第六十四話 ヌミディアから使者が来たので、ザマの戦いで裏切られないための準備を始めた
紀元前215年。
イタリア南部。
ヌミディアから来た使者は、若い男だった。
名前はイアルバ。
年齢は二十代半ばほど。
落ち着いた目をしている。
だが、言葉には慎重さがあった。
俺は、使者と向かい合っていた。
「遠いところを、ありがとうございます」
イアルバは頭を下げた。
「こちらこそ」
俺は尋ねた。
「ヌミディアから、どのような用件で?」
イアルバは答えた。
「カルタゴとの関係について、確認したいことがあります」
俺は頷いた。
「どうぞ」
イアルバは、しばらく考えてから言った。
「ヌミディアの騎兵は、長年カルタゴ軍に協力しています」
俺は頷いた。
「はい」
「ですが、我々はカルタゴの家臣ではありません」
俺は顔を上げた。
「……そのとおりです」
イアルバは少し驚いた。
「……認めるのですか?」
俺は頷いた。
「当然です」
「……」
「ヌミディアには、ヌミディアの人々と指導者がいます」
イアルバは黙った。
俺は続けた。
「カルタゴの都合だけで、動いてもらえるとは思っていません」
イアルバは、ゆっくりと頷いた。
「では、率直に申し上げます」
俺は答えた。
「お願いします」
イアルバは言った。
「ヌミディアでは、カルタゴとの協力を続けるべきか、議論が起きています」
俺は息を呑んだ。
「……そうですか」
「カルタゴはローマと戦っています」
「はい」
「その戦争が長引けば、ヌミディアも影響を受けます」
俺は頷いた。
「当然でしょう」
俺は尋ねた。
「具体的には、どのような問題が?」
イアルバは答えた。
「騎兵の派遣です」
「……」
「馬の供給です」
「……」
「そして、報酬の支払いです」
俺は眉をひそめた。
「……報酬?」
イアルバは頷いた。
「一部の部隊で、支払いが遅れています」
俺は顔をしかめた。
「……またか」
メルカルが小声で言った。
「……また補給の問題ですか?」
俺は頷いた。
「そうらしい」
俺は、すぐに帳簿を確認した。
ヌミディア騎兵への報酬。
馬の購入費。
飼料。
そして、負傷者への補償。
俺は記録を見て眉をひそめた。
「……確かに、未払いがあるな」
メルカルが尋ねた。
「どうします?」
俺は答えた。
「まず、原因を調べる」
調査の結果。
一部の報酬は、カルタゴ本国からの送金が遅れていた。
別の報酬は、部隊間の記録が一致していなかった。
俺はため息をついた。
「……これじゃ、不満が出るよ」
メルカルが頷いた。
「そうですね」
俺は続けた。
「戦場で命をかけているのに、報酬が支払われないんだから」
俺はハンニバルへ報告した。
「ヌミディア騎兵への報酬に、未払いがある」
ハンニバルは顔をしかめた。
「……本当ですか?」
俺は頷いた。
「うん」
ハンニバルはすぐに命令した。
「確認できた未払い分は、優先して支払ってください」
俺は頷いた。
「分かった」
数日後。
俺はイアルバへ報告した。
「未払い分について、確認できたものから支払いを進めています」
イアルバは驚いた。
「……もうですか?」
俺は頷いた。
「はい」
「本国の承認は?」
俺は答えた。
「必要な手続きは進めています。
ただし、軍の運用資金で対応できる部分は先に処理します」
イアルバは黙った。
そして、深く頭を下げた。
「感謝します」
俺は続けた。
「ただし、今回の支払いだけでは問題は解決しません」
イアルバが顔を上げた。
「……?」
俺は答えた。
「今後も同じことが起きる可能性があるからです」
そして、帳簿を広げた。
「そこで、長期的な協定を結びたい」
協定案には、いくつかの項目を入れた。
騎兵の派遣条件。
報酬の支払い時期。
負傷者への補償。
戦死者の遺族への補償。
馬の購入価格。
そして、ヌミディア側の自治と政治的地位の尊重。
イアルバは、協定案をじっと見つめていた。
「……ここまで決めるのですか?」
俺は頷いた。
「はい」
「なぜ?」
俺は答えた。
「曖昧な約束は、あとで揉めるからです」
イアルバは少し笑った。
「商人らしい考え方ですね」
俺も笑った。
「よく言われます」
だが。
俺は、心の中で別のことを考えていた。
本来の歴史では。
ザマの戦いで、ヌミディアの有力者マシニッサがローマ側についた。
その騎兵は、カルタゴ軍にとって大きな脅威となった。
もちろん、理由は単純な報酬の問題ではない。
ヌミディア内部の王位争い。
カルタゴとの政治関係。
そして、ローマとの利害。
複雑な事情が重なっていた。
俺は拳を握った。
「……同じことを繰り返すわけにはいかない」
俺はイアルバへ尋ねた。
「ヌミディア内部の政治情勢について、教えていただけますか?」
イアルバは慎重な顔になった。
「……なぜです?」
俺は答えた。
「カルタゴとの協力が、ヌミディア内部の争いに利用されることを避けたいからです」
イアルバは黙った。
俺は続けた。
「特定の一派だけを支援すれば、別の一派がローマへ接近する可能性があります」
イアルバは、俺をじっと見つめた。
そして言った。
「……よく分かっていますね」
俺は答えた。
「商人は、取引相手の事情を知らないと困りますから」
イアルバは説明した。
ヌミディアには、複数の有力な勢力がある。
東西の部族連合。
それぞれの指導者。
そして、王位をめぐる対立。
俺は頷いた。
「なるほど」
イアルバは続けた。
「カルタゴが一方だけを支援すれば、もう一方は不満を持ちます」
俺は答えた。
「そうでしょうね」
俺は少し考えた。
そして提案した。
「まず、騎兵の協力については、個々の部族との契約を明確にしませんか?」
イアルバが尋ねた。
「個々の部族と?」
俺は頷いた。
「はい」
「……」
「政治的な争いとは切り離して、軍事協力の条件を整えたいんです」
イアルバは考え込んだ。
その夜。
俺はハンニバルへ報告した。
「ヌミディアとの関係を、見直したい」
ハンニバルは頷いた。
「理由は?」
俺は答えた。
「騎兵への報酬だけじゃない」
「……」
「ヌミディア内部の政治情勢が、今後の戦争に影響する可能性がある」
ハンニバルは真剣な顔になった。
「確かに」
俺は続けた。
「だから、特定の勢力だけに頼らない関係を作りたい」
ハンニバルは頷いた。
「重要ですね」
数週間後。
イアルバはヌミディアへ帰国した。
俺は、協定案を渡した。
「正式な返事をお待ちしています」
イアルバは頭を下げた。
「必ず、持ち帰ります」
俺は頷いた。
「お願いします」
使者が出発したあと。
メルカルが尋ねた。
「……これで、ヌミディアは味方でいてくれますか?」
俺は首を振った。
「分からない」
「……」
「でも、何もしないよりはいい」
メルカルは頷いた。
その夜。
俺は地図を見つめていた。
イタリア。
カルタゴ。
ヒスパニア。
そして、ヌミディア。
戦争は、地中海全体で進んでいる。
ハンニバルがイタリアで勝つ。
それだけでは足りない。
本国の政治。
海上補給。
イタリアの同盟都市。
そして、ヌミディアの騎兵。
すべてがつながっている。
俺は呟いた。
「……ザマで勝つためには、今から準備しないとな」
だが。
その数日後。
カルタゴ本国から、新しい報告が届いた。
俺は書簡を開いた。
そして、動きを止めた。
『ヌミディアの有力者の一部が、ローマ側と接触している可能性がある』
俺は息を呑んだ。
「……もう始まっているのか」
メルカルが尋ねた。
「何がですか?」
俺は答えた。
「ヌミディアをめぐる、ローマとの外交戦だよ」
そして、心の中で呟いた。
ザマの戦いは、まだ十年以上先だ。
だが。
その勝敗を決める戦いは、もう始まっていた。




