第七十一話 ヒスパニアでローマ軍が勢力を広げているので、カルタゴ軍の兵士が逃げ出す理由を調べた
紀元前214年。
ヒスパニア。
カルタゴ軍の補給拠点から、奇妙な報告が届いた。
『一部の現地兵が、任務を放棄して帰郷している』
俺は報告書を見つめた。
「……脱走?」
メルカルが頷いた。
「そう書かれています」
「何人?」
「正確な人数は不明ですが、複数の部隊で発生しているようです」
俺は眉をひそめた。
兵士が逃げる。
戦争中なら、珍しいことではない。
だが、原因を放置すれば軍隊は弱くなる。
俺は尋ねた。
「逃げた兵士は、どこの出身?」
メルカルが帳簿を確認した。
「ヒスパニアの現地部族です」
「……なるほど」
俺は少し考えた。
「報酬の支払い状況は?」
メルカルの手が止まった。
「……確認します」
俺はため息をついた。
「やっぱり、そこからか」
数週間後。
調査結果が届いた。
原因は一つではなかった。
報酬の遅延。
長期間の従軍。
故郷の農作業への影響。
そして、家族の安全への不安。
俺は報告書を読み終えた。
「……逃げたくなる理由はあるな」
メルカルが尋ねた。
「どういうことですか?」
俺は答えた。
「兵士だって、家族がいるんだよ」
「……」
「何年も帰れず、報酬も遅れて、故郷が危険ならどうする?」
メルカルは黙った。
俺は続けた。
「戦争を続ける理由がなくなる」
俺はヒスパニア方面の指揮官へ書簡を送った。
『現地兵の離脱について、処罰だけで対応しないでください』
『報酬、従軍期間、家族の状況を確認する必要があります』
『部族ごとの契約内容を再確認してください』
返事は、すぐに届いた。
『戦争中に兵士の要求をすべて認めることはできない』
俺は頷いた。
「……それはそうだろうね」
そして、返事を書いた。
『すべて認める必要はありません』
『ただし、守ると約束した条件は守るべきです』
俺はハンニバルへ相談した。
「ヒスパニアで現地兵の離脱が増えている」
ハンニバルは真剣な顔になった。
「原因は?」
俺は説明した。
ハンニバルは黙って聞いていた。
そして言った。
「兵士の士気を保つには、勝利だけでは足りません」
俺は頷いた。
「そうなんだよ」
「故郷へ帰れる見通しも必要でしょう」
俺は顔を上げた。
「……それだ」
俺は新しい制度案を作った。
一定期間の従軍後、部隊を交代させる。
報酬の支払い日を明確にする。
負傷者は可能な範囲で故郷へ戻す。
戦死者の遺族への補償を記録する。
そして、農繁期には現地部族との協議を行う。
メルカルが尋ねた。
「……兵士が減りませんか?」
俺は答えた。
「一時的には減るかもしれない」
「では、危険では?」
俺は頷いた。
「危険だよ」
そして、続けた。
「でも、全員が逃げてしまうよりはいい」
数か月後。
ヒスパニア方面から報告が届いた。
『一部部隊で交代制を導入した』
『報酬の未払い分について、確認を開始した』
『現地部族との協議も進んでいる』
俺は頷いた。
「……よし」
だが、別の報告もあった。
『ローマ軍は、カルタゴ軍から離れた部族へ接近している』
俺は眉をひそめた。
「……やっぱり、そこを狙うか」
俺は地図を広げた。
ローマ軍は、カルタゴ軍の弱点を見つけていた。
不満を持つ部族。
報酬が遅れている兵士。
カルタゴの支配を嫌う都市。
そこへ接近し、協力を求める。
俺は呟いた。
「……ローマは、戦場の外でも戦っている」
メルカルが頷いた。
「そうですね」
その夜。
俺は新しい提案書を書いた。
『ヒスパニア現地同盟維持計画』
内容は単純だった。
約束を守る。
報酬を支払う。
交易を続ける。
自治を尊重する。
そして、現地の人々を使い捨てにしない。
俺は最後に書いた。
『カルタゴ軍の強さは、兵士の人数だけではありません』
『兵士が、カルタゴのために戦い続けたいと思えるかどうかです』
数週間後。
ヒスパニア方面の指揮官から、返事が届いた。
『提案の一部を採用する』
俺は笑った。
「……全部じゃないけど、いいか」
メルカルが頷いた。
「前進ですね」
俺は答えた。
「そうだね」
だが。
その翌日。
さらに重大な報告が届いた。
『ローマ軍が、ヒスパニア東部の重要拠点を狙っている』
俺は地図を広げた。
そこには、カルタゴ軍の補給路があった。
俺は眉をひそめた。
「……ここを失うと、厳しいな」
メルカルが尋ねた。
「どうします?」
俺は答えた。
「まず、物資を分散させる」
「……」
「それから、現地部族へ協力を求める」
俺は、ヒスパニア方面へ緊急書簡を送った。
『重要物資を一か所に集中させないでください』
『複数の倉庫へ分散してください』
『住民の安全を優先してください』
そして、最後に書いた。
『拠点を守るために、補給物資をすべて失うことだけは避けてください』
数週間後。
戦闘が始まった。
ローマ軍は、カルタゴ軍の拠点へ接近した。
カルタゴ軍は迎撃した。
双方に損害が出た。
だが、補給物資の一部は、事前に別の場所へ移されていた。
俺は報告を聞いて息を吐いた。
「……よかった」
メルカルが尋ねた。
「勝ったんですか?」
俺は首を振った。
「戦闘そのものは、まだ続いている」
「……」
「でも、全部失わずに済んだ」
その夜。
俺は地図を見つめていた。
ヒスパニアの戦争は、まだ終わらない。
だが、少しずつ変わり始めている。
補給。
交易。
同盟。
そして、兵士の待遇。
俺は呟いた。
「……こういう積み重ねが、最後に効くはずだ」
そのとき。
メルカルが、新しい報告書を持ってきた。
「アドン殿!」
俺は顔を上げた。
「何?」
メルカルは答えた。
「カルタゴ本国から、追加援軍についての連絡です!」
俺は立ち上がった。
「……決まったのか!?」
メルカルは頷いた。
「はい!」
だが、続けた。
「ただし、条件があるそうです」
俺は眉をひそめた。
「……条件?」
メルカルは答えた。
「援軍の派遣先を、イタリアとヒスパニアのどちらにするか決める必要があるそうです」
俺は黙った。
イタリアには、ハンニバルがいる。
ヒスパニアには、カルタゴの重要な拠点がある。
どちらも必要だ。
俺は呟いた。
「……選べっていうのか」
カルタゴは、二つの戦場を同時に支えるだけの余裕を失い始めていた。




