第十話 商人風情が戦争に口を出すな
翌朝。
俺はハミルカル将軍の司令部へ向かった。
今日は、ヒスパニア内陸部の部族に対する軍事行動を決める会議だった。
会議室には、すでに多くの将校が集まっていた。
歩兵部隊の指揮官。
騎兵部隊の指揮官。
補給担当者。
そして、現地の部族との交渉を担当する者たち。
その中に、ハンニバルの姿もあった。
「アドン、来たか」
「おはようございます」
「今日は厳しい会議になるぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。
軍を動かすべきだと主張している者が多い」
俺は頷いた。
軍人なら、軍事行動によって問題を解決しようと考えるのも不思議ではない。
だが、戦争には金がかかる。
兵士が死ぬ。
馬が失われる。
食料も消費する。
そして、勝った後にも問題が残る。
俺は持参した書類を机に置いた。
「まずは、話を聞いてみます」
ハンニバルは笑った。
「お前らしいな」
やがて、ハミルカルが入ってきた。
「全員、座れ」
会議が始まった。
ハミルカルは地図を広げた。
「今回の問題は、内陸部にあるアレト族の動きだ」
地図には山岳地帯と、その周辺に広がる集落が描かれていた。
アレト族。
ヒスパニア内陸部に暮らす部族の一つで、カルタゴ軍の勢力拡大に反発しているらしい。
「彼らは、我々の通行を拒否している」
ハミルカルが説明した。
「さらに、周辺の部族にもカルタゴへの協力をやめるよう働きかけている」
一人の将校が立ち上がった。
「将軍。
もはや交渉の余地はありません」
男の名はガルバル。
歩兵部隊を率いる歴戦の指揮官だった。
「アレト族は我々を侮っています。
軍を派遣して力を見せるべきです」
別の将校も頷いた。
「放置すれば、ほかの部族まで反抗するでしょう」
「今のうちに叩くべきです」
会議室では、軍事行動を支持する声が多かった。
ハミルカルは黙って聞いていた。
そして、俺を見た。
「アドン」
「はい」
「お前はどう考える?」
突然、全員の視線が集まった。
俺は立ち上がった。
「まず、一つ確認したいことがあります」
「何だ?」
「アレト族は、なぜ通行を拒否しているのでしょうか?」
ガルバルが鼻を鳴らした。
「我々に従いたくないからだろう」
俺は首を振った。
「それだけでしょうか?」
「何?」
「何か具体的な要求があるのではありませんか?」
ガルバルは不機嫌そうに答えた。
「奴らは通行料を要求している」
俺は顔を上げた。
「通行料ですか?」
「ああ。
自分たちの土地を通るなら金を払えと言っている」
「以前から取っていたのでしょうか?」
「知らん」
「周辺の商人たちも払っているんですか?」
「そんなことを聞いてどうする!」
ガルバルが机を叩いた。
「我々は軍隊だぞ!」
俺は黙った。
「軍隊が通るたびに金を払っていたら、ほかの部族まで同じ要求を始める!」
確かに、それは問題だった。
だが、俺には別の疑問があった。
「その道は、誰が整備しているんですか?」
ガルバルが眉をひそめた。
「何?」
「道路です。
橋や山道の補修は、誰が行っているのでしょうか?」
会議室が静かになった。
すると、現地交渉を担当する役人が答えた。
「……アレト族です」
俺は頷いた。
「ほう」
ガルバルが俺を睨んだ。
「何がほうだ!」
俺は地図を指差した。
「彼らは道路を維持するために、通行料を取っている可能性があります」
「だから何だ!」
「その場合、単純に通行料を払わないと言えば、相手が反発するのも理解できます」
ガルバルは立ち上がった。
そして、怒鳴った。
「商人風情が、戦争に口を出すな!」
会議室が静まり返った。
俺はガルバルを見た。
歴戦の将校。
多くの兵士を率いてきた人物。
戦場の経験では、俺など足元にも及ばない。
それは間違いない。
だから、俺は頭を下げた。
「おっしゃるとおり、私は軍人ではありません」
ガルバルは腕を組んだ。
「分かっているなら黙っていろ」
俺は続けた。
「ですが、軍事行動に必要な食料や資金を計算することはできます」
「……何?」
「今回の作戦について、いくつか確認してもよろしいでしょうか?」
ガルバルは不機嫌そうに答えた。
「何だ?」
「派遣する兵力は?」
「歩兵五千、騎兵五百だ」
「作戦期間は?」
「十日もあれば十分だ」
「もし十日で終わらなかった場合は?」
「終わらせる!」
俺は首を振った。
「それは計画ではありません」
ガルバルの顔が赤くなった。
「何だと!」
俺は落ち着いて続けた。
「敵が山岳地帯へ逃げ込めば、追撃に時間がかかる可能性があります」
「……」
「橋を壊された場合、補給路が使えなくなるかもしれません」
「……」
「雨が降って山道が通れなくなれば、荷車も動けません」
ガルバルは黙った。
俺は地図を指差した。
「ですから、十日で終わる場合だけでなく、二十日、三十日かかった場合の準備も必要だと思います」
ハミルカルが頷いた。
「続けろ」
俺は答えた。
「まず、作戦に必要な食料と輸送量を計算します」
そして、用意していた紙を広げた。
「歩兵五千、騎兵五百」
俺は数字を書いた。
「兵士だけで五千五百人です」
「当然だ」
ガルバルが答えた。
「これに、輸送を担当する人員が加わります」
「うむ」
「さらに馬と荷車を引く動物が必要です」
俺は続けた。
「兵士一人あたり、一日およそ一キログラムの穀物を必要とすると仮定します」
「……それで?」
「五千五百人なら、一日で約五・五トンです」
財務担当者が顔を上げた。
「五・五トン?」
「はい。
これは穀物だけの概算です」
俺は続けた。
「十日なら五十五トン。
二十日なら百十トン。
三十日なら百六十五トンになります」
会議室が静かになった。
「さらに馬の飼料が必要です」
俺は騎兵の指揮官を見た。
「騎兵五百騎なら、馬も少なくとも五百頭です」
「そうだ」
「馬一頭が一日に消費する飼料を、乾草や穀物を合わせて仮に十キログラムとします」
俺は数字を書いた。
「五百頭で、一日五トンです」
財務担当者が呟いた。
「兵士の穀物とほとんど同じ量か……」
「はい。
ただし、実際には放牧できる地域や飼料の種類によって必要な輸送量は変わります」
俺は続けた。
「そして輸送用の動物にも餌が必要です」
ガルバルは腕を組んだまま黙っていた。
俺は計算結果を示した。
「つまり、この規模の軍を三十日間維持するなら、兵士の食料だけでも相当な量になります」
「……分かった」
ガルバルが低い声で言った。
「だから何だ?」
俺は答えた。
「軍事行動の費用と、交渉によって解決する費用を比較したいんです」
会議室が静かになった。
ハミルカルが尋ねた。
「交渉の費用?」
「はい」
俺は地図を指差した。
「アレト族が要求している通行料は、どれくらいでしょうか?」
現地交渉担当者が書類を確認した。
「軍の通行について、銀貨二千枚相当の支払いを求めています」
俺は頷いた。
「ほう」
ガルバルが言った。
「そんな要求を認めれば、ほかの部族も真似をする!」
「その可能性はあります」
俺は答えた。
「ですから、要求どおりに支払うべきだと言っているわけではありません」
「では、どうする?」
「通行料の代わりに、道路維持の契約を結ぶんです」
ガルバルが眉をひそめた。
「道路維持?」
「はい」
俺は説明した。
「アレト族が橋や道路を維持する。
その対価として、カルタゴが一定額を支払います」
「同じことではないか!」
「違います」
俺は首を振った。
「通行するたびに金を要求されるのではなく、一定期間、決められた条件で通行できる契約にするんです」
ハミルカルが身を乗り出した。
「詳しく説明しろ」
「例えば、一年間の道路維持契約を結びます」
俺は続けた。
「アレト族は道路と橋を維持する。
カルタゴ軍と商人は、決められた道を通行できる」
「ほう」
「さらに、道路を利用する商人にも一定の負担を求めれば、軍だけが費用を負担する必要はありません」
財務担当者が頷いた。
「それなら商業用道路として整備できる」
「はい」
俺は答えた。
「軍隊を通すためだけではなく、交易を増やすための道路にするんです」
ハミルカルは地図を見た。
「アレト族にも利益があるな」
「そうです」
「カルタゴにも利益がある」
「はい」
俺は頷いた。
「そして、戦争をせずに済む可能性があります」
ガルバルは不満そうだった。
「だが、相手が契約を破ったらどうする?」
俺は答えた。
「その場合に備えて、契約違反への対応も決めておきます」
「例えば?」
「まず協議します。
それでも解決しなければ、別の道を使うか、軍事的な対応を検討します」
「結局、軍隊が必要ではないか」
「はい」
俺は頷いた。
「軍隊は必要です」
ガルバルは少し驚いた顔をした。
俺は続けた。
「ですが、軍隊を持っているからといって、すべての問題を戦争で解決する必要はありません」
ハミルカルが静かに笑った。
「ほう」
しかし、ガルバルは納得していなかった。
「将軍!」
彼は立ち上がった。
「私は反対です!」
ハミルカルが顔を上げた。
「理由は?」
「このような契約を認めれば、カルタゴ軍が弱腰だと思われます!」
俺は黙って聞いていた。
「ほかの部族も要求を始めるでしょう!」
「その可能性はあるな」
ハミルカルは頷いた。
「だからこそ、条件を明確にする必要があると思います」
俺は口を開いた。
ガルバルが俺を睨んだ。
「まだ何かあるのか!」
「はい」
俺は答えた。
「道路維持の契約は、すべての部族に同じ条件で認める必要はありません」
「どういうことだ?」
「実際に道路を維持している部族には、その仕事の対価を支払います」
俺は続けた。
「ですが、何もしていないのに通行料だけを要求する部族には、支払う理由がありません」
ガルバルは黙った。
「つまり、軍に従うかどうかではなく、何を提供してくれるかで判断するんです」
ハミルカルは頷いた。
「商人の契約と同じだな」
「はい」
俺は答えた。
「仕事をしてくれる相手には金を払います。
でも、何もしていない相手に金を払う必要はありません」
財務担当者が笑った。
「実に分かりやすい」
会議室の空気が少し和らいだ。
だが、ガルバルはまだ腕を組んでいた。
「……理屈は分かった」
俺は頷いた。
「ありがとうございます」
「だが、私は戦場で何度も裏切りを見てきた」
ガルバルは低い声で続けた。
「約束を守ると言いながら、こちらの背後を襲う部族もいた」
俺は黙った。
「商人の契約書一枚で、兵士の命を守れると思うな」
その言葉には重みがあった。
俺は頭を下げた。
「おっしゃるとおりです」
ガルバルが顔を上げた。
「……何?」
「契約だけでは、兵士の命を守れません」
俺は答えた。
「だから、軍事的な備えも必要です」
そして地図を指差した。
「交渉している間も、別の補給路を調べておきます」
「……」
「さらに、アレト族が契約を破った場合に備えて、軍を動かせる準備をしておきます」
ガルバルは黙った。
俺は続けた。
「交渉が成功すれば戦わずに済みます。
失敗しても、準備していれば対応できます」
ハミルカルは満足そうに頷いた。
「よい」
そして、全員を見渡した。
「まずは交渉を行う」
ガルバルが顔を上げた。
「将軍!」
「ただし、軍事行動の準備も進める」
ハミルカルは続けた。
「交渉が失敗した場合に備え、補給計画と進軍経路を整えておけ」
ガルバルは少し考えた。
そして頭を下げた。
「承知しました」
ハミルカルは俺を見た。
「アドン」
「はい」
「お前は交渉に同行しろ」
俺は驚いた。
「私がですか?」
「ああ」
「軍の交渉担当者もいるのでは?」
「もちろん同行させる」
ハミルカルは笑った。
「だが、商人の考え方も必要だ」
俺は頭を下げた。
「分かりました」
会議が終わった後。
俺は廊下でガルバルに呼び止められた。
「おい、商人」
「はい」
「少し話がある」
俺は立ち止まった。
ガルバルは俺を睨んだ。
「勘違いするなよ」
「何でしょう?」
「私は、お前の考えに全面的に賛成したわけではない」
「分かっています」
「軍隊は、戦うために存在する」
「はい」
「必要なときに戦わなければ、兵士は死ぬ」
俺は頷いた。
「そのとおりだと思います」
ガルバルは少し驚いた顔をした。
「……お前は反論しないのか?」
「戦場のことは、私よりガルバル殿の方が詳しいですから」
俺は答えた。
「ただ、戦う前にできることがあるなら、試してみたいんです」
ガルバルは黙った。
俺は続けた。
「交渉が成功すれば、兵士を失わずに済みます」
「……」
「交渉が失敗したら、そのときはガルバル殿の力が必要になります」
ガルバルはしばらく俺を見つめた。
そして、鼻を鳴らした。
「……口のうまい商人だ」
俺は苦笑した。
「よく言われます」
「だが、一つ覚えておけ」
「何でしょう?」
「交渉に失敗したとき、責任を取るのは軍人だ」
俺は真剣に頷いた。
「はい」
「ならば、軍人の意見も聞け」
「もちろんです」
ガルバルは少しだけ表情を和らげた。
「……それならいい」
そして、歩き去っていった。
俺はその背中を見送った。
どうやら、完全に嫌われたわけではないらしい。
三日後。
俺たちはアレト族の領地へ向かった。
同行したのは、現地交渉担当者と護衛の兵士たち。
そして、なぜかハンニバルもいた。
「ハンニバル様?」
「何だ?」
「どうして同行されるんですか?」
「父上に頼んだ」
「何をです?」
「お前の交渉を見たいと言った」
俺は驚いた。
「私の交渉を?」
「ああ」
ハンニバルは笑った。
「戦わずに軍隊を通す方法があるなら、覚えておきたい」
俺は苦笑した。
「成功するとは限りませんよ」
「分かっている」
ハンニバルは頷いた。
「だからこそ、見たいんだ」
ほう。
この男は、単に戦争が好きなわけではない。
勝つために必要なことなら、何でも学ぼうとしている。
それは将軍として大切な資質だと思った。
アレト族の集落へ到着すると、俺たちは部族の長に会った。
名前はタルコ。
四十代ほどの、がっしりした男だった。
「カルタゴ軍が何の用だ?」
タルコは不機嫌そうに言った。
俺は頭を下げた。
「道路の通行について、お話を伺いに来ました」
「話すことなどない」
タルコは腕を組んだ。
「通りたいなら金を払え」
俺は頷いた。
「道路の維持費について確認したいんです」
タルコの眉が動いた。
「維持費?」
「はい。
橋や山道の補修は、皆さんが行っていると聞きました」
「そうだ」
「どれくらいの費用がかかっていますか?」
タルコは少し驚いた顔をした。
「……何?」
「人手や材料が必要ですよね?」
「当然だ」
「それなら、その仕事に対して代金を支払う契約を結べないかと思っています」
タルコは黙った。
俺は続けた。
「カルタゴ軍と商人が道路を使う。
その代わり、アレト族には道路を維持してもらう」
「……」
「そして、決められた金額を定期的に支払います」
タルコは俺を見つめた。
「つまり、我々を雇うということか?」
「そうです」
俺は頷いた。
「道路を維持する仕事をお願いしたいんです」
タルコはしばらく考えた。
そして、突然笑った。
「ははは!」
俺は驚いた。
「何かおかしいでしょうか?」
「いや」
タルコは笑いながら言った。
「カルタゴ軍が、我々に仕事を頼むとは思わなかった!」
俺も少し笑った。
「軍も道路を使わせてもらう立場ですから」
タルコは頷いた。
「面白い」
そして、真剣な顔になった。
「だが、条件がある」
「何でしょう?」
「我々の村に、勝手に兵士を入れるな」
俺は頷いた。
「分かりました」
「畑を荒らすな」
「はい」
「家畜を奪うな」
「当然です」
タルコは俺を見た。
「本当に守れるのか?」
俺は少し考えた。
「私一人では約束できません」
タルコの表情が険しくなった。
だが、俺は続けた。
「だから、軍の責任者が署名する正式な契約にします」
「……正式な契約?」
「はい」
俺は答えた。
「もし兵士が契約を破った場合、誰に訴えればいいのかも決めます」
タルコは黙った。
俺は続けた。
「約束を守れなかったときの対応まで決めておくんです」
タルコはしばらく考えた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……悪くない」
交渉は、その後も続いた。
通行できる道路。
利用できる橋。
軍が通る際の事前連絡。
道路維持の費用。
商人の通行条件。
そして、村の安全を守るための取り決め。
最初は強硬だったタルコも、次第に具体的な条件を話すようになった。
だが、最後に一つ問題が残った。
「金は先に払ってもらう」
タルコが言った。
俺は頷いた。
「理由を聞いてもよろしいですか?」
「以前、別の軍隊に道路を使わせたことがある」
「はい」
「だが、約束した金を払わずに去っていった」
俺は黙った。
また同じ問題か。
軍隊が約束を守らない。
その結果、住民が軍を信用しなくなる。
俺は少し考えた。
「では、最初に一部を支払い、残りは定期的に支払う方法ではどうでしょう?」
タルコは腕を組んだ。
「残りを払わなかったら?」
「その場合は、契約違反になります」
「それだけか?」
俺は首を振った。
「支払いの記録を残し、軍の財務担当者と部族の代表者が双方で確認します」
タルコは考え込んだ。
「……ほう」
「それに、契約が守られなければ、次の契約を結ぶことは難しくなります」
俺は続けた。
「だから、カルタゴ軍にとっても約束を守る利益があります」
タルコはしばらく黙っていた。
そして言った。
「……分かった」
俺は顔を上げた。
「では?」
「一年間、道路を使わせよう」
俺は思わず笑った。
「ありがとうございます!」
タルコは頷いた。
「ただし、約束を破ったら終わりだ」
「分かっています」
こうして、アレト族との道路利用契約が成立した。
帰り道。
ハンニバルが俺に声をかけてきた。
「アドン」
「はい」
「本当に戦わずに解決したな」
「まだ契約を守ってもらう必要がありますけどね」
ハンニバルは笑った。
「それでも大きな成果だ」
俺は頷いた。
「ありがとうございます」
「一つ聞きたい」
「何でしょう?」
「もし交渉が失敗していたら、どうするつもりだった?」
俺は答えた。
「別の道を調べるつもりでした」
「それでも駄目なら?」
「軍事行動を検討します」
ハンニバルは頷いた。
「ほう」
俺は続けた。
「ただし、その場合も目的はアレト族を滅ぼすことではありません」
「何だ?」
「安全に通行できる状態を作ることです」
ハンニバルは黙った。
俺は続けた。
「戦って勝っても、道路が壊され、村が荒れ、住民が敵になれば、結局通行しにくくなります」
「……確かにな」
「だから、戦争の目的を忘れないことが大切だと思います」
ハンニバルはゆっくり頷いた。
「覚えておこう」
司令部へ戻ると、ハミルカルが報告を待っていた。
「どうだった?」
俺は答えた。
「一年間の道路利用契約を結ぶことができました」
ハミルカルは頷いた。
「よくやった」
「ありがとうございます」
「軍を動かさずに解決できたのは大きい」
俺は頷いた。
「ただし、契約を守るための管理が必要です」
「分かっている」
ハミルカルは笑った。
「お前は本当に、仕事を増やすのが得意だな」
俺も笑った。
「すみません」
「褒めているんだ」
そして、ハミルカルは続けた。
「アドン。
今後も軍の作戦会議に参加してほしい」
俺は驚いた。
「私がですか?」
「ああ」
「補給だけでなく?」
「そうだ」
ハミルカルは頷いた。
「軍事行動には、戦闘以外の問題も多い」
俺は黙って聞いた。
「その部分について、お前の意見が必要だ」
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
ハミルカルは続けた。
「ただし、戦場での指揮は軍人に任せろ」
「もちろんです」
俺は答えた。
「私は、将軍が戦える条件を整える仕事をしたいと思っています」
ハミルカルは満足そうに頷いた。
「それでいい」
その夜。
俺は宿の部屋で、一日の出来事を整理していた。
アレト族との交渉成功。
道路利用契約。
軍の作戦会議への継続参加。
そして、ハンニバルとの関係。
少しずつだが、確実に前へ進んでいる。
俺は地図を広げた。
ヒスパニア。
カルタゴ。
ローマ。
そしてヌミディア。
軍隊を強くする。
補給を整える。
現地住民との関係を改善する。
本国の政治家との対立を和らげる。
すべて、未来の戦争へつながっている。
だが、まだ一つ大きな問題が残っていた。
騎兵だ。
前世の歴史では、ザマの戦いでハンニバルは騎兵戦力の差に苦しむことになる。
ローマ側にはマシニッサ率いるヌミディア騎兵がいた。
その機動力は、戦いの結果を左右する大きな要因になった。
ならば、今から準備する必要がある。
俺は紙を取り出した。
そして、新しい計画を書き始めた。
『騎兵戦力強化計画』
まず、馬の確保。
次に、騎兵の訓練。
そして、騎兵を維持するための飼料と水。
最後に――
『ヌミディアとの関係強化』
俺はその文字を見つめた。
「……やっぱり、ここだよな」
どれほど優れた歩兵がいても、騎兵が負ければ側面や背後を攻撃される危険がある。
そして、ザマではまさにそれが起きる。
俺は筆を置いた。
「今度は、騎兵で負けない軍隊を作る」
そのときだった。
扉が叩かれた。
「アドン殿!」
「はい」
「ハミルカル将軍から急ぎの伝言です!」
俺は扉を開けた。
兵士が一枚の書簡を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
『ヌミディアから使節が到着した。
馬の交易と軍事協力について話し合う予定だ。
明日の会議に出席してほしい。』
俺は書簡を見つめた。
そして、思わず笑った。
「……ちょうどいい」
ヌミディア。
未来のザマの戦いで、カルタゴの運命を左右する地域。
その使節が、今ここに来ている。
俺は地図のヌミディアを指差した。
「今度こそ、あの騎兵をローマに渡さない」
だが、このときの俺には、まだ知る由もなかった。
ヌミディアの部族同士の対立が、想像以上に複雑であることを。
そして、カルタゴが一方の勢力を支援すれば、別の勢力を敵に回す危険があることを。
未来を変えるための、本当の外交戦が始まろうとしていた。




