第七話 カルタゴ政府は軍隊を強くしたくないらしい
翌朝。
俺はハミルカル将軍の司令部へ向かった。
今日は軍の補給会議ではない。
ヒスパニアにおける軍事拡張と、カルタゴ本国との関係について話し合う会議だった。
会議室には十人ほどの男たちが集まっていた。
軍の指揮官。
補給担当者。
財務担当者。
そしてカルタゴ本国との連絡を担当する役人。
その中に、ハンニバルの姿もあった。
「アドン、来たか」
ハンニバルが声をかけてきた。
「おはようございます」
「今日は面白い話が聞けそうだぞ」
「そうでしょうか?」
「父上が、お前にも意見を聞きたいと言っていた」
俺は少し緊張した。
これまでは補給について意見を求められていた。
だが、今日は違う。
軍事政策そのものに関わる会議だ。
やがてハミルカルが入ってきた。
全員が立ち上がる。
「座れ」
将軍の一言で会議が始まった。
「まず、カルタゴ本国から届いた書簡について説明する」
ハミルカルが言った。
役人が書簡を読み上げる。
内容は、ヒスパニアにおける軍事費の増加についてだった。
兵士の増員。
武器の購入。
道路の整備。
倉庫の建設。
そして艦船の維持費。
これらの支出について、本国の有力者たちから疑問が出ているらしい。
「軍事費を増やしすぎではないか」
「ヒスパニアの収益は本国へ送るべきだ」
「バルカ家が独自の軍事力を持ちすぎている」
そんな意見が出ているという。
会議室の空気が重くなった。
一人の将校が口を開いた。
「本国の連中は何を考えているのですか?」
別の将校も続けた。
「我々がヒスパニアで勢力を広げているからこそ、カルタゴの国力が回復しているのです」
「軍事費を削れば、征服した地域を維持できません」
不満の声が上がった。
だが、ハミルカルは黙っていた。
全員の発言が終わると、静かに言った。
「本国にも事情がある」
将校たちが顔を上げた。
「第一次ポエニ戦争で、カルタゴは多くを失った。
賠償金の負担もある。
商人たちは交易の回復を望んでいる」
ハミルカルは続けた。
「そして、再びローマとの戦争になることを恐れている者も多い」
俺は頷いた。
それは理解できる。
商人にとって、戦争は必ずしも利益になるわけではない。
船が沈む。
交易路が封鎖される。
港が攻撃される。
商品が届かなくなる。
戦争によって大儲けする商人もいるだろう。
だが、平和な交易を望む商人も多いはずだ。
問題は、軍事力を弱めれば平和が続くとは限らないことだった。
「アドン」
突然、ハミルカルが俺を呼んだ。
「はい」
「お前は商人だ」
「そうです」
「本国の商人たちが軍事費の増加を嫌がる理由は分かるか?」
俺は少し考えた。
「分かります」
会議室の視線が集まった。
「商人は利益を求めます。
軍事費が増えれば、その分だけ税や負担が増える可能性があります」
「そうだな」
「それに、戦争が始まれば交易にも影響します」
ハミルカルは頷いた。
「では、軍事費を削るべきだと思うか?」
俺は首を振った。
「いいえ」
将校たちが俺を見た。
「ただし、軍事費を増やす理由を説明する必要があると思います」
「理由?」
「はい。
軍隊を強くするためだけでは、本国の商人たちは納得しないと思います」
ハミルカルは腕を組んだ。
「では、どう説明する?」
俺は机の上の地図を指差した。
「ヒスパニアで軍事力を維持することが、カルタゴの利益につながると説明します」
「具体的には?」
「まず、交易路の安全です」
俺は続けた。
「道路を整備すれば、軍隊だけでなく商人も利用できます」
「そうだな」
「港を整備すれば、軍需物資だけでなく一般の商品も運べます」
「うむ」
「倉庫も同じです。
軍用と商業用を分ける必要はありますが、整備した物流網は地域全体の経済を発展させます」
財務担当者が頷いた。
俺はさらに続けた。
「そして、軍が治安を維持すれば、商人は安心して交易できます」
ハミルカルは静かに聞いていた。
「つまり、軍事費を単なる支出として説明するのではなく、交易を守るための投資として説明するんです」
「投資か」
「はい」
俺は頷いた。
「本国の商人たちが欲しいのは、強い軍隊そのものではありません。
安全に商売ができる環境です」
ハミルカルは小さく笑った。
「ほう。
軍隊の価値を商人の言葉で説明するわけか」
「そうです」
財務担当者が口を開いた。
「しかし、説明だけで納得するでしょうか?」
「難しいと思います」
俺は答えた。
「だから、数字を示す必要があります」
「数字?」
「はい。
ヒスパニアから本国へ送られている収益と、軍事費を比較します」
俺は紙を取り出した。
「例えば、道路を整備したことで輸送費がどれだけ減ったか」
「ほう」
「港の荷扱い量がどれだけ増えたか」
「うむ」
「鉱山からの収益がどれだけ増えたか」
財務担当者は身を乗り出した。
「それなら資料がある」
「では、それをまとめましょう」
俺は続けた。
「さらに、今後の軍事費についても、何に使うのかを明確にします」
「何に使うか?」
「はい。
兵士の増員、道路整備、倉庫建設、港湾整備。
それぞれ分けて計算します」
ハミルカルが尋ねた。
「それで何が変わる?」
「本国の有力者たちが、支出の内容を判断できるようになります」
俺は答えた。
「今は、軍事費が増えているという話だけが伝わっているのではないでしょうか?」
財務担当者が頷いた。
「確かに、詳細な内訳までは送っていない」
「それでは、何に金を使っているのか分からず、不安になると思います」
ハミルカルはしばらく考えた。
そして言った。
「分かった。
報告書を作ろう」
俺は頷いた。
「ただし、もう一つ必要だと思います」
「何だ?」
「本国の商人たちにも、利益を得てもらうことです」
会議室が静かになった。
「どういう意味だ?」
ハミルカルが尋ねた。
「ヒスパニアで軍事力を維持することで、カルタゴ本国の商人にも商売の機会が増える仕組みを作るんです」
俺は地図を指差した。
「例えば、軍が必要とする食料や衣類、武器の一部を本国の商会から購入します」
「それはすでに行っている」
「はい。
でも、もっと計画的に発注できると思います」
俺は続けた。
「一年間に必要な物資を見積もり、長期契約を結ぶんです」
財務担当者が反応した。
「長期契約?」
「はい。
商人にとって、来月何が売れるか分からないのは大きな問題です」
「そうだな」
「でも、軍が一年間に必要な数量を示せば、商人は事前に準備できます」
「ほう」
「生産する職人も仕事が増えます。
輸送する商人も利益を得られます」
ハミルカルは頷いた。
「軍事費が商人の利益にもなるわけか」
「そうです」
俺は答えた。
「軍事費を削るか増やすかだけで争うのではなく、軍事費を使ってカルタゴ全体を豊かにする方法を考えるんです」
会議室にいた男たちが顔を見合わせた。
一人の将校が笑った。
「ほう。
商人には商売をさせればいいのか」
俺は首を振った。
「ただし、軍の契約を特定の商会だけに集中させるのは危険です」
「なぜだ?」
「その商会が失敗したら、軍への補給が止まります」
「確かに」
「それに、不正が起きる可能性もあります」
ハミルカルの目が鋭くなった。
「不正?」
「はい。
軍との契約を独占できれば、値段を不当に上げる商人が出るかもしれません」
俺は続けた。
「だから、複数の商会と契約し、価格と品質を比較する仕組みが必要です」
財務担当者が大きく頷いた。
「それなら、軍の支出も管理しやすくなる」
「はい」
俺は答えた。
「軍隊を強くすることと、無駄な支出を減らすことは両立できます」
ハミルカルはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「アドン」
「はい」
「お前は軍の補給だけでなく、政治にも口を出すようになったな」
俺は少し慌てた。
「申し訳ありません」
だが、ハミルカルは笑った。
「謝る必要はない」
そして続けた。
「軍隊は政治から離れて存在できるものではない」
俺は頷いた。
まさにそのとおりだった。
前世の歴史でも、ハンニバルは戦場で数々の勝利を収めた。
しかし、カルタゴ本国の政治的な事情は、戦争全体に影響を与え続けた。
軍事的な勝利だけでは、国を動かせない。
俺が変えなければならないのは、そこでもあった。
会議が終わった後。
ハンニバルが俺に近づいてきた。
「アドン」
「はい」
「今日の話は面白かった」
「ありがとうございます」
「だが、一つ疑問がある」
「何でしょう?」
ハンニバルは少し考えた。
「もし本国が、どうしても軍事費を増やさないと言ったらどうする?」
俺は答えた。
「今ある資金を、もっと効率よく使うしかありません」
「それでも足りなければ?」
「軍事計画を見直します」
ハンニバルは眉をひそめた。
「軍事計画を?」
「はい。
必要な資金がないのに軍を増やしても、維持できませんから」
「しかし、それでは敵に遅れを取る」
「そうですね」
俺は頷いた。
「だからこそ、軍事力だけに頼らない方法も必要になります」
「例えば?」
「外交です」
ハンニバルの表情が変わった。
「外交?」
「はい。
味方を増やせば、自分たちだけですべての兵力を用意する必要がなくなります」
「ほう」
「それに、敵の味方を減らすことができれば、戦わずに敵の力を弱められます」
ハンニバルは腕を組んだ。
「……戦わずに勝つということか」
「そうです」
俺は続けた。
「軍隊を増やすことだけが、国を強くする方法ではありません」
ハンニバルはしばらく考えていた。
そして、突然尋ねた。
「アドン。
お前なら、ローマと戦う前に何をする?」
俺は少し考えた。
「まず、ローマの同盟関係を調べます」
「それは以前も言っていたな」
「はい」
「ほかには?」
「カルタゴの味方になってくれる国や部族を増やします」
「例えば?」
俺は地図を見た。
そして、ある地域を指差した。
「ヌミディアです」
ハンニバルは頷いた。
「優秀な騎兵を持つ部族が多い」
「はい」
「我々も協力を得ている」
「ですが、その関係が将来も続くとは限りません」
ハンニバルは俺を見た。
「……どういう意味だ?」
俺は慎重に答えた。
「部族には、それぞれの利益があります。
カルタゴに協力する方が得だと思えば味方になりますが、ローマに協力する方が得だと思えば、そちらへ行くかもしれません」
ハンニバルは黙った。
俺は続けた。
「だから、軍事的な協力だけでなく、交易や婚姻、政治的な関係も重要になると思います」
「ほう」
「特に騎兵は、戦争が始まってから急に育てることができません」
ハンニバルは頷いた。
「それは分かる」
「だから、今から関係を強くしておくべきだと思います」
ハンニバルは地図を見つめた。
そして言った。
「父上にも話してみよう」
俺は頷いた。
これで一つ、未来を変えるための種をまくことができた。
それから一か月。
俺は財務担当者たちと協力し、ヒスパニアの軍事費と経済効果をまとめた報告書を作成した。
鉱山からの収益。
交易による税収。
道路整備による輸送費の削減。
軍需品の購入額。
兵士の維持費。
倉庫建設費。
さらに、今後三年間の収支見通しも作った。
もちろん、未来の収益を正確に予測することはできない。
だから、複数の条件を設定した。
交易が順調に拡大した場合。
現在の規模を維持した場合。
戦争や反乱によって収益が減少した場合。
それぞれについて、軍をどれくらい維持できるか計算した。
完成した報告書を見たハミルカルは、しばらく黙っていた。
「……これほど詳しい資料は初めて見た」
「ありがとうございます」
「本国の連中にも見せてやりたいものだ」
俺は答えた。
「そのために作りました」
ハミルカルは笑った。
「そうだったな」
そして、報告書を閉じた。
「アドン。
お前に頼みたいことがある」
「何でしょう?」
「この報告書を、カルタゴ本国へ届けてほしい」
俺は驚いた。
「私がですか?」
「ああ」
「使者ではなく?」
「使者も同行させる。
だが、数字について質問されたとき、説明できる者が必要だ」
ハミルカルは続けた。
「お前なら、商人たちの疑問にも答えられるだろう」
俺は少し考えた。
カルタゴ本国。
そこには、バルカ家を支持する者もいれば、反対する者もいる。
そして、前世の歴史でハンニバルの戦争を支えることになる政治家たちもいる。
今から彼らとの関係を作れるなら、大きな意味がある。
「分かりました」
俺は答えた。
「行かせてください」
ハミルカルは頷いた。
「ただし、気をつけろ」
「何にでしょう?」
「本国では、正しい数字を示せば全員が納得するとは限らん」
俺は苦笑した。
「分かっています」
「利益が絡めば、人間は簡単には意見を変えん」
「そうですね」
「それでも行くか?」
俺は頷いた。
「はい」
ハミルカルは満足そうに笑った。
「よかろう」
出発前夜。
ハンニバルが俺の宿を訪ねてきた。
「アドン」
「どうしました?」
「本国へ行くと聞いた」
「はい」
「父上の報告書を届けるそうだな」
「そうです」
ハンニバルは少し考えた。
そして言った。
「一つ頼みたいことがある」
「何でしょう?」
「本国の人間が、ローマについてどう考えているのか調べてきてほしい」
俺は顔を上げた。
「ローマについて?」
「ああ」
ハンニバルは真剣な表情だった。
「父上はローマを警戒している。
私も同じだ」
「はい」
「だが、本国には戦争を避けたい者も多いと聞く」
「そうですね」
「彼らが何を恐れているのか知りたい」
俺は少し驚いた。
単に反対派を敵視するのではなく、その理由を知ろうとしている。
まだ若いが、ハンニバルは政治の重要性を理解し始めているようだった。
「分かりました」
俺は答えた。
「できるだけ多くの人の話を聞いてきます」
ハンニバルは頷いた。
「頼む」
そして、少し笑った。
「お前は商人だからな。
軍人には聞けない話も聞けるだろう」
「そうかもしれません」
「戻ってきたら、また話そう」
「はい」
俺は頷いた。
ハンニバルは立ち上がった。
そして扉の前で振り返った。
「アドン」
「何でしょう?」
「私は、いつかローマに勝ちたいと思っている」
俺は黙った。
「父上が果たせなかったことを、私が果たしたい」
その目には、強い決意があった。
俺は答えた。
「そのときは、戦場で勝つだけでは足りません」
ハンニバルは笑った。
「分かっている」
そして言った。
「戦争そのものに勝たなければならない、だろう?」
俺も笑った。
「はい」
ハンニバルは頷くと、部屋を出ていった。
翌朝。
俺はカルタゴへ向かう商船に乗った。
ヒスパニアの港が遠ざかっていく。
船倉には交易品が積まれていた。
そして俺の荷物の中には、ハミルカルから預かった報告書がある。
軍事費。
交易。
鉱山。
道路。
補給。
これらを数字で示した資料だ。
だが、今回の仕事は報告書を届けるだけではない。
カルタゴ本国の政治家たちと接触する。
バルカ家を支持する者。
警戒する者。
ローマとの戦争を恐れる者。
そして、軍事力の回復を望む者。
彼らが何を考えているのかを知る必要がある。
俺は海を見つめた。
「……ようやく政治の世界か」
前世の歴史では、カルタゴはローマとの戦争に敗れた後、軍事的な自由を大きく制限される。
そして、その制限を利用する形でヌミディアのマシニッサが勢力を広げていく。
カルタゴは自力で対抗することが難しくなり、最後には第三次ポエニ戦争へと追い込まれる。
俺は、その未来を知っている。
だからこそ、軍事力を維持する必要がある。
だが、軍事力を維持するためには、本国の政治的な支持も必要だった。
俺は報告書の入った木箱を見た。
「まずは、味方を増やすことからだな」
戦場で勝つための準備は、戦場だけで行うものではない。
議会。
市場。
商会。
そして人間関係。
そのすべてが、戦争の結果に影響する。
俺はカルタゴへ向かった。
まだ知らなかった。
本国ではすでに、バルカ家の勢力拡大を警戒する有力者たちが、ヒスパニアから届く報告書に注目していたことを。
そして、俺の名前もまた、彼らの間で知られ始めていたことを。
カルタゴを救うための戦いは、ローマとの戦争よりもずっと前から始まっていた。




