第六十話 カンナエで大勝利したのに援軍を渋るので、カルタゴ政府に勝利の値段を計算して見せた
紀元前216年。
カンナエの戦いから、しばらく経ったころ。
カルタゴ軍の陣営には、各地から使者が訪れていた。
ローマから離反したい都市。
交易を再開したい商人。
そして、カルタゴ軍の保護を求める村。
俺は、その対応に追われていた。
「……忙しいな」
メルカルが帳簿を抱えていた。
「忙しいどころじゃありません!」
俺は頷いた。
「そうだね」
「昨日だけで、使者が十二人ですよ!」
「うん」
「しかも、みんな違う条件を出してきます!」
俺は苦笑した。
「そりゃそうだよ」
その日。
カルタゴ本国から届いた書簡を、俺は改めて読み返していた。
『カンナエでの勝利を祝す』
『ただし、追加援軍については慎重な検討を要する』
俺はため息をついた。
「……慎重な検討、ね」
メルカルが尋ねた。
「どうするんですか?」
俺は答えた。
「数字を見せよう」
「……数字?」
「うん」
俺は帳簿を開いた。
「戦争に勝つために、今いくら必要なのか」
「……」
「そして、援軍を出さなかった場合、どれだけ損をするのか」
メルカルは頷いた。
「なるほど」
俺は、まず現在の戦況を整理した。
カルタゴ軍は、イタリアで大勝利を重ねている。
ローマ軍は、多くの兵士を失った。
そして、イタリア南部ではローマから離反する都市が現れ始めていた。
だが、問題も多い。
カルタゴ軍の兵士は、長期間の遠征で疲れている。
装備も消耗している。
補給路は長い。
そして、ローマはまだ戦争を続けている。
俺は呟いた。
「……今が一番重要なんだよな」
俺は、ハンニバルへ相談した。
「援軍について、本国へもう一度要求したい」
ハンニバルは頷いた。
「お願いします」
俺は尋ねた。
「具体的に、何が必要?」
ハンニバルは少し考えた。
そして答えた。
「まず、兵士です」
俺は頷いた。
「うん」
「次に、馬」
「うん」
「それから、武器と防具」
「うん」
「そして、攻城兵器を作る技術者」
俺は顔を上げた。
「……技術者?」
ハンニバルは頷いた。
「はい」
「都市を攻めるため?」
「それもあります」
ハンニバルは続けた。
「ただし、攻城兵器だけでなく、橋や道路の修理も必要です」
俺は頷いた。
「なるほど」
俺は必要な物資を一覧にした。
兵士。
馬。
武器。
防具。
技術者。
船。
そして、食料。
メルカルが尋ねた。
「……全部で、いくらになりますか?」
俺は答えた。
「まだ計算中」
「……」
「でも、かなりの金額になる」
メルカルは顔をしかめた。
「本国が認めますかね?」
俺は答えた。
「認めてもらわないと困る」
俺は、次に別の計算を始めた。
援軍を出した場合。
援軍を出さなかった場合。
それぞれの戦争費用を比較する。
メルカルが首をかしげた。
「……どういうことですか?」
俺は答えた。
「今、援軍を出せば、ローマの同盟都市をさらに離反させられるかもしれない」
「……」
「そうなれば、ローマの戦争継続能力が弱まる」
「……」
「結果として、戦争が早く終わる可能性がある」
メルカルは頷いた。
「なるほど」
俺は続けた。
「逆に、援軍を出さなければ、ハンニバル軍はイタリアで戦い続けることになる」
「……」
「戦争が長引けば、その分だけ費用が増える」
俺は計算結果を見つめた。
もちろん、未来の戦況を正確に予測することはできない。
だが、複数の想定を比較することはできる。
俺は報告書に書いた。
『追加援軍は支出ではなく、戦争終結を早めるための投資である』
メルカルが読んだ。
「……投資?」
俺は頷いた。
「そう」
そして続けた。
「商人に説明するなら、こういう言い方が一番分かりやすい」
その日の夕方。
俺は、カルタゴ本国へ送る報告書を完成させた。
表題は。
『イタリア遠征軍への追加投資と戦争終結までの費用比較』
メルカルが笑った。
「……商売の計画書みたいですね」
俺は頷いた。
「そのつもりだよ」
報告書には、三つの案を載せた。
第一案。
現在の補給規模を維持する。
追加援軍は送らない。
費用は短期的には抑えられるが、戦争が長期化する可能性が高い。
第二案。
限定的な援軍を送る。
兵士と物資を補充し、南部の都市を守る。
第三案。
本格的な援軍を送り、イタリア南部の港を確保する。
補給路を整え、ローマの同盟都市をさらに離反させる。
俺は第三案に印をつけた。
「……これだな」
だが、問題は本国の政治だった。
ハンノを中心とする一派は、イタリア遠征の費用を抑えようとしている。
一方、ハンニバルを支持する者たちは、援軍を求めている。
俺は考えた。
「……数字だけでは、動かないかもしれないな」
メルカルが尋ねた。
「では、どうするんですか?」
俺は答えた。
「商人たちにも説明する」
俺は、カルタゴ本国の商人組合へ書簡を送った。
『イタリアでの勝利により、新しい交易機会が生まれています』
『南部の港を確保できれば、地中海交易の利益が増える可能性があります』
『ただし、補給不足によって戦争が長期化すれば、商人の負担も増大します』
そして、最後に書いた。
『戦争を終わらせるための費用と、戦争を続けるための費用を比較してください』
数週間後。
カルタゴ本国では、商人たちの間で議論が始まった。
「今、援軍を出すべきでは?」
「だが、費用が大きい」
「戦争が長引けば、もっと費用がかかるぞ」
「南部の港を確保できれば、交易も増える」
「ローマとの戦争が終われば、利益はさらに大きい」
俺は、その報告を読んで頷いた。
「……よし」
メルカルが尋ねた。
「動きそうですか?」
俺は答えた。
「少なくとも、議論は始まった」
だが。
ハンノも反論した。
カルタゴ本国の評議会で、彼は言った。
「イタリアで勝利していることは認める」
議員たちが頷いた。
ハンノは続けた。
「だが、カルタゴにはヒスパニアもある」
「……」
「アフリカの防衛も必要だ」
「……」
「海軍も維持しなければならない」
ハンノは声を強めた。
「すべての資金を、ハンニバルへ送るわけにはいかん!」
議員たちは考え込んだ。
そのころ。
俺のところへ、カルタゴ本国から新しい書簡が届いた。
俺は封を開いた。
そこには、こう書かれていた。
『イタリア遠征軍への追加援軍について、再審議を行う』
俺は息を吐いた。
「……ようやくか」
メルカルが笑った。
「成功ですか?」
俺は首を振った。
「まだだよ」
「……」
「再審議だからね」
だが。
その日の夜。
さらに驚くべき知らせが届いた。
カルタゴ本国の商人組合が、追加援軍の費用の一部を負担する案を提出したという。
俺は目を見開いた。
「……本当に?」
メルカルが頷いた。
「はい!」
俺は報告書を読み返した。
『商人組合は、イタリア方面の交易権と引き換えに、輸送船および物資の提供を検討する』
俺は思わず笑った。
「……なるほど」
メルカルが尋ねた。
「いい話なんですか?」
俺は答えた。
「条件次第だね」
そして続けた。
「独占権を与えすぎると、また問題が起きる」
俺は、商人組合へ返事を書いた。
『ご協力に感謝します』
『ただし、交易権は複数の商会へ開放し、公平な競争を維持することを提案します』
『軍需品の価格と納入数量については、記録と監査を行うべきです』
そして、最後に書いた。
『戦争の勝利を、一部の商人だけの利益にしてはなりません』
その夜。
ハンニバルが俺のところへ来た。
「アドン」
「何?」
「本国の商人たちが、援軍の費用を負担するそうですね」
俺は頷いた。
「まだ検討段階だけどね」
ハンニバルは笑った。
「それでも、大きな前進です」
俺は答えた。
「そうだね」
ハンニバルは地図を広げた。
「カプアとの協定も進んでいます」
俺は頷いた。
「うん」
「さらに、南部の都市からも使者が来ています」
「そうだね」
ハンニバルは続けた。
「もし本国から援軍が届けば、状況は大きく変わります」
俺は答えた。
「そのために、今から港を調べている」
ハンニバルが顔を上げた。
「港?」
俺は頷いた。
「そう」
そして、地図の南部を指差した。
「カルタゴ本国から船を送るなら、受け入れる港が必要だからね」
そのとき。
メルカルが部屋へ駆け込んできた。
「アドン殿!」
俺は顔を上げた。
「どうした?」
メルカルは叫んだ。
「南部の都市から、使者が来ています!」
俺は頷いた。
「どこの都市?」
メルカルは答えた。
「タレントゥムです!」
俺は息を呑んだ。
タレントゥム。
イタリア南部の重要な港湾都市。
本来の歴史でも、後にハンニバルが奪取する都市だ。
俺は地図を見つめた。
「……ついに来たか」
だが。
メルカルは続けた。
「ただし、条件があります!」
俺は尋ねた。
「何?」
メルカルは答えた。
「ローマ軍の駐屯部隊を排除し、都市の自治を保証してほしいそうです!」
俺は頷いた。
「……なるほど」
そして、地図の港を指差した。
「ここを確保できれば、補給の状況が変わる」
ハンニバルも頷いた。
「重要ですね」
俺は答えた。
「かなりね」
だが。
俺は知っていた。
タレントゥムは、簡単に手に入る都市ではない。
ローマ軍の守備隊がいる。
さらに、港の入口を押さえる要塞もある。
そして、都市内部の政治も複雑だ。
俺は呟いた。
「……交渉だけでは、済まないかもしれないな」
こうしてカルタゴ軍は、イタリア南部の重要港湾都市タレントゥムをめぐる、新しい戦いへ進もうとしていた。




