第六話 ハンニバルに戦争の勝ち方を聞かれた
ハミルカル将軍との面会から、十日が過ぎた。
俺はヒスパニア各地の物資調達について調査を続けていた。
食料の生産量。
鉱山から産出される銀や鉄。
港から内陸へ続く道路。
荷車の輸送能力。
そして軍隊が一日に消費する物資。
調べれば調べるほど、ヒスパニアの重要性が分かってきた。
豊かな鉱山がある。
農地もある。
兵士を集められる部族も多い。
カルタゴがローマと再び戦うなら、この土地は重要な軍事基盤になる。
だが、問題も多かった。
「……道路が足りないな」
俺は地図を見ながら呟いた。
港から内陸へ物資を運ぶには、山道を通らなければならない地域が多い。
雨が降れば荷車が動けなくなる。
橋が壊れれば輸送が止まる。
さらに、部族同士の争いで通行できなくなる道もある。
軍隊を増やすだけでは駄目だ。
軍隊を支える仕組みも必要になる。
俺は報告書に書き込んだ。
主要道路の整備。
橋の補修。
補給倉庫の増設。
輸送用の家畜の確保。
そして、現地商人との長期契約。
一つずつ実行すれば、軍の行動範囲は広がるはずだった。
そのとき、部屋の扉が叩かれた。
「アドン殿」
「はい」
「ハンニバル様がお呼びです」
俺は顔を上げた。
「ハンニバル様が?」
「はい。
騎兵の訓練場へ来てほしいとのことです」
俺は報告書を閉じた。
どうやら、以前の約束を覚えていたらしい。
騎兵の訓練場は、軍営から少し離れた平野にあった。
広い土地を、数十騎の騎兵が駆け回っている。
馬の蹄が地面を叩く。
砂埃が舞い上がる。
騎兵たちは隊列を組み、合図に合わせて方向を変えていた。
その中央にハンニバルがいた。
「アドン!」
俺に気づくと、馬を走らせて近づいてきた。
「来てくれたか」
「お招きありがとうございます」
「堅苦しい挨拶はいい。
それより、訓練を見てくれ」
ハンニバルは馬から降りた。
「どう思う?」
俺は訓練場を見渡した。
騎兵たちは素早く移動している。
方向転換も速い。
歩兵では簡単に追いつけないだろう。
「よく訓練されていると思います」
「そうだろう」
ハンニバルは満足そうに頷いた。
「騎兵は戦場で重要な役割を果たす」
「はい」
「敵の側面を攻撃できる。
逃げる敵を追撃できる。
偵察にも使える」
俺は頷いた。
まさにそのとおりだ。
そして、ザマの戦いでも騎兵が勝敗を大きく左右する。
ハンニバルは俺を見た。
「そこで聞きたい」
「何でしょう?」
「騎兵を増やすには、どうすればいい?」
俺は少し考えた。
「馬を買うだけでは足りません」
「分かっている。
騎兵も育てなければならない」
「それに、馬を維持する場所も必要です」
「飼料のことか?」
「はい。
それと水です」
俺は訓練場を指差した。
「例えば、騎兵を千騎増やしたとします」
「うむ」
「馬も千頭増えます」
「当然だ」
「ですが、実際には予備の馬も必要になります」
ハンニバルは頷いた。
「負傷した馬や疲れた馬を交換するためだな」
「そうです。
さらに馬具を修理する職人、蹄を管理する者、飼料を運ぶ人員も必要になります」
「ほう」
「つまり、騎兵千騎を増やすということは、単純に兵士千人を増やす話ではありません」
ハンニバルは腕を組んだ。
「では、どうする?」
「まず、馬を安定して供給できる地域を確保します」
「馬を育てる土地か」
「はい。
それと、騎兵を育てる仕組みです」
俺は続けた。
「騎兵は短期間では育ちません。
馬に乗れるだけでは、戦場で使える騎兵にはならないと思います」
「そのとおりだ」
ハンニバルは大きく頷いた。
「隊列を保ち、命令に従い、敵を恐れず突撃できなければならない」
「だから、戦争が始まってから集めるのでは遅いんです」
ハンニバルの表情が変わった。
「……戦争が始まる前から準備するということか」
「はい」
俺は頷いた。
「騎兵は、長い時間をかけて育てるべき戦力だと思います」
ハンニバルはしばらく黙っていた。
そして、突然笑った。
「父上が気に入るわけだ」
「そうでしょうか?」
「ああ。
お前はいつも、戦う前のことを考えている」
俺は苦笑した。
「商人ですから」
「便利な言葉だな、それは」
ハンニバルは笑った。
その後、俺たちは訓練場の端にある天幕へ移動した。
机の上には地図が広げられていた。
ハンニバルは椅子に座ると、俺に尋ねた。
「アドン。
もう一つ聞きたいことがある」
「はい」
「父上は、かつてローマと戦った」
俺は頷いた。
「第一次ポエニ戦争ですね」
「そうだ」
ハンニバルの表情が真剣になった。
「父上はシチリアで戦い続けた。
だが、カルタゴは戦争に敗れた」
「……はい」
「なぜだと思う?」
難しい質問だった。
しかも、相手はハミルカルの息子だ。
下手なことを言えば、父親を侮辱したと思われるかもしれない。
俺は慎重に答えた。
「戦場で勝つことと、戦争に勝つことは違うからだと思います」
ハンニバルは黙った。
俺は続けた。
「戦争には、兵士だけでなく、船、食料、資金、そして政治的な支援が必要です」
「そうだな」
「一つの戦場で勝っても、別の場所で大敗すれば、戦争全体では不利になります」
ハンニバルは地図を見た。
「海戦か」
「はい」
第一次ポエニ戦争では、ローマが海軍力を強化した。
カルタゴは海上交易で栄えた国家だったが、ローマは海戦でも対抗できるようになった。
そして最後には、カルタゴは戦争を継続する力を失った。
「つまり、将軍が優秀でも勝てないことがあるのか?」
ハンニバルが尋ねた。
「あると思います」
俺は答えた。
「将軍が戦場で勝っても、国が戦争を続けられなくなれば負けます」
ハンニバルは考え込んだ。
そして、静かに言った。
「では、ローマに勝つにはどうすればいい?」
俺の心臓が跳ねた。
ついに、その質問が来た。
ローマに勝つ方法。
俺が何年も考え続けてきた問題だ。
だが、ここで未来の知識をすべて話すわけにはいかない。
まずは、今のハンニバルにも理解できる話から始めるべきだ。
「ローマ軍を倒すだけでは、足りないと思います」
「……何?」
ハンニバルが顔を上げた。
「ローマ軍を倒しても、ローマは新しい軍隊を作ります」
「当然だろう」
「ですが、その新しい軍隊も倒したら?」
「また作るだろうな」
「さらに倒したら?」
ハンニバルは少し考えた。
「……国力が尽きるまで戦うかもしれない」
俺は頷いた。
「そうです」
ローマの恐ろしさは、そこにある。
一度負けても終わらない。
二度負けても終わらない。
大軍を失っても、新たな兵士を集める。
前世の歴史では、カンナエで壊滅的な敗北を喫しても、ローマは降伏しなかった。
だからこそ、ハンニバルは苦しむことになる。
「では、どうすればいい?」
ハンニバルが尋ねた。
俺は地図のイタリア半島を指差した。
「ローマを支えているものを調べる必要があります」
「支えているもの?」
「はい。
ローマは一つの都市だけで戦っているわけではありません」
俺はイタリア各地を指差した。
「ローマには同盟都市があります。
そこから兵士や物資を集めています」
ハンニバルは頷いた。
「知っている」
「ならば、ローマ軍を倒すだけでなく、その同盟関係を崩すことも重要だと思います」
ハンニバルの目が鋭くなった。
「……同盟都市を味方につけるのか?」
「はい」
「どうやって?」
「ローマに従うより、カルタゴに協力した方が利益になると思わせるんです」
ハンニバルはしばらく黙っていた。
俺は続けた。
「ローマの同盟都市が兵士を出さなくなれば、ローマは軍隊を補充しにくくなります」
「ほう」
「食料を供給しなくなれば、軍の維持も難しくなります」
「そうだな」
「さらに、カルタゴ側へ寝返る都市が増えれば、現地で補給できる場所も増えます」
ハンニバルは地図を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「つまり、ローマの軍隊ではなく、ローマの戦争を続ける力を削るのか」
「そうです」
俺は頷いた。
「戦場で勝つことは重要です。
でも、それだけでは戦争は終わりません」
ハンニバルはしばらく考え込んでいた。
「面白い」
ハンニバルが呟いた。
「非常に面白い考え方だ」
「ありがとうございます」
「だが、問題がある」
「何でしょう?」
「ローマの同盟都市が、簡単に寝返るとは思えん」
俺は頷いた。
「そのとおりです」
「ならば、どうする?」
「寝返った都市を守る必要があります」
ハンニバルは眉をひそめた。
「守る?」
「はい。
カルタゴに協力した都市が、すぐにローマ軍に攻められて滅ぼされたら、ほかの都市は寝返らなくなります」
「……確かに」
「だから、味方になった都市を守れるだけの戦力が必要です」
ハンニバルは地図を見た。
「しかし、すべての都市に兵士を置くわけにはいかん」
「そうです」
俺は頷いた。
「だからこそ、事前に計画する必要があります」
「事前に?」
「どの都市が協力してくれそうなのか。
どの都市がローマに忠実なのか。
どこを守れば周辺地域を維持できるのか」
俺は地図を指差した。
「そうした情報を、戦争が始まる前から集めておくんです」
ハンニバルは黙っていた。
俺は続けた。
「それに、都市を味方につけるなら、食料や資金の支援も必要になるかもしれません」
「金か」
「はい。
戦争には金が必要です」
「お前は本当に商人だな」
ハンニバルは笑った。
俺も笑った。
だが、内心では真剣だった。
前世の歴史では、ハンニバルはイタリアで数々の勝利を収めた。
しかし、ローマの同盟体制を完全に崩すことはできなかった。
カプアなど一部の都市はカルタゴ側についたが、ローマは戦争を続けた。
そして、ハンニバルは長い戦いの末にイタリアから呼び戻される。
その結末を変えるには、戦場の勝利を政治的な成果につなげる必要がある。
「ハンニバル様」
「何だ?」
「もしローマと戦うことになったら、一つだけ覚えておいてください」
「何を?」
「大きな戦いに勝った後こそ、次に何をするかが重要です」
ハンニバルは俺を見た。
「勝った後?」
「はい。
勝利しただけで満足してはいけません」
「……ほう」
「敵の軍隊を倒した後、その勝利を使って何を得るのか。
そこまで決めておく必要があります」
ハンニバルはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「覚えておこう」
その日の夕方。
ハンニバルは俺を司令部まで連れていった。
中にはハミルカルがいた。
「父上」
「どうした?」
「アドンと話をしていました」
ハミルカルは俺を見た。
「ほう。
何の話だ?」
「ローマに勝つ方法です」
ハミルカルの表情が変わった。
「……ローマ?」
「はい」
ハンニバルは机の上に地図を広げた。
そして、先ほど俺が話した内容を説明し始めた。
ローマの同盟都市。
兵士の供給。
食料。
資金。
そして、戦場の勝利を政治的な成果につなげる必要性。
ハミルカルは黙って聞いていた。
説明が終わると、俺に尋ねた。
「アドン」
「はい」
「これは、お前の考えか?」
「はい」
「なぜ、そこまでローマのことを考えている?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
本当の理由は言えない。
俺は未来を知っている。
ローマとカルタゴが再び戦うことも。
ハンニバルがアルプスを越えることも。
ザマで敗れることも。
だが、そんな話をしても信じてもらえないだろう。
俺は答えた。
「カルタゴにとって、ローマは最大の脅威だと思うからです」
ハミルカルは黙っていた。
「第一次ポエニ戦争で、カルタゴはシチリアを失いました」
「そうだ」
「賠償金も支払いました」
「……ああ」
「ですが、ローマが今後もカルタゴの勢力拡大を認めるとは限りません」
ハミルカルの目が鋭くなった。
「続けろ」
「ヒスパニアで勢力を広げれば、カルタゴは再び強くなります」
「そうだな」
「しかし、強くなればなるほど、ローマは警戒すると思います」
ハミルカルは腕を組んだ。
「つまり、再び戦争になる可能性があると?」
「はい」
俺は頷いた。
「だから、今から準備しておくべきだと思います」
ハミルカルはしばらく考えていた。
そして、静かに言った。
「……お前は先を見ているな」
俺は黙っていた。
「目の前の利益だけを追う商人ではない」
ハミルカルは立ち上がった。
「アドン。
今後も軍の補給を任せたい」
「ありがとうございます」
「だが、それだけではない」
俺は顔を上げた。
「軍の運用や外交についても、気づいたことがあれば報告してほしい」
心臓が跳ねた。
補給だけではない。
軍事。
外交。
それらについても意見を求められる。
これは大きな前進だった。
「分かりました」
俺は深く頭を下げた。
ハミルカルは頷いた。
「ただし、忘れるな」
「何でしょう?」
「戦争は帳簿どおりには進まん」
「はい」
「敵も考える。
味方も間違える。
天候も変わる」
「そのとおりだと思います」
「だから、計画だけで勝てると思うな」
俺は頷いた。
「計画は、失敗したときに立て直せるようにするためにも必要だと思っています」
ハミルカルは少し驚いた顔をした。
そして笑った。
「ほう。
ますます面白い」
その夜。
俺は宿の部屋で、今日の出来事を整理していた。
ハンニバルとローマについて話した。
ハミルカルにも意見を求められた。
軍の補給だけでなく、軍事や外交についても報告する機会を得た。
まだ正式な相談役ではない。
だが、確実に近づいている。
俺は地図を広げた。
ローマ。
カルタゴ。
ヒスパニア。
ヌミディア。
そしてザマ。
俺は最後の地名を見つめた。
「……問題は、まだ山ほどある」
ローマの同盟都市。
カルタゴ本国の政治。
軍の補給。
騎兵。
そしてヌミディア。
特にヌミディアは重要だった。
前世の歴史では、ザマの戦いでマシニッサがローマ側につく。
その結果、ハンニバルは騎兵で不利になった。
ならば、今から関係を作る必要がある。
ただし、ヌミディアは一つの勢力ではない。
複数の王家や部族が存在し、それぞれに利害関係がある。
単純に金を渡せば味方になるわけではない。
長い時間をかけて、政治的な関係を築く必要がある。
俺は紙に書き込んだ。
『ヌミディアとの交易関係を強化する』
軍事同盟をいきなり結ぶのは難しい。
だが、商人なら交易から関係を作れる。
馬。
穀物。
革製品。
金属製品。
互いに利益のある取引を増やせば、政治的な関係にも影響するかもしれない。
俺は筆を置いた。
「……次はヌミディアだな」
そのとき、扉が叩かれた。
「アドン殿」
「はい」
「ハミルカル将軍から伝言です」
俺は扉を開けた。
兵士が一枚の書簡を差し出した。
そこには、翌日の会議への出席を求める内容が書かれていた。
議題は――
『ヒスパニアにおける軍事拡張と、今後のカルタゴの戦略について』
俺は書簡を見つめた。
補給担当者としてではない。
軍の方針を話し合う会議への出席。
いよいよ、戦争の準備そのものに関わることになる。
俺は静かに呟いた。
「……歴史が動き始めたな」
だが、俺が知らなかったことが一つあった。
翌日の会議では、カルタゴ本国から届いた報告が議題になる予定だった。
それは、バルカ家の勢力拡大を警戒する有力者たちの動きだった。
ローマと戦う前に、カルタゴ内部の政治問題が立ちはだかろうとしていた。
そして俺は、初めて知ることになる。
軍隊を強くすることよりも、軍隊を強くする許可を得ることの方が難しい場合があるということを。




