第八話 カルタゴの政治家たちは金の話なら聞くらしい
カルタゴへ戻ってきた。
久しぶりに見る故郷の港は、相変わらず賑やかだった。
青い海。
白い建物。
港に並ぶ商船。
市場から聞こえてくる商人たちの声。
ヒスパニアへ渡る前と、何も変わっていないように見える。
だが、俺には少し違って見えた。
以前は、ただ豊かな町だと思っていた。
今は違う。
この港が止まれば、カルタゴの経済が止まる。
商船が沈めば、交易が止まる。
交易が止まれば、税収が減る。
税収が減れば、軍隊を維持できなくなる。
そして軍隊が弱くなれば、敵に港を奪われる。
すべてがつながっている。
俺は港を見渡した。
「……やっぱり、商売と戦争は切り離せないな」
今回の仕事は、そのことをカルタゴ本国の有力者たちに理解してもらうことだった。
もっとも、簡単にはいかないだろう。
なにしろ相手は政治家だ。
しかも、バルカ家を警戒している者たちまでいる。
俺はため息をついた。
「軍の食料を計算する方が、よっぽど簡単そうだ」
まず向かったのは、父の商会だった。
「アドン!」
俺の姿を見た父が驚いた。
「帰ってきたのか!」
「ただいま、父さん」
「ずいぶん立派になったじゃないか」
「そう?」
「顔つきが変わった」
父は俺の肩を叩いた。
「ヒスパニアではどうだった?」
「忙しかったよ」
「商売は?」
「それなりに順調」
「軍の仕事は?」
「そっちの方が忙しい」
父は笑った。
「お前は本当に変わった商人だな」
俺も笑った。
だが、すぐに本題へ入った。
「父さん。
カルタゴの有力な商人たちに会いたいんだけど」
「何だ、突然」
「ヒスパニアの軍事費について説明したい」
父の表情が変わった。
「……バルカ家の件か?」
「知ってるの?」
「当然だ」
父は椅子に座った。
「最近、商人たちの間でも話題になっている」
「どんな話?」
「ヒスパニアからの収益が増えているという話もあるが、軍事費が大きすぎるという不満もある」
「やっぱり」
「それに、バルカ家が強くなりすぎることを心配している者もいる」
俺は頷いた。
「その人たちに会いたい」
父は眉をひそめた。
「反対派にもか?」
「うん」
「何のために?」
「何を心配しているのか知りたいから」
父はしばらく俺を見つめた。
そして笑った。
「ほう。
お前らしいな」
「紹介してくれる?」
「ああ。
ただし、気をつけろ」
「何に?」
「商人は利益の話なら聞く。
だが、政治家は利益だけでは動かん」
俺は頷いた。
それはハミルカルにも言われたことだった。
翌日。
俺は父の紹介で、大きな商会を訪れた。
迎えてくれたのは、年配の商人だった。
名前はバアルハンノ。
穀物と海上輸送を扱う有力商人だ。
「君がアドンか」
「はい」
「ヒスパニアで軍の補給を改善したそうだな」
「少しだけです」
「謙遜する必要はない」
バアルハンノは笑った。
「君の父親から話を聞いている」
俺は席に着いた。
「今日はヒスパニアの軍事費について、お話を伺いたくて来ました」
「ほう」
「本国では、軍事費の増加を心配する声があると聞いています」
バアルハンノは頷いた。
「当然だろう」
「なぜでしょう?」
「金がかかるからだ」
実に分かりやすい答えだった。
「軍隊は金を使う。
兵士に給料を払い、武器を買い、食料を運ぶ」
「はい」
「だが、商売と違って、軍隊そのものが利益を生むわけではない」
俺は頷いた。
「確かに、軍隊は商品を売りません」
「そうだ」
「ですが、軍隊がいなければ商売できない地域もあります」
バアルハンノは目を細めた。
「……どういう意味だ?」
俺は地図を取り出した。
「ヒスパニアです」
「うむ」
「軍が治安を維持している地域では、商人が比較的安全に移動できます」
「それはそうだな」
「道路が整備されれば、輸送費も下がります」
「当然だ」
「港が整備されれば、交易量も増えます」
バアルハンノは黙って聞いていた。
俺は続けた。
「つまり、軍事費の中には、商売をしやすくするための支出も含まれているんです」
「……ほう」
「だから、全部を無駄な支出として扱うのは違うと思います」
バアルハンノは腕を組んだ。
「だが、軍が強くなれば戦争を始めたがる者も出る」
俺は頷いた。
「それは否定できません」
「戦争が始まれば、我々の商船が危険にさらされる」
「はい」
「ならば、軍隊を強くしすぎない方が安全ではないか?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「軍隊を弱くすれば、戦争を避けられるとは限りません」
バアルハンノは黙った。
「相手が攻めてこないと分かっているなら、軍隊を減らすこともできます」
「そうだな」
「でも、相手が攻めてくる可能性があるなら?」
「……困るな」
「そのとき、軍隊を急に増やすことはできません」
俺は続けた。
「兵士を集めても、訓練が必要です。
船を造るにも時間がかかります。
武器や食料も準備しなければなりません」
バアルハンノは頷いた。
「だから、ある程度の軍事力は維持する必要があると?」
「はい」
「しかし、どこまで増やせば十分なのだ?」
俺は答えた。
「それを数字で判断するために、今回の報告書を作りました」
そして、ハミルカルから預かった資料の写しを広げた。
バアルハンノは報告書を読み始めた。
鉱山からの収益。
交易による税収。
道路整備費。
港湾整備費。
兵士の維持費。
武器の購入費。
さらに、今後三年間の収支見通し。
しばらくして、バアルハンノが顔を上げた。
「……これは面白い」
「ありがとうございます」
「軍事費を、ここまで細かく分けているのか」
「はい」
「しかも、収益が減った場合の計算まである」
「順調な場合だけを考えるのは危険ですから」
バアルハンノは頷いた。
「確かにな」
そして、ある項目を指差した。
「この道路整備費だが」
「はい」
「軍用道路なのか?」
「軍も使いますが、商人も利用できます」
「ならば、商会が費用の一部を負担する方法もあるな」
俺は顔を上げた。
「商会が?」
「ああ」
バアルハンノは笑った。
「道路が整備されて輸送費が下がるなら、我々にも利益がある」
ほう。
これは考えていなかった。
「ただし、条件がある」
「何でしょう?」
「商人が自由に通行できることだ」
「それは当然ですね」
「軍が勝手に道路を封鎖したり、通行料を何度も取ったりするなら困る」
俺は頷いた。
「その条件も契約に入れるべきですね」
バアルハンノは満足そうに笑った。
「君は話が早い」
俺は思った。
やはり、商人には商人の考え方がある。
軍隊を強くしたいと言っても、なかなか協力してくれない。
だが、利益があると分かれば話が変わる。
これは使える。
その後、俺は何人もの商人を訪ねた。
穀物商。
船主。
鉱山への出資者。
武器を扱う商人。
それぞれ考え方が違った。
「軍の食料を長期契約で購入してくれるなら、協力できる」
「港の整備は歓迎だ」
「道路が安全になるなら、輸送隊を増やせる」
「だが、戦争は困る」
「ローマとの交易が止まったら大損だ」
俺は一つずつ意見を記録した。
そして、あることに気づいた。
軍事費に反対している商人たちも、必ずしも軍隊そのものを嫌っているわけではない。
彼らが嫌がっているのは、不確実な支出だった。
何に使われるのか分からない。
いつまで金が必要なのか分からない。
どれほど利益があるのか分からない。
そして、軍が勝手に戦争を始めるのではないかという不安。
ならば、その不安を減らせばいい。
俺は新しい提案書を作り始めた。
『ヒスパニア軍事・交易共同整備計画』
内容は単純だった。
軍が必要とする道路や港を、商業にも利用できる形で整備する。
商会が投資する場合は、利用条件を明確にする。
軍需物資は複数の商会から購入し、価格と品質を比較する。
支出と収益は定期的に報告する。
そして、軍事目的の支出と商業目的の支出を区別する。
これなら、軍事力の維持と商人の利益を両立できるかもしれない。
俺は完成した提案書を見つめた。
「……これなら、少しは話を聞いてもらえるかな」
だが、本当の問題はこれからだった。
数日後。
俺はカルタゴの有力者が集まる会合へ招かれた。
会場は港を見下ろす大きな建物だった。
中には裕福そうな男たちが集まっている。
商人。
地主。
政治家。
そして、かつて軍の要職に就いていた者たち。
俺はその中に、一人の男を見つけた。
周囲の人間が、彼に敬意を払っている。
年齢は五十代ほど。
落ち着いた表情。
だが、目つきは鋭い。
父が小声で教えてくれた。
「あの方がハンノ殿だ」
俺は顔を上げた。
ハンノ。
バルカ家の軍事拡張に慎重な立場を取る、有力政治家だった。
前世の歴史でも、カルタゴ内部にはバルカ家と対立する政治勢力が存在した。
その代表的な人物として知られるのが、ハンノだ。
俺は少し緊張した。
この男とどう向き合うか。
それが今後の大きな問題になる。
会合が始まった。
最初に、ヒスパニアの軍事費について説明が行われた。
そして、俺の番が来た。
「アドン殿」
司会役の男が言った。
「ヒスパニアの状況について説明していただきたい」
「分かりました」
俺は立ち上がった。
そして、報告書を広げた。
「まず、ヒスパニアにおける現在の軍事費について説明します」
俺は数字を示した。
兵士の維持費。
食料。
武器。
輸送。
倉庫。
道路。
港湾。
それぞれの支出を説明した。
続いて、鉱山や交易から得られる収益を示した。
さらに、軍事費を増やした場合と、現在の規模を維持した場合の見通しも説明した。
会場の男たちは黙って聞いていた。
説明が終わると、一人の政治家が質問した。
「つまり、軍事費を増やしても問題ないと言いたいのか?」
俺は首を振った。
「いいえ」
会場が少しざわついた。
「軍事費は、必要なものと不要なものを分けて判断するべきだと思います」
「どういうことだ?」
「例えば、使われない倉庫を建設するのは無駄です」
「当然だ」
「ですが、食料不足を防ぐ倉庫なら必要です」
俺は続けた。
「軍事費だからすべて認めるのでもなく、軍事費だからすべて削るのでもありません」
「ほう」
「一つずつ、効果を確認するべきだと思います」
すると、会場の奥から声がした。
「では、聞こう」
俺は顔を上げた。
ハンノだった。
「アドンと言ったな」
「はい」
「君はバルカ家の軍に協力しているそうだな」
「そうです」
「ならば、当然バルカ家に有利な報告をするのではないか?」
会場が静かになった。
鋭い質問だった。
俺は答えた。
「その可能性を疑うのは当然だと思います」
ハンノは少し驚いた顔をした。
「ほう?」
「だからこそ、数字の根拠を示しています」
俺は報告書を指差した。
「収益や支出については、確認できる記録を使っています」
「記録そのものが間違っていたら?」
「その場合は修正する必要があります」
「バルカ家が都合の悪い数字を隠していたら?」
俺は少し考えた。
「それを防ぐために、本国から監査担当者を派遣する方法があると思います」
会場がざわついた。
ハンノは目を細めた。
「……監査担当者?」
「はい」
「バルカ家の軍を、本国が調査するということか?」
「そうです」
俺は頷いた。
「軍事上の秘密は守る必要がありますが、支出の正当性は確認できるようにするべきだと思います」
ハンノは黙った。
俺は続けた。
「それなら、本国も安心できますし、バルカ家も不当な疑いを受けにくくなります」
「……ほう」
ハンノは腕を組んだ。
「君は面白いことを言うな」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「だが、まだ問題がある」
「何でしょう?」
ハンノは静かに言った。
「軍隊が強くなれば、その軍隊を率いる者も強くなる」
俺は黙った。
「バルカ家が巨大な軍隊を持てば、カルタゴ本国の政治に影響を与えることもできる」
「そうですね」
「それは危険ではないか?」
会場の視線が俺に集まった。
これは軍事費の問題ではない。
権力の問題だった。
俺は少し考えた。
そして答えた。
「危険はあると思います」
ハンノの眉が動いた。
「認めるのか?」
「はい」
俺は頷いた。
「強い軍隊を持つ将軍が、政治に影響を与える可能性はあります」
「では、軍隊を弱くするべきではないか?」
「それは違うと思います」
「なぜだ?」
俺は答えた。
「将軍の権力が強くなりすぎることと、国の軍事力を弱くすることは、別の問題だからです」
ハンノは黙った。
俺は続けた。
「将軍の権限が問題なら、権限を管理する仕組みを作るべきです」
「仕組み?」
「はい。
軍事費の監査。
任務の範囲。
重要な決定についての本国への報告」
俺は一つずつ説明した。
「軍隊を弱くして将軍の権力を抑えるのではなく、軍隊を維持したまま、政治的な管理を強化するんです」
ハンノはしばらく俺を見つめた。
そして尋ねた。
「君は、バルカ家の味方なのか?」
俺は答えた。
「カルタゴの味方です」
会場が静かになった。
俺は続けた。
「バルカ家がカルタゴを強くするなら、協力します」
「では、バルカ家がカルタゴの利益に反することをしたら?」
「反対します」
ハンノは目を細めた。
「本当に?」
「はい」
俺は頷いた。
「私が守りたいのは、特定の将軍ではありません」
そして、はっきりと言った。
「カルタゴという国です」
ハンノは黙った。
しばらくして、小さく笑った。
「……ほう」
会合が終わった後。
俺はハンノに呼び止められた。
「アドン」
「はい」
「少し話をしないか?」
「もちろんです」
俺たちは別室へ移動した。
ハンノは椅子に座ると、静かに言った。
「君の話は興味深かった」
「ありがとうございます」
「だが、私はバルカ家の軍事拡張を簡単には認められない」
「理由を伺ってもよろしいですか?」
ハンノは頷いた。
「第一次ポエニ戦争を覚えているか?」
「はい」
「カルタゴは長い戦争を続け、最後には敗れた」
「そうですね」
「多くの金を失い、多くの船を失い、多くの人間が死んだ」
俺は黙って聞いていた。
「私は、同じことを繰り返したくない」
ハンノの声には、強い感情がこもっていた。
俺は少し驚いた。
この男は、単にバルカ家を嫌っているだけではない。
戦争そのものを恐れているのだ。
もちろん、政治的な利害もあるだろう。
だが、それだけではない。
「……お気持ちは分かります」
俺は答えた。
「本当か?」
「はい」
「では、なぜ軍事力を強くする必要がある?」
俺は少し考えた。
「戦争を避けるためにも、軍事力が必要な場合があるからです」
ハンノは黙った。
「こちらが弱ければ、相手が要求を強める可能性があります」
「……」
「ですが、こちらが十分な力を持っていれば、相手も戦争の損失を考えるようになります」
ハンノは腕を組んだ。
「抑止力というわけか」
「はい」
俺は頷いた。
「ただし、軍事力を持つだけでは駄目です」
「ほう?」
「相手に、こちらから無理に戦争を始めるつもりはないと伝えることも必要です」
ハンノは目を細めた。
「……つまり?」
「軍事力と外交を両方使うんです」
俺は続けた。
「軍隊を強くするだけでは、ローマを刺激するかもしれません」
「そうだな」
「ですが、軍隊を弱くするだけでは、ローマからの要求を拒めなくなるかもしれません」
ハンノは黙っていた。
「だから、軍事力を維持しながら、外交によって戦争を避ける努力も必要だと思います」
ハンノはしばらく考えた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……君の考えは分かった」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「だが、私はまだバルカ家を信用していない」
「それでいいと思います」
ハンノは少し驚いた。
「何?」
「信用は、言葉だけで得られるものではありません」
俺は答えた。
「実際の行動を見て判断していただければいいと思います」
ハンノは小さく笑った。
「商人らしいな」
「はい」
「では、一つ条件を出そう」
「何でしょう?」
「ヒスパニアの軍事費について、本国が確認できる仕組みを作ることだ」
俺は頷いた。
「分かりました」
「それができれば、私は少なくとも道路や港の整備については反対しない」
俺は顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。
ただし、軍の無制限な拡張を認めるわけではない」
「承知しています」
ハンノは立ち上がった。
「アドン」
「はい」
「君はバルカ家の軍にいるより、本国で働いた方が向いているのではないか?」
俺は少し驚いた。
「そうでしょうか?」
「ああ。
君のような人間は、政治の世界でも役に立つ」
俺は苦笑した。
「私は、まだ商人のつもりなんですが」
ハンノは笑った。
「商人だからこそ、政治に必要なのだ」
その夜。
俺は父の商会へ戻った。
机の上には、大量の記録が並んでいる。
商人たちの意見。
政治家たちの意見。
軍事費への不満。
ローマへの警戒。
バルカ家への不信感。
俺は一つずつ整理した。
そして、ようやく分かった。
カルタゴの政治家たちは、必ずしも軍隊を弱くしたいわけではない。
彼らは、自分たちが管理できない軍隊を恐れているのだ。
ならば、管理できる仕組みを作ればいい。
軍事費の監査。
支出の報告。
商業と軍事の共同投資。
そして、軍事政策と外交政策の調整。
これらを整えれば、本国とバルカ家の対立を少しは和らげられるかもしれない。
俺は新しい報告書を書き始めた。
『カルタゴ本国とヒスパニア軍の協力体制について』
その中に、一つの項目を追加した。
『軍事力の維持と、政治的な管理の両立』
俺は筆を止めた。
「……これができれば、歴史は少し変わるかもしれない」
前世の歴史では、カルタゴは何度も重大な判断を迫られる。
ローマとの戦争。
軍の派遣。
和平交渉。
そして、ハンニバルへの支援。
そのとき、本国が一枚岩でなければ、決断は遅れる。
決断が遅れれば、戦場の状況は変わってしまう。
俺はその未来を知っている。
だからこそ、今から準備する必要がある。
翌朝。
父が俺の部屋へ入ってきた。
「アドン」
「どうしたの?」
「お前に客だ」
「誰?」
父は少し困った顔をした。
「ハンノ殿の使いだ」
俺は驚いた。
「昨日会ったばかりなのに?」
「ああ」
「何の用だろう?」
父は一枚の書簡を差し出した。
俺は封を開いた。
そこには短い文章が書かれていた。
『アドン殿。
昨日の話について、さらに詳しく聞きたい。
特に、ローマとの外交関係について意見を求めたい。
明日、私の屋敷へ来てほしい。』
俺は書簡を見つめた。
ローマとの外交。
ついに、その話が出てきた。
俺は窓の外を見た。
港には多くの商船が並んでいる。
その中には、ローマとの交易に関わる船もある。
カルタゴとローマ。
二つの大国。
前世の歴史では、再び戦争を始めることになる。
だが、今はまだ戦争前だ。
外交によって変えられることもあるかもしれない。
俺は書簡を机に置いた。
「……面白くなってきたな」
そして、ふと考えた。
ハンノは戦争を避けたい。
ハミルカルはローマを警戒している。
ハンニバルは、いつかローマに勝ちたいと思っている。
三人の考え方は違う。
だが、共通するものもある。
それは――
カルタゴを守りたいということだ。
ならば、対立する必要はない。
目的が同じなら、協力できる部分もあるはずだ。
俺は新しい紙を取り出した。
そこに大きく書いた。
『ローマと戦争になった場合、カルタゴはどうすれば勝てるのか』
そして、その下にもう一行を書き加えた。
『そもそも、ローマとの戦争を避けることはできるのか』
俺はしばらく、その二つの文章を見つめた。
未来を知っている俺だからこそ、考えなければならない問題だった。
ローマとの戦争を避ける。
それができれば、ザマの戦いそのものが起きないかもしれない。
だが、戦争を避けるために軍事力を弱めれば、別の形でカルタゴが滅びる可能性もある。
俺は小さく呟いた。
「……簡単な話じゃないな」
そのとき、父が声をかけてきた。
「アドン」
「何?」
「もう一通、書簡が届いている」
「誰から?」
「ヒスパニアからだ」
俺は顔を上げた。
父は書簡を渡してきた。
差出人は、ハミルカル・バルカ。
俺は急いで封を開いた。
そこには、こう書かれていた。
『本国での交渉について報告を受けた。
よくやってくれた。
だが、ヒスパニアで新たな問題が発生した。
一部の部族が、カルタゴ軍への食料供給を拒否し始めている。
交易上の不満が原因らしい。
至急、対応策を考えてほしい。』
俺は書簡を読み終えると、深く息を吐いた。
本国では政治家との交渉。
ヒスパニアでは部族との対立。
そして、その先にはローマがいる。
やるべきことが多すぎる。
だが、俺は少し笑った。
「……いいじゃないか」
戦争になる前に、問題が見つかる。
それは悪いことではない。
今なら、まだ直せる。
俺は机に向かった。
そして、二通の書簡を並べた。
一通はハンノから。
もう一通はハミルカルから。
カルタゴ本国の有力政治家。
ヒスパニアの軍を率いる将軍。
本来なら対立する二人が、同じ商人に意見を求めている。
俺はその事実に気づいた。
「……もしかして」
俺は小さく呟いた。
「俺、両方の間に立てるんじゃないか?」
軍人でもない。
政治家でもない。
ただの商人。
だからこそ、双方と話ができる。
俺は地図を広げた。
カルタゴ。
ヒスパニア。
ローマ。
そしてヌミディア。
未来の戦争を変えるためには、軍事力だけでは足りない。
政治。
外交。
経済。
そのすべてをつなぐ必要がある。
俺は筆を握った。
「まずは、ヒスパニアの部族問題からだな」
だが、このときの俺には、まだ知る由もなかった。
食料供給を拒否した部族の背後に、単なる交易上の不満だけではない事情があることを。
そして、その問題を解決するためには、カルタゴ軍がこれまで当然のように行ってきた慣習そのものを変える必要があることを。
俺がハンニバルの相談役になるための道は、まだ始まったばかりだった。




