第五話 ハンニバルの父に呼ばれた商人
ヒスパニアへ来てから、三か月が過ぎた。
俺はすっかり軍の補給業務に組み込まれていた。
朝は倉庫の在庫確認。
昼は輸送計画の作成。
午後は各部隊から届いた報告書の整理。
そして夜は、翌日以降の食料消費量を計算する。
商人の仕事というより、軍の役人に近い。
もっとも、正式な軍人になったわけではない。
俺はあくまで商会から派遣された協力者だった。
「アドン!」
補給担当のアズルバルが駆け込んできた。
「どうしました?」
「大変だ!」
「食料が不足しましたか?」
「違う!」
「輸送隊が襲われました?」
「それも違う!」
俺は首を傾げた。
「では、何が?」
アズルバルは息を整えた。
「将軍がお前を呼んでいる」
「将軍?」
「ああ」
「どこの将軍です?」
アズルバルは俺を見つめた。
「ハミルカル・バルカ将軍だ」
俺は思わず立ち上がった。
ハミルカル・バルカ。
第一次ポエニ戦争でローマと戦った名将。
敗戦後、ヒスパニアへ進出し、カルタゴの勢力を立て直そうとしている人物。
そして何より、ハンニバルの父親だ。
「……本当に?」
「こんなことで冗談を言うか!」
俺は慌てて机の上を片付けた。
ついに来た。
バルカ家の中心人物と直接会う機会が。
将軍の司令部は、軍営の奥にあった。
入口には武装した兵士が立っている。
中へ入ると、大きな地図が壁に掛けられていた。
ヒスパニアの地形。
河川。
山脈。
主要な町。
そして、カルタゴ軍の勢力圏。
その地図の前に、一人の男が立っていた。
年齢は四十代ほど。
がっしりとした体格。
日に焼けた顔。
そして、鋭い目。
男は俺を見ると、静かに口を開いた。
「お前がアドンか」
「はい」
「私はハミルカル・バルカだ」
俺は深く頭を下げた。
「お目にかかれて光栄です」
「堅苦しい挨拶はいい」
ハミルカルは椅子を指差した。
「座れ」
俺は腰を下ろした。
机の上には、見覚えのある書類が置かれていた。
俺が作った補給計画書だ。
「これを作ったのはお前か?」
「はい」
「兵士一万人を増やした場合の補給計画だな」
「そうです」
「なかなか興味深い」
ハミルカルは書類をめくった。
「だが、一つ聞きたい」
「何でしょう?」
「なぜ兵士を増やす前に、倉庫と道路を整備する必要がある?」
俺は答えた。
「兵士を増やしても、食料を運べなければ戦えないからです」
「それは分かる」
ハミルカルは頷いた。
「だが、敵が攻めてきたらどうする? 倉庫が完成するまで待ってもらうのか?」
当然の質問だった。
「緊急の場合は、現在の補給能力で維持できる範囲の兵力を先に動かします」
「残りは?」
「後から増やします」
「敵に兵力で劣っていてもか?」
俺は少し考えた。
「兵士が多ければ必ず勝てるわけではありません」
ハミルカルの目が細くなった。
「そうだ」
「食料が不足した一万人より、十分な食料を持つ五千人の方が長く戦える場合もあります」
「ほう」
「それに、補給能力を超えて兵士を集めれば、周辺の村から食料を奪うことになります」
ハミルカルは黙った。
俺は続けた。
「そうなれば、住民がカルタゴに反発します。
敵に協力する者も出るかもしれません」
「……確かにな」
ハミルカルは地図を見た。
「ヒスパニアでは、部族との関係が重要だ」
「はい」
「我々に協力する部族もいれば、敵対する部族もいる」
「だからこそ、食料を買う仕組みを整えるべきだと思います」
「商人らしい意見だな」
ハミルカルは小さく笑った。
「だが、悪くない」
ハミルカルは別の地図を広げた。
「では、もう一つ聞こう」
「はい」
「我々がこの地域へ軍を進めるとする」
地図には山岳地帯が描かれていた。
「歩兵八千。
騎兵千。
荷車二百台」
俺は数字を確認した。
「何日間の行軍ですか?」
「十五日を予定している」
「途中で補給できますか?」
「難しい」
「道路の状態は?」
「山道が多い」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「荷車二百台では、運べる物資に限界があります」
「そうだろうな」
「特に問題なのは馬の飼料です」
ハミルカルは頷いた。
「騎兵千騎を維持するには大量の飼料が必要になる」
「はい。
しかも荷車を引く動物にも飼料が必要です」
「では、どうする?」
俺は地図を見つめた。
山道。
河川。
集落。
そして平野。
「まず、行軍経路を変えられないか検討します」
「遠回りになってもか?」
「はい。
距離が短くても、荷車が通れなければ意味がありません」
ハミルカルは腕を組んだ。
「続けろ」
「次に、山岳地帯へ入る前に補給拠点を作ります」
「それだけか?」
「いいえ。
山道では荷車だけに頼らず、駄獣に荷物を分けて運ぶ方法も考えます」
ハミルカルは頷いた。
「それは我々も使っている」
「それなら、どの区間で荷車から駄獣へ積み替えるかを事前に決めます」
「ほう」
「それと、現地の部族と交渉できるなら、通行と食料調達の協力を求めます」
ハミルカルは俺を見た。
「敵対する部族なら?」
「交渉が難しいなら、その地域で補給できることを前提にしない方がいいと思います」
「……慎重だな」
「食料がなくなってからでは遅いですから」
ハミルカルはしばらく黙っていた。
そして突然、笑い始めた。
「ははは!」
俺は驚いた。
「何かおかしなことを言いましたか?」
「いや」
ハミルカルは笑いを収めた。
「お前は面白い」
「そうでしょうか?」
「普通、若い男は戦いの話をしたがる」
ハミルカルは机を軽く叩いた。
「敵をどう倒すか。
どこから攻めるか。
何人殺せるか」
俺は黙って聞いた。
「だが、お前は違う」
「……」
「食料をどう運ぶか。
馬をどう維持するか。
住民からどう協力を得るか」
ハミルカルは俺を見つめた。
「戦争の前に必要なことばかり考えている」
俺は答えた。
「戦争は、始まる前の準備で勝敗が大きく変わると思っています」
その瞬間、ハミルカルの表情が変わった。
「……ほう」
俺は続けた。
「戦場でどれほど優れた指揮をしても、兵士が飢えていたら十分に戦えません」
「そうだな」
「馬が疲れていたら、騎兵も力を発揮できません」
「そのとおりだ」
「だから、将軍が戦場で勝つための条件を、戦いが始まる前に整える必要があります」
ハミルカルは静かに頷いた。
「いい考えだ」
そして、少しだけ声を低くした。
「それは、私もローマとの戦争で痛感したことだ」
俺は顔を上げた。
第一次ポエニ戦争。
長い戦争の末、カルタゴは敗北した。
ハミルカル自身はシチリアで粘り強く戦ったが、最終的にカルタゴは講和を余儀なくされた。
「戦場で勝つだけでは、戦争には勝てん」
ハミルカルは呟いた。
俺はその言葉を胸に刻んだ。
面談が終わろうとしたとき、ハミルカルが言った。
「アドン」
「はい」
「お前に一つ頼みたい仕事がある」
「何でしょう?」
「軍の補給だけではない。
ヒスパニア全体の物資調達を調べてほしい」
俺は驚いた。
「全体ですか?」
「ああ」
ハミルカルは地図を指差した。
「我々はこれからも勢力を広げる。
そのためには兵士も武器も金も必要だ」
「はい」
「だが、無限に増やせるわけではない」
「そうですね」
「どこに倉庫を作るべきか。
どこから食料を調達するべきか。
どの町と交易を強化するべきか」
ハミルカルは俺を見た。
「それを調べて、報告書にまとめてほしい」
俺は少し考えた。
大きな仕事だ。
軍の補給だけではなく、地域全体の経済まで関わってくる。
だが、俺にとっては願ってもない機会だった。
「分かりました」
俺は答えた。
「ただし、一つお願いがあります」
「何だ?」
「実際に現地を見て回りたいんです」
「現地?」
「はい。
帳簿だけでは分からないことがあります」
ハミルカルは頷いた。
「確かにな」
「農地の状態。
道路。
港。
市場。
鉱山。
それらを自分の目で確認したいと思います」
「よかろう」
ハミルカルは部下を呼んだ。
「アドンの調査に協力するよう、関係する者たちへ伝えろ」
「承知しました」
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「期待しているぞ」
こうして俺は、バルカ家の軍事・経済基盤を調査する仕事を任された。
司令部を出ようとしたときだった。
入口の向こうから、若い男が歩いてきた。
年齢は俺とそれほど離れていないように見える。
まだ少年の面影を残しているが、その歩き方には迷いがなかった。
腰には剣。
後ろには二人の若い兵士がついている。
少年はハミルカルを見ると、声をかけた。
「父上」
俺は足を止めた。
父上?ハミルカルの息子?少年は続けた。
「騎兵の訓練が終わりました」
「そうか」
ハミルカルは頷いた。
「こちらへ来い」
少年が近づいてくる。
ハミルカルは俺を指差した。
「紹介しよう。
カルタゴから来た商人のアドンだ」
少年は俺を見た。
「商人?」
「軍の補給を改善している。
なかなか面白い男だ」
俺は軽く頭を下げた。
「アドンです」
少年も頷いた。
「ハンニバルだ」
その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
ハンニバル。
ハンニバル・バルカ。
前世の歴史で何度も読んだ名前。
アルプスを越え、ローマ軍を次々と撃破した将軍。
カンナエでローマ軍を包囲殲滅した男。
そして、ザマで敗北する男。
その人物が、今、目の前にいる。
まだ若い。
歴史に名を残す前のハンニバルだった。
「……どうした?」
ハンニバルが不思議そうに尋ねた。
俺は慌てて答えた。
「いえ。
お会いできて光栄です」
ハンニバルは少し笑った。
「父上から褒められる商人とは珍しいな」
「そんな大したことはしていません」
「そうか?」
ハンニバルは机の上に置かれた補給計画書を見た。
「これを作ったのか?」
「はい」
「兵士一万人分の食料計算……」
ハンニバルは書類をめくった。
「面白いな」
俺は黙っていた。
ハンニバルはしばらく数字を眺めた後、顔を上げた。
「一つ聞いてもいいか?」
「もちろんです」
「軍隊は、どれくらい遠くまで進めると思う?」
俺は少し考えた。
「補給が続く限り、どこまでも進めます」
ハンニバルは目を細めた。
「……どこまでも?」
「はい。
ただし、進むほど補給は難しくなります」
「ほう」
「だから、遠くへ進む軍隊ほど、現地で食料を確保する仕組みが必要になります」
ハンニバルは笑った。
「では、敵の国の中でも戦えるのか?」
俺は答えた。
「条件が整えば、可能だと思います」
「条件?」
「現地の協力者。
食料。
安全な移動経路。
そして兵士を維持するための資金です」
ハンニバルは黙った。
俺は続けた。
「敵地で戦う場合、戦場で勝つだけでは足りません」
「どういうことだ?」
「敵の軍隊に勝っても、食料がなくなれば撤退するしかありません」
ハンニバルの表情が変わった。
「……確かにな」
「だから、敵地で長く戦うなら、戦闘だけでなく、その土地の人々との関係も重要になります」
ハンニバルは俺をじっと見つめた。
そして言った。
「アドン」
「はい」
「また話を聞かせてくれ」
俺は少し驚いた。
「私でよければ」
「父上の軍には、戦い方を教えてくれる者は多い」
ハンニバルは笑った。
「だが、戦う前に何を準備するべきか、そこまで考える者は少ない」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「今度、騎兵の訓練も見に来るといい」
「ぜひ」
ハンニバルは頷くと、父の方へ向かった。
俺は司令部を後にした。
その夜。
俺は宿の部屋で、しばらく動けなかった。
ついに会った。
ハンニバル・バルカ。
歴史上の人物。
カルタゴ最大の英雄。
そして、俺が未来を変えようとしている相手。
まだ正式な相談役ではない。
ただの商人として紹介されただけだ。
だが、ハンニバルは俺の話に興味を示した。
また話を聞きたいと言ってくれた。
それだけでも、大きな前進だった。
俺は机に広げた地図を見た。
ヒスパニア。
アルプス。
イタリア。
そしてアフリカ。
ザマ。
俺は地図の上に指を置いた。
「……まだ早い」
今すぐ未来の話をしても、信じてもらえるはずがない。
まずは実績を積む。
ハミルカルの信用を得る。
軍の補給を改善する。
そして、ハンニバルにも必要とされる存在になる。
そのためには、まだやるべきことが山ほどある。
俺は新しい紙を取り出した。
そこに、これから調査する項目を書き込んだ。
食料生産。
鉱山。
道路。
港湾。
輸送。
軍需品。
そして――騎兵。
俺は最後の項目を見つめた。
ザマの戦い。
カルタゴが敗れた原因の一つは、騎兵戦力の差だった。
ならば、今から準備する。
まだ二十年以上先の戦いだとしても。
俺は筆を置いた。
「ハンニバル」
小さく呟いた。
「今度は、あんたを負けさせない」
そのころ。
ハミルカルの司令部では、父と息子が話していた。
「父上」
「何だ、ハンニバル?」
「今日の商人ですが」
「アドンか?」
「はい」
ハンニバルは少し考えた。
「面白い男ですね」
ハミルカルは笑った。
「そうだな」
「軍人ではないのに、軍隊のことをよく考えています」
「だからこそ、見えるものがあるのだろう」
ハンニバルは頷いた。
そして言った。
「また話してみたいと思います」
ハミルカルは息子を見た。
「ならば、自分で会いに行けばいい」
「よろしいのですか?」
「ああ。
ただし、あの男を甘く見るな」
ハンニバルは首を傾げた。
「なぜです?」
ハミルカルは机の上の補給計画書を指差した。
「アドンは、兵士を一人も増やさずに軍を強くしている」
ハンニバルは黙った。
「そういう人間は、戦場で剣を振るう者と同じくらい重要だ」
ハンニバルは、もう一度計画書を見た。
そして小さく頷いた。
「……覚えておきます」
だが、このときの俺には、まだ知る由もなかった。。
ハンニバルとの次の会話が、単なる補給の話では終わらないことを。
そして、俺が初めて軍事作戦そのものについて意見を求められる日が、近づいていることを。




