第八十九話 ハスドルバルがイタリアへ到着したので、ローマ軍に見つかる前に兄と合流させたい
紀元前207年。
北イタリア。
アルプスを越えたハスドルバル軍が、ついにイタリアへ入った。
その知らせを受け取ったとき、俺は思わず立ち上がった。
「……越えたのか!」
メルカルが頷いた。
「はい。
ハスドルバル将軍の軍は、アルプス越えに成功したようです」
「兵力は?」
「正確な数字はまだ届いていません。
ただ、大きな損害は避けられたとのことです」
俺は胸を撫で下ろした。
「……よかった」
ハンニバルがアルプスを越えたとき、多くの兵士と家畜が失われた。
今回は、事前に補給路を整備した。
山岳部族との交渉も行った。
そして、通行可能な道を調べていた。
その効果が、少しはあったらしい。
だが。
俺はすぐに地図を広げた。
「……問題は、ここからだ」
メルカルが尋ねた。
「ローマ軍ですか?」
「そう」
俺は北イタリアを指差した。
「ハスドルバルがイタリアへ来たことを、ローマが知らないはずがない」
「……」
「そして、ローマは絶対に兄弟を合流させたくない」
そのころ。
ハスドルバル軍の陣営。
ハスドルバルは、イタリアの地図を見つめていた。
「兄上は、まだ南部にいるのか?」
将校が答えた。
「はい」
「距離があるな」
「かなりあります」
ハスドルバルは頷いた。
「だが、ここまで来た」
そして、静かに続けた。
「必ず合流する」
俺は、ハスドルバルへ新しい書簡を送った。
『イタリア到着を確認しました』
『まず、ローマ軍の配置を確認してください』
『南下する際は、主要街道だけに頼らず、複数の進路を検討してください』
『また、ハンニバル軍との連絡には、複数の伝令を使用してください』
最後に、もう一文加えた。
『敵との決戦より、兄上との合流を優先してください』
数日後。
ハスドルバルから返事が届いた。
『理解している』
『だが、ローマ軍が進路を塞ぐなら、戦わずに進むことは難しい』
俺は頷いた。
「……そうだよな」
メルカルが尋ねた。
「どうするんですか?」
俺は答えた。
「戦わないで済む道を探す」
「そんな道があるんですか?」
「分からない」
俺は地図を見つめた。
「でも、探さなければ確実に戦うことになる」
俺は、北イタリアの商人たちから情報を集めた。
ローマ軍の移動。
街道の封鎖。
橋の状態。
渡河可能な場所。
そして、周辺都市の動向。
情報は少しずつ集まってきた。
その中に、気になる報告があった。
『ローマ軍の一部が、北方へ移動している』
俺は眉をひそめた。
「……来たな」
ローマ軍は、ハスドルバルの南下を阻止するために動き始めていた。
北イタリアでは、執政官マルクス・リウィウス・サリナトルが軍を率いていた。
一方、もう一人の執政官ガイウス・クラウディウス・ネロは、南イタリアでハンニバルを警戒している。
俺は地図を指差した。
「ローマ軍は、北と南に分かれている」
メルカルが頷いた。
「はい」
「普通なら、これでいい」
「普通なら?」
「兄弟が合流する前に、それぞれを監視できるからだ」
俺は続けた。
「でも、ローマ側にも弱点がある」
メルカルが尋ねた。
「何ですか?」
「二つの軍が離れていることだよ」
俺は考えた。
ローマは、ハンニバルとハスドルバルの合流を阻止したい。
だから、北と南の両方に軍を置いている。
だが、北の軍がハスドルバルを止められなければどうなる?南の軍がハンニバルを拘束できなければ?俺は呟いた。
「……先に兄弟を動かせばいいのかもしれない」
メルカルが尋ねた。
「どういうことですか?」
俺は答えた。
「ハスドルバルを南下させるだけじゃなくて、ハンニバルにも北上してもらう」
メルカルは目を丸くした。
「両方から?」
「そう」
俺は地図の中央を指差した。
「合流地点を、もっと北へ移すんだ」
だが、それには大きな問題があった。
ハンニバルが北上すれば、南イタリアの拠点を危険にさらす。
しかも、ローマ軍が後方から追撃してくる可能性がある。
俺は腕を組んだ。
「……簡単じゃないな」
メルカルが呟いた。
「いつものことですね」
「そうだね」
俺はハンニバルへ書簡を書いた。
『ハスドルバル軍はイタリアへ到着しました』
『ローマ軍が北方で集結しています』
『合流地点を北へ移す案について、ご意見を伺いたい』
『ただし、南部の拠点を放棄する危険もあるため、慎重な判断が必要です』
返事が届いたのは、しばらく後だった。
俺は封を開いた。
『アドンへ』
『弟が無事にイタリアへ到着したことを嬉しく思います』
『北上については、検討しています』
『しかし、敵は私の動きを監視しています』
『不用意に北上すれば、ローマ軍に進路を読まれるでしょう』
俺は頷いた。
「……やっぱりな」
だが、書簡には続きがあった。
『それでも、合流の可能性を捨てるつもりはありません』
俺は少し笑った。
「……そうこなくちゃ」
数日後。
新しい報告が届いた。
『ハスドルバル軍が、南下を開始』
俺は地図を確認した。
そして、ある地点で手を止めた。
「……メタウルス川」
メルカルが顔を上げた。
「前から気にしていた場所ですね」
俺は頷いた。
「そうだ」
本来の歴史では、ここでハスドルバルが戦死する。
そして、その首がハンニバルの陣営へ投げ込まれる。
俺は拳を握った。
「……絶対に、そうはさせない」
その夜。
俺は、ハスドルバルへ最後の書簡を書いた。
『ローマ軍との決戦を避けてください』
『敵の兵力が急増した場合、南方のローマ軍が合流した可能性があります』
『その場合、無理に突破しないでください』
そして、最後に書いた。
『兄上は、あなたを待っています』
数日後。
伝令が戻ってきた。
だが、彼は疲れ切っていた。
「……どうした?」
俺が尋ねると、伝令は答えた。
「ローマ軍の警戒が厳しく、予定していた道を通れませんでした」
俺は眉をひそめた。
「書簡は?」
「届けられませんでした」
俺は息を呑んだ。
「……何?」
伝令は続けた。
「別の伝令も、消息が分かりません」
俺は地図を見つめた。
「……まずい」
メルカルが尋ねた。
「どうします?」
俺は答えた。
「別の経路で送る」
だが。
そのとき、さらに悪い知らせが届いた。
『ローマ軍が、ハスドルバル軍の進路を把握した可能性あり』
俺は立ち上がった。
「……間に合えよ」
ハスドルバルとハンニバル。
二人の兄弟が合流できるかどうか。
その運命は、ローマ軍の動きと、一通の書簡に左右されようとしていた。




