渉します」
ハンノは小さく笑った。
「商人らしい答えだな」
「商売でも、いきなり相手の倉庫を燃やしたりはしませんから」
ハンノは声を上げて笑った。
「確かにな!」
俺も笑った。
だが、内心では真剣だった。
前世の歴史では、ヒスパニアのサグントゥムを巡る問題が、第二次ポエニ戦争の直接的なきっかけとなる。
ローマとカルタゴの利害が衝突し、外交交渉は決裂する。
そして、ハンニバルはイタリアへ侵攻する。
その未来を変えるなら、戦争が始まる前から外交の仕組みを整えておく必要がある。
ただし、外交だけでローマを止められる保証はない。
だからこそ、軍事力も必要だった。
「アドン」
ハンノが真剣な表情になった。
「君は戦争を避けたいのか?」
「避けられるなら、避けたいです」
「ならば、なぜバルカ家の軍事拡張に協力する?」
俺は答えた。
「戦争を避けることと、戦争に備えることは矛盾しないからです」
ハンノは黙った。
「軍事力がなければ、相手の要求を断れなくなる場合があります」
「……」
「逆に、軍事力だけを頼りにすれば、無用な戦争を始める危険があります」
俺は続けた。
「だから、両方必要なんです」
「軍事力と外交か」
「はい」
ハンノはしばらく考えた。
そして、静かに言った。
「君の考えは理解した」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「だが、私はバルカ家を全面的に信用したわけではない」
「それで構いません」
「ほう?」
「政治家が軍を監視することは必要だと思います」
ハンノは少し驚いた。
俺は続けた。
「ただし、監視するために軍を弱くするのではなく、軍が正しく使われるようにしてほしいんです」
ハンノは俺を見つめた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……覚えておこう」
そのとき、俺はもう一つの書簡を思い出した。
ハミルカルから届いた、ヒスパニアの部族問題についての報告だ。
「ハンノ殿。
一つ、ご相談したいことがあります」
「何だ?」
「ヒスパニアで、一部の部族が軍への食料供給を拒否しているそうです」
ハンノの表情が変わった。
「反乱か?」
「まだ分かりません」
「軍が食料を調達できなくなれば、困るだろう」
「はい」
俺は頷いた。
「ただ、原因を調べる必要があると思っています」
「なぜだ?」
「食料を渡したくない理由があるはずですから」
ハンノは少し考えた。
「……軍が無理な要求をしている可能性もあるな」
俺は顔を上げた。
「そう思われますか?」
「当然だ」
ハンノは答えた。
「軍隊は、自分たちの都合を優先しがちだ」
俺は黙って聞いた。
「だが、住民にも生活がある。
食料をすべて持っていかれたら、どうやって暮らす?」
まさに、そのとおりだった。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「何だ、突然」
「調べるべきことが分かりました」
ハンノは不思議そうな顔をした。
俺は立ち上がった。
「ヒスパニアへ戻って、現地を確認してきます」
ハンノは頷いた。
「そうか」
そして、少し笑った。
「アドン。
結果が分かったら、私にも知らせてくれ」
「分かりました」
「バルカ家に都合の悪い話でも、隠すなよ」
俺は答えた。
「もちろんです」
数日後。
俺は再びヒスパニアへ向かう船に乗った。
今回の荷物には、報告書だけでなく、カルタゴ本国の商人たちから預かった契約案も含まれている。
道路整備への出資。
軍需物資の長期契約。
港湾設備の共同利用。
さらに、軍事費の監査についての提案。
本国での交渉は、完全な成功とは言えない。
だが、少なくとも話し合いの土台はできた。
そして何より、ハンノとの関係を築くことができた。
バルカ家を警戒する政治家と、バルカ家の軍を支える商人。
普通なら、あまり相性がよくない組み合わせだろう。
だが、俺は両方と話せる。
それは大きな強みだった。
ヒスパニアへ戻ると、アズルバルが港まで迎えに来ていた。
「アドン!」
「お久しぶりです」
「本国では大活躍だったそうじゃないか」
「大活躍というほどではありません」
「ハミルカル将軍が喜んでいたぞ」
「それはよかったです」
アズルバルは俺の荷物を見た。
「報告書は?」
「持ってきました」
「なら、すぐ司令部へ行こう」
俺は頷いた。
だが、歩き始める前に尋ねた。
「食料供給を拒否している部族の件は、どうなっていますか?」
アズルバルの表情が曇った。
「……まだ解決していない」
「原因は?」
「部族の長たちが、軍への食料供給を拒否している」
「理由は?」
「代金が支払われていないらしい」
俺は足を止めた。
「……代金?」
「ああ」
「軍が食料を買ったのに、支払っていないんですか?」
「正確には、支払いが遅れている」
「どれくらい?」
「長いものでは数か月だ」
俺は思わず額を押さえた。
それは駄目だろう。
商売で代金を数か月も払わなければ、次から商品を売ってもらえなくなる。
軍隊だからといって、例外ではない。
「ほかにも問題がありそうですね」
俺が言うと、アズルバルは頷いた。
「実はな……」
彼は声を低くした。
「軍の一部が、契約した数量より多く食料を持っていったらしい」
「……何ですって?」
「緊急の補給が必要だったそうだ」
俺はため息をついた。
ほう。
これは単なる交易上の問題ではない。
軍の調達方法そのものに問題がある。
司令部に到着すると、ハミルカルが待っていた。
「戻ったか、アドン」
「はい」
「本国での交渉はどうだった?」
俺は報告書を渡した。
「一部の商人から、道路と港の整備について協力を得られそうです」
「ほう」
「軍需物資の長期契約についても、関心を示している商会があります」
ハミルカルは頷いた。
「それはよい知らせだ」
「ただし、条件があります」
「何だ?」
「軍事費の支出を明確にし、本国から確認できる仕組みを作ることです」
ハミルカルは少し考えた。
「ハンノの提案か?」
「はい」
「……ほう」
俺は続けた。
「ハンノ殿は、軍事力そのものより、軍が本国の管理から離れることを警戒しているようでした」
ハミルカルは黙った。
「だから、支出を確認できる仕組みがあれば、一部の軍事整備には反対しないそうです」
「そうか」
ハミルカルは小さく息を吐いた。
「意外な成果だな」
俺は頷いた。
「ですが、今日は別の件についてもお話があります」
「何だ?」
「食料供給を拒否している部族の件です」
ハミルカルの表情が変わった。
「聞いているのか」
「はい」
「軍への食料供給が止まれば、作戦に影響する」
「そうですね」
「何か考えはあるか?」
俺は答えた。
「まず、現地へ行かせてください」
「現地?」
「はい。
部族の長たちから、直接話を聞きたいんです」
ハミルカルは腕を組んだ。
「危険かもしれんぞ」
「護衛をつけていただければ」
「……よかろう」
ハミルカルは頷いた。
「ただし、軍の代表としてではなく、商人として話を聞いてこい」
「分かりました」
「必要なら、アズルバルも同行させる」
「ありがとうございます」
こうして俺は、食料供給を拒否している部族の村へ向かうことになった。
村までは、馬車で二日ほどかかった。
途中には農地が広がっていた。
麦畑。
オリーブの木。
家畜を飼う牧草地。
豊かな土地だった。
だが、村へ近づくにつれて、様子が変わってきた。
畑で働く人が少ない。
市場も静かだ。
そして、村の入口には武装した男たちが立っていた。
「止まれ!」
男の一人が声を上げた。
アズルバルが前へ出た。
「カルタゴ軍の者だ」
その瞬間、男たちの表情が険しくなった。
「何の用だ?」
「部族の長に会いたい」
「また食料を持っていくつもりか?」
俺は馬車から降りた。
「違います」
男たちが俺を見た。
「何者だ?」
「商人のアドンです」
「商人?」
「はい。
今日は食料を買いに来たわけではありません」
俺は続けた。
「なぜ軍への食料供給を拒否しているのか、話を聞きに来ました」
男たちは顔を見合わせた。
しばらくして、一人が言った。
「……長に聞いてくる」
俺たちは村の入口で待つことになった。
村の長は、白髪の老人だった。
名前はイベル。
長年この地域を治めてきた人物らしい。
俺たちは大きな建物へ案内された。
イベルは椅子に座り、俺たちを見た。
「カルタゴ軍が何の用だ?」
俺は頭を下げた。
「今日は、食料供給の問題についてお話を伺いに来ました」
「話すことなどない」
イベルは冷たく言った。
「我々は、もうカルタゴ軍に食料を渡さない」
俺は頷いた。
「理由を教えていただけますか?」
「理由?」
イベルは怒ったように笑った。
「本当に知らないのか?」
「詳しい事情を確認したいんです」
イベルは机を叩いた。
「小麦を渡した!」
俺は黙って聞いた。
「油も渡した!」
「はい」
「家畜まで渡した!」
イベルの声が大きくなった。
「だが、代金が支払われない!」
俺は頷いた。
「その件は聞いています」
「それだけではない!」
イベルは続けた。
「軍は契約した数量より多く持っていった!」
「……」
「我々の冬の備蓄まで持っていったのだ!」
俺は顔を上げた。
冬の備蓄。
それは深刻だ。
村の人々が冬を越すための食料まで奪われたということになる。
「どれくらい持っていかれたんですか?」
イベルは部下に命じた。
すると、一枚の木板が運ばれてきた。
そこには食料の数量が記録されていた。
小麦。
大麦。
油。
家畜。
俺は数字を確認した。
そして、驚いた。
契約数量より、かなり多い。
「……これは」
アズルバルも顔をしかめた。
「こんなに持っていったのか?」
イベルは怒った。
「だから言っている!」
俺は深く息を吐いた。
これは完全に軍の問題だ。
「イベル殿」
俺は静かに言った。
「まず、お詫びします」
イベルは眉をひそめた。
「何?」
「軍が約束を守らなかったことについてです」
「お前が謝ってどうする?」
「私は軍の調達に協力しています。
だから、無関係ではありません」
俺は頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
イベルは黙った。
しばらくして、低い声で言った。
「……謝罪だけでは、村人は食べていけん」
「そのとおりです」
俺は答えた。
「だから、まず未払いの代金を確認します」
「確認?」
「はい。
軍の記録と、村の記録を照合します」
イベルは俺を見た。
「それで?」
「不足している代金を支払うよう、将軍に報告します」
「本当に払うのか?」
「私には、今ここで支払いを約束する権限はありません」
イベルの表情が険しくなった。
だが、俺は続けた。
「だからこそ、支払えると確認できるまで、できるとは言いません」
イベルは黙った。
「ただし、記録を確認して、誰が何を受け取ったのかは必ず明らかにします」
老人はしばらく俺を見つめた。
そして言った。
「……商人らしい答えだな」
「はい」
俺は頷いた。
「信用は、約束を守ることでしか得られませんから」
その後、俺たちは村の記録を調べた。
軍へ渡した小麦。
大麦。
油。
家畜。
それぞれの数量と日付。
さらに、軍から受け取った支払いの記録。
俺はすべて書き写した。
すると、問題が三つ見つかった。
一つ目。
軍の支払いが遅れていること。
二つ目。
契約数量を超えて食料を持っていったこと。
そして三つ目。
村の備蓄量を確認せずに徴発していたこと。
特に三つ目が深刻だった。
軍は必要な食料を確保できたかもしれない。
だが、その結果、村人が飢える危険が生まれていた。
俺はイベルに尋ねた。
「今、村にはどれくらいの食料が残っていますか?」
「冬を越せるかどうか、ぎりぎりだ」
「次の収穫まで?」
「そうだ」
俺は考えた。
このままでは、村人が食料を売る余裕などない。
それどころか、軍が食料を返す必要がある。
「……まず、食料を戻さないといけませんね」
俺が呟くと、イベルが顔を上げた。
「何?」
「軍が持っていった分の一部を、別の倉庫から補充できないか調べます」
「そんなことができるのか?」
「分かりません。
でも、調べる価値はあります」
俺は続けた。
「村が飢えてしまえば、来年の収穫にも影響します」
イベルは黙った。
「畑で働く人が減れば、食料生産が落ちます」
「……」
「そうなれば、軍も来年はもっと食料に困ることになります」
イベルはゆっくり頷いた。
「ようやく、まともなことを言う者が来たな」
俺は苦笑した。
「商人ですから」
「商人は、そんなことまで考えるのか?」
「来年も取引したいですから」
イベルは小さく笑った。
翌日。
俺たちは村を出発した。
だが、その前にイベルが俺を呼び止めた。
「アドン」
「はい」
「一つ聞きたい」
「何でしょう?」
「カルタゴ軍は、これからも我々の土地にいるのか?」
俺は答えた。
「その予定だと思います」
「ならば、我々はこれからも食料を渡さなければならんのか?」
俺は少し考えた。
「取引するかどうかは、条件によるべきだと思います」
イベルは驚いた顔をした。
「条件?」
「はい。
価格。
数量。
支払い方法。
そして、村の備蓄を守ること」
俺は続けた。
「それらを決めて、互いに守る必要があります」
イベルは黙った。
「軍だからといって、約束を破っていいわけではありません」
しばらくして、老人は頷いた。
「……分かった」
そして言った。
「もし本当に約束を守るなら、我々も取引を再開してよい」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
ただし、まだ問題は解決していない。
軍が実際に行動を変えなければ、信用は戻らない。
司令部へ戻ると、俺はすぐにハミルカルへ報告した。
「将軍」
「どうだった?」
「軍の調達方法に問題があります」
ハミルカルの表情が変わった。
「詳しく話せ」
俺は記録を広げた。
未払いの代金。
契約数量を超えた徴発。
村の備蓄不足。
すべて説明した。
ハミルカルは黙って聞いていた。
そして、低い声で言った。
「……誰が命じた?」
「現在、記録を確認しています」
「調べろ」
「はい」
ハミルカルは机を叩いた。
「軍の信用を失わせる行為だ」
俺は頷いた。
「そのとおりです」
「だが、緊急時には食料を確保しなければならん場合もある」
「はい」
俺は答えた。
「だからこそ、緊急時の調達方法も決める必要があります」
ハミルカルは顔を上げた。
「どうする?」
俺は用意していた提案書を広げた。
「まず、軍が食料を購入する場合は、数量と価格を記録します」
「当然だ」
「そして、支払い期限を決めます」
「うむ」
「さらに、村の備蓄量を確認し、必要最低限の食料を残すようにします」
ハミルカルは頷いた。
「それだけか?」
「いいえ」
俺は続けた。
「緊急時に契約数量を超えて食料を調達した場合も、必ず記録を残します」
「ほう」
「そして、後から正式に精算します」
ハミルカルはしばらく考えた。
「……よかろう」
俺はさらに言った。
「もう一つあります」
「何だ?」
「軍の調達担当者を、定期的に監査する仕組みが必要です」
ハミルカルの目が鋭くなった。
「監査か」
「はい」
「本国でも同じ話をしてきたのだったな」
「そうです」
俺は頷いた。
「軍の支出を管理するだけでなく、現地住民との約束が守られているか確認するんです」
ハミルカルは静かに頷いた。
「分かった。
実施しよう」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
それから一か月。
軍の調達方法は少しずつ変更された。
未払いの代金が確認され、支払いが進められた。
村の備蓄不足についても、軍の倉庫から食料が補充された。
そして、新しい契約書が作られた。
数量。
価格。
支払い期限。
受け渡し場所。
さらに、緊急時の追加調達についても記録を残すことになった。
最初は面倒だと不満を言う軍人もいた。
だが、効果はすぐに現れた。
食料供給を拒否していた村が、取引を再開したのだ。
しかも、それだけではなかった。
「アドン!」
アズルバルが嬉しそうに報告してきた。
「ほかの村からも、食料を売りたいという申し出が来ている!」
「本当ですか?」
「ああ!」
俺は驚いた。
「どうして?」
「軍が約束どおり代金を払うようになったという話が広まったらしい」
ほう。
信用が戻り始めたのだ。
「それはよかったです」
アズルバルは笑った。
「おかげで、食料調達が以前より楽になったぞ」
俺も笑った。
だが、内心では別のことを考えていた。
これは単なる食料問題の解決ではない。
カルタゴ軍と現地住民の関係を変える第一歩だ。
軍が食料を奪えば、住民は敵になる。
軍が正当な取引をすれば、住民は協力者になる。
そして、その協力者が増えれば、軍はより遠くまで進める。
つまり――軍隊を強くする方法は、兵士を増やすことだけではない。
数日後。
ハンニバルが俺を訪ねてきた。
「アドン」
「どうしました?」
「父上から聞いた」
「何をですか?」
「食料供給を拒否していた村との問題を解決したそうだな」
「まだ完全ではありませんが、取引は再開しました」
ハンニバルは頷いた。
「面白いな」
「そうでしょうか?」
「ああ。
お前は兵士を一人も動かさずに、軍の補給を改善した」
俺は笑った。
「商人ですから」
「またそれか」
ハンニバルも笑った。
そして、少し真剣な顔になった。
「アドン。
一つ聞きたい」
「何でしょう?」
「もし敵の土地へ攻め込んだ場合も、同じことができると思うか?」
俺は少し考えた。
「難しいと思います」
「なぜだ?」
「敵の土地では、住民が最初からこちらを信用していません」
「そうだな」
「だから、まず信用を得る必要があります」
ハンニバルは頷いた。
「どうやって?」
「約束を守ることです」
俺は答えた。
「食料を買うなら代金を払う。
協力してくれた住民を守る。
必要以上に物資を奪わない」
「ほう」
「そして、敵の支配よりカルタゴの支配の方が暮らしやすいと思ってもらうんです」
ハンニバルは黙った。
俺は続けた。
「軍隊が通った後に村が荒れ果てていたら、次の村は抵抗するでしょう」
「……確かにな」
「でも、軍隊が通った後も村人が普通に暮らせるなら、協力してくれる人が増えるかもしれません」
ハンニバルはしばらく考えていた。
そして、静かに言った。
「アドン」
「はい」
「お前の話を聞いていると、戦争は剣だけでするものではないと思えてくる」
俺は頷いた。
「そうだと思います」
ハンニバルは笑った。
「父上も同じことを言っていた」
「そうなんですか?」
「ああ」
そして、ハンニバルは続けた。
「それで、父上から伝言がある」
「何でしょう?」
「明日、軍の幹部会議へ来てほしいそうだ」
俺は顔を上げた。
「幹部会議ですか?」
「ああ」
「議題は?」
ハンニバルは地図を広げた。
そこには、ヒスパニアの内陸部が描かれていた。
「新たな軍事行動についてだ」
俺は地図を見た。
「どの地域ですか?」
ハンニバルは一つの場所を指差した。
「この地域の部族が、カルタゴへの協力を拒否している」
「食料の問題ですか?」
「いや」
ハンニバルは首を振った。
「今度は、軍事的な問題だ」
俺は黙った。
「父上は軍を動かすことを検討している」
「……ほう」
「だが、お前にも意見を聞きたいそうだ」
俺は地図を見つめた。
いよいよ、軍事作戦そのものに関わることになる。
だが、俺には一つ気になることがあった。
「ハンニバル様」
「何だ?」
「その部族は、なぜ協力を拒否しているんですか?」
ハンニバルは少し考えた。
「……詳しくは分からない」
俺は頷いた。
「ならば、まず理由を調べた方がいいと思います」
ハンニバルは笑った。
「やはり、そう言うと思った」
「そうですか?」
「ああ。
お前なら、すぐに戦えとは言わないだろうと思っていた」
俺は苦笑した。
「戦わずに済むなら、その方が安いですから」
ハンニバルは声を上げて笑った。
「ははは! 本当に商人だな!」
だが、すぐに真剣な表情に戻った。
「しかし、相手が交渉を拒否したら?」
俺は答えた。
「そのときは、軍事行動も選択肢になると思います」
「ほう?」
「ただし、戦う目的を明確にする必要があります」
「目的?」
「はい。
相手を滅ぼしたいのか。
通行を認めさせたいのか。
交易を再開したいのか」
俺は続けた。
「目的によって、必要な軍事行動は変わります」
ハンニバルは黙った。
そして、ゆっくり頷いた。
「……ほう」
俺は地図を見た。
前世の歴史では、ハンニバルは優れた戦術家だった。
だが、戦争全体を勝利へ導くには、軍事行動の目的を政治的な成果につなげる必要がある。
今から、その考え方を共有しておきたい。
「ハンニバル様」
「何だ?」
「戦いに勝つことは、目的ではなく手段です」
ハンニバルは俺を見た。
「……手段?」
「はい」
俺は頷いた。
「戦いに勝った後、何を得るのか。
それが重要だと思います」
ハンニバルはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「覚えておこう」
その夜。
俺は宿の部屋で、地図を広げていた。
ヒスパニアの内陸部。
山岳地帯。
河川。
部族の集落。
そしてカルタゴ軍の拠点。
明日の会議では、軍事行動について意見を求められる。
俺は軍人ではない。
戦場で兵士を指揮した経験もない。
だが、商人として考えられることはある。
戦争にかかる費用。
補給。
交易。
現地住民との関係。
そして、戦いが終わった後のこと。
俺は紙に書いた。
『戦争の目的を明確にする』
その下に、もう一つ書き加えた。
『戦争が終わった後の状態から逆算する』
俺は筆を置いた。
「……これが大事なんだよな」
敵を倒す。
町を占領する。
それだけでは終わらない。
占領した土地を維持する必要がある。
住民を統治する必要がある。
食料を確保する必要がある。
そして、次の戦争に備える必要がある。
前世の歴史で、ハンニバルがローマ軍を何度も破りながら戦争に勝てなかった理由。
その一つは、戦場の勝利を最終的な政治的勝利へ変えきれなかったことだ。
俺は地図の上に指を置いた。
「今から、少しずつ変えていこう」
ハンニバルはまだ若い。
これから多くのことを学ぶ。
その中に、俺の考え方も加わればいい。
戦術だけではない。
戦略。
外交。
経済。
補給。
それらを一体として考える将軍になってもらう。
そうすれば、未来は変わるかもしれない。
俺は窓の外を見た。
ヒスパニアの夜空には、無数の星が輝いていた。
遠い未来。
この土地から、ハンニバルはローマへ向けて進軍する。
アルプスを越え、イタリアへ侵攻する。
そして歴史に名を残す。
だが、今度は違う。
俺がいる。
未来を知っている商人がいる。
俺は小さく呟いた。
「ハンニバル」
「今度は、勝った後のことまで考えよう」
翌日の会議。
そこで俺は、初めて軍の幹部たちと真正面から意見をぶつけることになる。
そして、ある将校からこう言われるのだった。
「商人風情が、戦争に口を出すな」
それは、俺がハンニバルの相談役になるために越えなければならない、最初の大きな壁だった。




