第六十九話 ローマのすぐ近くの都市が交渉に来たので、寝返るより先に生き残る方法を考えた
紀元前214年。
イタリア南部。
その使者は、夜になってから陣営へ到着した。
名はルキウス。
ラティウム地方の都市で、商業に関わっている男だという。
俺は、彼を迎えた。
「遠いところを、ありがとうございます」
ルキウスは頷いた。
「こちらこそ」
だが、彼の顔は緊張していた。
俺は尋ねた。
「何か問題が?」
ルキウスは答えた。
「……我々の都市では、ローマへの不満が高まっています」
俺は頷いた。
「そうですか」
「兵士の徴発が続いています」
「……」
「戦死者も増えています」
「……」
「そして、戦争が終わる見通しがありません」
俺は黙って聞いていた。
ルキウスは続けた。
「そこで、カルタゴとの協力を検討したいのです」
俺は尋ねた。
「都市全体の決定ですか?」
ルキウスは首を振った。
「いいえ」
俺は頷いた。
「そうでしょうね」
「評議会の一部が、考え始めています」
俺は答えた。
「分かりました」
俺は、まず確認した。
「ローマ軍の駐屯地はありますか?」
ルキウスは頷いた。
「はい」
「兵力は?」
「正確には分かりません」
「都市の守備兵は?」
「います」
「ローマからの距離は?」
ルキウスは答えた。
「近いです」
俺は頷いた。
「……危険ですね」
ルキウスは顔を上げた。
「……危険?」
俺は答えた。
「ローマに近い都市が離反すれば、ローマはすぐに軍隊を送れます」
「……」
「カルタゴ軍が守りに行くより、ローマ軍が到着する方が早いかもしれません」
ルキウスは黙った。
俺は続けた。
「だから、今すぐ離反することは勧めません」
ルキウスは驚いた。
「……カルタゴは、我々の離反を望んでいるのでは?」
俺は頷いた。
「望んでいます」
「では、なぜ?」
俺は答えた。
「離反した翌日に都市が滅ぼされたら、意味がないからです」
ルキウスは黙った。
俺は地図を広げた。
「まず、都市の安全を考えましょう」
ルキウスが頷いた。
「はい」
「食料備蓄は?」
「十分ではありません」
「避難路は?」
「整備されていません」
「周辺都市との協力は?」
「ほとんどありません」
俺はため息をついた。
「……まず、そこからですね」
俺は提案した。
「今すぐローマとの同盟を破棄する必要はありません」
ルキウスは顔を上げた。
「……では?」
俺は答えた。
「まず、都市の食料備蓄を増やす」
「……」
「避難計画を作る」
「……」
「そして、周辺都市との交易関係を整える」
ルキウスは考え込んだ。
俺は続けた。
「カルタゴとの関係は、秘密裏の情報交換から始めればいい」
ルキウスは頷いた。
「なるほど」
「ただし、危険だと判断したら、すぐに中断してください」
ルキウスは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
数日後。
ルキウスは都市へ戻った。
俺は、その背中を見送った。
メルカルが尋ねた。
「……味方になってくれませんでしたね」
俺は頷いた。
「そうだね」
「残念ですか?」
俺は首を振った。
「いや」
そして、続けた。
「生きて帰ってくれた方がいい」
その夜。
俺はハンニバルへ報告した。
「ラティウム地方の都市から、使者が来た」
ハンニバルは驚いた。
「ローマの近くから?」
俺は頷いた。
「そう」
「離反するのですか?」
俺は首を振った。
「まだだよ」
そして、事情を説明した。
ハンニバルは頷いた。
「正しい判断だと思います」
俺は少し安心した。
ハンニバルは続けた。
「ローマの近くの都市が離反するには、我々の軍が近づく必要があります」
俺は頷いた。
「そうだね」
「ですが、今は南部の都市を守る必要がある」
「うん」
ハンニバルは地図を見つめた。
「……簡単ではありません」
俺は答えた。
「本当にね」
そのころ。
ローマ元老院では、同盟都市の監視が強化されていた。
カンナエでの大敗から時間が経っても、ローマは立ち直ろうとしていた。
新しい軍隊。
新しい徴発。
そして、同盟都市への要求。
俺は、その報告を聞いてため息をついた。
「……やっぱり、ローマは強い」
メルカルが尋ねた。
「どうしてですか?」
俺は答えた。
「負けても、戦争を続ける仕組みがあるからだよ」
俺は、ローマの同盟制度について、さらに調べ始めた。
都市ごとの義務。
兵士の提供。
自治の範囲。
そして、ローマから受ける利益。
メルカルが尋ねた。
「……不満だけじゃないんですね」
俺は頷いた。
「そう」
「ローマと同盟している理由もあるんですね」
俺は答えた。
「当然だよ」
そして、続けた。
「ローマに従っている都市が、全部嫌々従っているわけじゃない」
俺は、地図を見つめた。
ローマの同盟制度は、単純な支配ではない。
都市によって、関係が違う。
義務も違う。
権利も違う。
だからこそ、長く続いている。
俺は呟いた。
「……敵の強さを理解しないと、勝てないな」
その夜。
俺は新しい報告書を書き始めた。
『ローマ同盟制度の分析』
内容は、各都市がローマへ協力する理由だった。
軍事的な保護。
交易。
政治的な地位。
そして、周辺都市との関係。
俺は、そこから一つの結論を出した。
「……カルタゴが、もっと魅力的な選択肢にならないと駄目だ」
翌日。
俺はハンニバルへ提案した。
「カルタゴ側の同盟制度を、もっと明確にしたい」
ハンニバルは頷いた。
「どういうことですか?」
俺は答えた。
「都市の自治」
「……」
「軍事協力の条件」
「……」
「交易の自由」
そして、続けた。
「戦争が終わったあとも、守られる約束にしたい」
ハンニバルは考え込んだ。
俺は続けた。
「ローマから離反した都市は、カルタゴが勝ったあとも不安なんだよ」
ハンニバルが頷いた。
「確かに」
「だから、戦後の制度を今から考えたい」
ハンニバルは笑った。
「アドンは、戦争が終わったあとのことばかり考えていますね」
俺は答えた。
「戦争を終わらせたいからね」
数週間後。
俺は、南部の都市代表者たちを集めた。
カプア。
周辺の都市。
そして、カルタゴとの協力を検討している町。
俺は、協定案を提示した。
『イタリア都市相互協力協定』
都市の自治を尊重する。
交易を維持する。
軍事協力は、各都市の事情に応じて協議する。
そして、紛争が起きた場合は、武力ではなく協議を優先する。
代表者たちは、真剣に書類を読んでいた。
一人の代表者が尋ねた。
「……カルタゴが勝ったあとも、この協定は守られるのですか?」
俺は答えた。
「そのために、カルタゴ政府の正式な承認を求めています」
代表者は頷いた。
「なるほど」
別の代表者が尋ねた。
「カルタゴ政府が認めなかったら?」
俺は少し黙った。
そして答えた。
「その場合、俺は認めるように交渉します」
代表者たちは笑った。
だが。
その日の夕方。
新しい知らせが届いた。
ローマ軍が、イタリア南部で大規模な作戦を始めたという。
俺は地図を広げた。
「……どこ?」
伝令は答えた。
「カプア周辺です!」
俺は眉をひそめた。
「……またか」
ハンニバルは、すぐに軍議を開いた。
「ローマ軍は、我々の同盟都市を狙っています」
将校たちが頷いた。
「迎え撃ちますか?」
ハンニバルは答えた。
「状況を確認してから判断します」
俺は地図を見つめた。
ローマは、ハンニバルとの決戦を避ける。
そして、カルタゴ側の都市を一つずつ攻撃する。
この戦い方は、非常に厄介だった。
俺は呟いた。
「……やっぱり、守る仕組みが必要だな」
その夜。
俺は、カプアの代表者へ書簡を書いた。
『ローマ軍の動きについて、情報を共有してください』
『食料備蓄を確認してください』
『住民の避難計画を再点検してください』
そして、最後に書いた。
『カルタゴ軍だけに頼らず、周辺都市との協力を強めてください』
数日後。
カプアから返事が届いた。
『備蓄は増加している』
『周辺都市との協力も進んでいる』
『ただし、ローマ軍の圧力は強まっている』
俺は頷いた。
「……まだ、持ちこたえられる」
だが。
俺は分かっていた。
この戦争は、長くなる。
そして、ローマは何度でも攻めてくる。
俺は地図を見つめた。
「……次の一手が必要だな」
そのとき。
メルカルが、別の報告書を持ってきた。
「アドン殿!」
俺は顔を上げた。
「何?」
メルカルは答えた。
「ヒスパニアから、急報です!」
俺は息を呑んだ。
「……何があった?」
メルカルは答えた。
「ローマ軍が、カルタゴ軍の補給拠点を攻撃しています!」
俺は眉をひそめた。
「……まずいな」
そして、地図のヒスパニアを見つめた。
イタリアで勝ち続けても、ヒスパニアを失えば、カルタゴは戦争を続けられなくなる。
俺は、ヒスパニア方面の補給を立て直すため、新しい計画を考え始めた。




