第五十九話 カンナエでローマ軍を包囲したので、勝ったあとの準備を始めた
紀元前216年。
カンナエ。
ローマ軍は、カルタゴ軍の中央へ押し込んでいた。
だが、それはハンニバルの狙いだった。
中央を後退させる。
左右のアフリカ兵が前進する。
そして、騎兵が背後へ回る。
ローマ軍は、次第に包囲されていった。
俺は後方の丘から、戦場を見つめていた。
メルカルが叫んだ。
「……囲んでいます!」
俺は頷いた。
「うん」
「ローマ軍を、全部!」
俺は息を呑んだ。
「……すごいな」
戦場では、ローマ軍の兵士たちが混乱していた。
前へ進めない。
後ろへ下がれない。
左右から攻撃される。
さらに、騎兵が背後を塞いでいる。
ローマ兵たちは、必死に戦った。
だが、陣形を立て直すことができなかった。
ハンニバルは、戦場を見つめていた。
「……包囲は完成した」
マゴンが頷いた。
「はい」
「ただし、油断するな」
「はっ!」
ハンニバルは続けた。
「敵は、まだ戦っている」
俺は補給部隊へ命令した。
「負傷者の受け入れ準備を!」
兵士たちが動いた。
水。
包帯。
食料。
そして、負傷者を運ぶ荷車。
メルカルが尋ねた。
「もう勝ったんですか?」
俺は首を振った。
「まだだよ」
「……」
「でも、準備は必要だからね」
戦いは、長時間続いた。
そして。
ローマ軍は、壊滅的な敗北を喫した。
多くの兵士が戦死し、捕虜となった。
執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスも戦死した。
もう一人の執政官ウァロは、戦場から脱出した。
俺は、その報告を聞いて息を吐いた。
「……勝った」
メルカルが笑った。
「大勝利です!」
俺は頷いた。
「うん」
だが。
俺はすぐに、別のことを考えていた。
「……使者を出そう」
メルカルが尋ねた。
「どこへですか?」
俺は答えた。
「イタリア南部の都市へ」
「……」
「それから、ローマの同盟都市へ」
メルカルは頷いた。
「分かりました」
俺は続けた。
「カンナエでローマ軍が敗れたことを伝える」
「……」
「そして、カルタゴとの協力条件を提示する」
俺は、以前から準備していた書簡を取り出した。
都市の自治。
交易の自由。
ローマ軍からの防衛。
そして、戦後の地位。
すべて、交渉のための草案だった。
メルカルが驚いた。
「……もう用意していたんですか?」
俺は頷いた。
「うん」
「いつから?」
「かなり前から」
メルカルは呆れた顔をした。
「……用意が良すぎませんか?」
俺は答えた。
「勝ってから考えていたら、遅いからね」
その日の夕方。
ハンニバルが帰還した。
兵士たちは歓声を上げた。
「ハンニバル!」
「ハンニバル!」
俺は、その姿を見つめていた。
ハンニバルは馬から降りた。
そして、俺のところへ来た。
「アドン」
「おかえり」
「勝ちました」
俺は笑った。
「知ってるよ」
ハンニバルは頷いた。
「ローマ軍の大軍を破りました」
俺は答えた。
「本当にすごいよ」
俺は、準備していた書簡を見せた。
ハンニバルが驚いた。
「……これは?」
俺は答えた。
「勝ったあとの準備だよ」
ハンニバルは書簡を読んだ。
そして、笑った。
「もう始めていたんですね」
俺は頷いた。
「うん」
「さすがです」
俺は肩をすくめた。
「商人だからね」
その夜。
軍議が開かれた。
マゴンが言った。
「ローマ軍は壊滅した」
将校たちが頷いた。
「今こそ、ローマへ進軍するべきでは?」
俺は顔を上げた。
ハンニバルは考え込んだ。
「……ローマへ?」
マゴンは頷いた。
「はい」
「敵の主力を破った今なら、ローマは混乱しているはずです」
俺は黙って聞いていた。
ハンニバルは俺を見た。
「アドンは、どう思いますか?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「ローマへ進軍するだけなら、できるかもしれない」
将校たちが顔を上げた。
俺は続けた。
「でも、ローマを落とせるかどうかは別だよ」
マゴンが眉をひそめた。
「理由は?」
俺は答えた。
「城壁がある」
「……」
「守備兵もいる」
「……」
「そして、こちらには十分な攻城兵器がない」
ハンニバルは頷いた。
「そのとおりです」
俺は続けた。
「それに、今のカルタゴ軍は戦ったばかりだ」
「……」
「負傷者も多い」
「……」
「補給も整えなければならない」
マゴンは黙った。
俺は地図を指差した。
「それより、ローマの同盟都市を離反させる方が効果的だと思う」
ハンニバルは頷いた。
「私も同じ考えです」
俺は少し安心した。
ハンニバルは続けた。
「ローマは、同盟都市から兵士を集めています」
「……」
「その同盟を崩せば、ローマは弱くなる」
俺は頷いた。
「そうだね」
軍議では、今後の方針が決まった。
イタリア南部の都市との交渉。
補給路の確保。
そして、カルタゴ本国への援軍要請。
俺は、書簡をまとめた。
メルカルが尋ねた。
「……これで戦争は終わりますか?」
俺は首を振った。
「まだだよ」
「……」
「でも、終わらせるための準備はできる」
数日後。
最初の使者が戻ってきた。
「アドン殿!」
俺は立ち上がった。
「どうだった!?」
使者は答えた。
「南部の都市から、協力の申し出がありました!」
俺は顔を上げた。
「……どこ?」
使者は答えた。
「カプアです!」
俺は息を呑んだ。
カプア。
イタリア南部の有力都市。
本来の歴史でも、カンナエの戦いのあとにカルタゴ側へついた都市だ。
俺は頷いた。
「……来たか」
使者は続けた。
「ただし、条件があります!」
俺は尋ねた。
「何?」
使者は答えた。
「自治の保証です!」
俺は頷いた。
「それなら、交渉できる」
使者は続けた。
「さらに、ローマ軍からの防衛を求めています!」
俺は答えた。
「当然だね」
だが、使者は最後に言った。
「そして、もう一つ」
俺は眉をひそめた。
「……何?」
使者は答えた。
「カプアは、ローマに代わるイタリアの中心都市になることを望んでいます!」
俺は黙った。
メルカルも黙った。
そして、俺は呟いた。
「……それは、話が大きいな」
その夜。
俺はハンニバルへ報告した。
「カプアが協力を申し出ている」
ハンニバルは頷いた。
「いい知らせですね」
俺は答えた。
「うん」
そして、続けた。
「ただし、戦後のイタリアで主導的な地位を求めている」
ハンニバルは少し笑った。
「なるほど」
俺は尋ねた。
「どうする?」
ハンニバルは答えた。
「交渉しましょう」
俺は頷いた。
「分かった」
だが。
俺は一つだけ気になっていた。
カプアがカルタゴ側につけば、ローマは必ず報復を考える。
そして、カルタゴ軍がカプアを守れなければ、他の都市も離反をためらう。
俺は地図を見つめた。
「……守れる体制を作らないとな」
メルカルが尋ねた。
「どうするんですか?」
俺は答えた。
「カプアだけじゃない」
「……?」
「周辺の都市も含めて、防衛と補給の仕組みを作る」
その日の夜。
俺は、カプアとの協定案を書き始めた。
自治の保証。
交易の自由。
食料供給。
共同防衛。
そして、戦後の政治的地位については、別途協議する。
メルカルが尋ねた。
「……最後の条件は、曖昧ですね」
俺は頷いた。
「そう」
「いいんですか?」
俺は答えた。
「今、決められないことを約束する方が危険だからね」
翌朝。
俺は、カプアへ向かう使者に協定案を渡した。
「これを届けてください」
使者が頷いた。
「承知しました」
俺は続けた。
「それから、カプアの代表者へ伝えてください」
「何をですか?」
俺は答えた。
「カルタゴは、ローマの代わりにカプアを支配するために来たわけではない、と」
使者は頷いた。
「分かりました」
その日の夕方。
ハンニバルは、カプア方面へ向かう部隊の編成を始めた。
俺は補給計画を確認した。
食料。
馬の飼料。
輸送路。
そして、負傷者の受け入れ先。
メルカルが尋ねた。
「……また忙しくなりますね」
俺は頷いた。
「そうだね」
そして、少し笑った。
「でも、今度は勝ったあとの仕事だから」
だがそのときカルタゴ本国から、新しい書簡が届いた。
俺は封を開いた。
そして、眉をひそめた。
『カンナエでの勝利を祝す』
『ただし、イタリア遠征軍への追加援軍については、慎重な検討を要する』
俺は頭を抱えた。
「……またかよ」
メルカルが尋ねた。
「どうしました?」
俺は答えた。
「勝ったのに、援軍を出すかどうか迷っているらしい」
メルカルは叫んだ。
「……ええっ!?」
俺は書簡を机に置いた。
「……やっぱり、本国の政治を何とかしないと駄目だな」
そして。
俺は、カルタゴ政府へ直接働きかけるための、新しい計画を考え始めた。
ハンニバルが戦場でローマを破っても、カルタゴ政府が動かなければ、最後には負ける。
それだけは、絶対に避けなければならなかった。




