第五十三話 ローマの同盟都市が寝返りたいと言ってきたので、まず本当に信用できるのか調べることにした
トレビアの戦いから数日後。
カルタゴ軍の陣営に、一人の使者が訪れた。
ローマの同盟都市から来たという。
だが、都市の名前は明かそうとしなかった。
俺は、使者と向かい合っていた。
「……名前を明かせない?」
使者は頷いた。
「はい」
俺は尋ねた。
「では、どうやって交渉するんですか?」
使者は答えた。
「まず、カルタゴ側の条件を確認したいのです」
俺は少し考えた。
「なるほど」
隣にいたメルカルが小声で言った。
「……怪しくありませんか?」
俺は頷いた。
「かなりね」
使者は、四十歳ほどの男だった。
落ち着いた服装。
丁寧な言葉遣い。
そして、ローマの政治制度にも詳しい。
俺は尋ねた。
「あなたの都市は、ローマとどのような関係にあるのですか?」
使者は答えた。
「兵士を提供しています」
「税は?」
「一定の負担があります」
「自治は?」
使者は少し黙った。
そして答えた。
「形式上は認められています」
俺は頷いた。
「形式上、ですか」
使者は続けた。
「実際には、ローマの意向を無視できません」
俺は尋ねた。
「では、カルタゴへ協力する理由は?」
使者は答えた。
「ローマが敗れ始めたからです」
俺は首を振った。
「それだけですか?」
使者は少し驚いた。
「……?」
俺は続けた。
「ローマが次の戦いで勝ったら、またローマ側へ戻るということですか?」
使者は黙った。
俺は言った。
「それでは、こちらも信用できません」
使者は、しばらく考えた。
そして口を開いた。
「……我々は、ローマへ兵士を出すことに疲れています」
俺は顔を上げた。
使者は続けた。
「戦争のたびに若者が連れていかれる」
「……」
「帰ってこない者も多い」
「……」
「それでも、ローマは次の兵士を要求する」
俺は黙って聞いていた。
使者は続けた。
「我々は、いつまでローマのために戦わなければならないのでしょうか?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「カルタゴへ協力しても、戦争がすぐに終わるとは限りません」
使者は頷いた。
「分かっています」
俺は続けた。
「むしろ、ローマから報復される危険があります」
「……」
「その覚悟はありますか?」
使者は答えた。
「だからこそ、条件を確認したいのです」
俺は頷いた。
「分かりました」
使者は、三つの条件を提示した。
一つ目。
都市の自治を認めること。
二つ目。
ローマ軍が攻撃してきた場合、カルタゴ軍が防衛すること。
三つ目。
戦争が終わったあとも、カルタゴが都市の独立を保証すること。
俺は、三つ目を聞いて眉をひそめた。
「……戦争が終わったあとも?」
使者は頷いた。
「はい」
俺は考えた。
戦争中の約束なら、まだ分かる。
だが、戦後の独立保証となれば話は別だ。
カルタゴ政府の承認も必要になる。
俺は答えた。
「その条件は、俺だけでは決められません」
使者は頷いた。
「承知しています」
俺はハンニバルへ報告した。
ハンニバルは地図を見つめていた。
「ローマの同盟都市から?」
「そう」
「都市名は?」
「まだ明かしていない」
ハンニバルは少し笑った。
「慎重ですね」
俺は答えた。
「慎重すぎるくらいだよ」
ハンニバルは尋ねた。
「条件は?」
俺は説明した。
自治。
防衛。
戦後の独立保証。
ハンニバルは頷いた。
「悪くありません」
俺は驚いた。
「……いいの?」
ハンニバルは答えた。
「ローマの同盟都市が離反すれば、ローマは弱くなります」
俺は頷いた。
「そうだね」
ハンニバルは続けた。
「ただし、信用できるかどうかは別です」
俺は笑った。
「同感」
俺は使者へ、追加の質問をした。
「ローマ軍の駐屯地はありますか?」
使者は答えた。
「あります」
「兵力は?」
「数百人です」
「都市の守備兵は?」
「それ以上います」
俺は頷いた。
「では、ローマ軍の駐屯地をどうするつもりですか?」
使者は黙った。
俺は続けた。
「カルタゴへ協力すると言っても、ローマ軍が都市の中にいたままでは難しいでしょう」
使者は答えた。
「……それが問題なのです」
俺は地図を広げた。
「ローマ軍を追い出す計画はありますか?」
使者は首を振った。
「まだありません」
俺は頭を抱えた。
「……そこからですか」
使者は申し訳なさそうだった。
「我々だけでは、ローマ軍と戦うことが難しいのです」
俺は頷いた。
「なるほど」
そして、考えた。
カルタゴ軍が都市へ向かえば、ローマ軍は警戒する。
だが、何もしなければ離反は実現しない。
俺は尋ねた。
「都市の中で、ローマに反対している人はどれくらいいますか?」
使者は答えた。
「評議会の半数ほどです」
俺は顔を上げた。
「……半数?」
「はい」
俺はため息をついた。
「それでは、まだ決定できませんね」
使者は頷いた。
「だから、カルタゴ側の保証が必要なのです」
俺は考えた。
保証があれば、評議会の賛成者が増えるかもしれない。
だが、カルタゴ軍が守れなければ、約束は破られる。
俺は言った。
「まず、都市の名前を教えてください」
使者は黙った。
俺は続けた。
「名前も分からない都市を守る約束はできません」
使者は、しばらく考えた。
そして答えた。
「……分かりました」
俺は身を乗り出した。
使者は小声で言った。
「我々は、イタリア中部の都市から来ました」
俺は頷いた。
「都市名は?」
使者は答えた。
「……今は、まだ言えません」
俺は椅子からずり落ちそうになった。
「……結局、言わないのかよ」
メルカルが小声で尋ねた。
「……どうします?」
俺は答えた。
「まず、調べよう」
「何をですか?」
「使者の正体だよ」
俺は続けた。
「本当にローマの同盟都市から来たのか」
「……」
「それとも、ローマの罠なのか」
メルカルは頷いた。
「確かに」
俺は、商人たちへ連絡した。
イタリア中部。
ローマの同盟都市。
そして、最近の政治情勢。
交易路を通じて、情報を集める。
俺はメルカルへ言った。
「商人は、軍隊よりも早く情報を運ぶことがある」
メルカルが頷いた。
「はい」
俺は続けた。
「だから、交易路を整備しておいてよかったんだ」
数日後。
最初の報告が届いた。
俺は書簡を開いた。
そこには、複数の都市の名前が書かれていた。
ローマへの不満が高まっている都市。
兵士の徴発に反発している都市。
そして、カルタゴ軍の勝利を喜んでいる都市。
俺は呟いた。
「……思ったより多いな」
メルカルが尋ねた。
「何がですか?」
俺は答えた。
「ローマに不満を持っている都市だよ」
だが。
次の報告を読んだ瞬間。
俺の表情が変わった。
『ローマは、同盟都市の離反を警戒し、各地へ監視役を派遣している』
俺は眉をひそめた。
「……やっぱり」
さらに続く。
『カルタゴ軍との接触が疑われる都市では、人質の要求が増えている』
俺は拳を握った。
「……そう来たか」
その夜。
俺はハンニバルへ報告した。
「ローマは、同盟都市の離反を警戒している」
ハンニバルは頷いた。
「当然でしょう」
俺は続けた。
「だから、こちらも急ぎすぎない方がいい」
ハンニバルが尋ねた。
「理由は?」
俺は答えた。
「準備が整わないうちに離反すれば、ローマ軍に潰される」
ハンニバルは頷いた。
「確かに」
俺は続けた。
「まず、秘密裏に交易と情報交換を進める」
「……」
「そして、カルタゴ軍が近づいた時点で正式に協力してもらう」
ハンニバルは笑った。
「戦場へ到着する前に、味方を作るわけですね」
俺は頷いた。
「そういうこと」
だが。
その翌朝。
使者が突然、姿を消した。
俺は報告を聞いて驚いた。
「……いなくなった?」
メルカルが頷いた。
「はい」
「いつ?」
「昨夜です」
俺は眉をひそめた。
「護衛は?」
「気づかなかったそうです」
俺は考えた。
逃げたのか。
それとも、何者かに連れ去られたのか。
俺は尋ねた。
「荷物は?」
メルカルは答えた。
「ほとんど残っています」
俺は顔を上げた。
「……荷物を置いて?」
「はい」
俺は嫌な予感がした。
俺は使者の部屋へ向かった。
机。
椅子。
寝台。
そして、置き去りにされた鞄。
俺は鞄を確認した。
中には、衣服と書類が入っていた。
だが、一枚だけ妙な紙があった。
俺はそれを取り出した。
「……何だ、これ?」
そこには、短い文章が書かれていた。
『ローマは、カルタゴの商人を危険視している』
俺は眉をひそめた。
さらに続く。
『次に狙われるのは、アドンだ』
俺は黙った。
メルカルが覗き込んだ。
そして、顔を青くした。
「……アドン殿」
俺は答えた。
「うん」
「……逃げませんか?」
俺はため息をついた。
「またそれ?」
メルカルは叫んだ。
「今度こそ逃げましょうよ!」
俺は書簡を見つめた。
ローマは、ハンニバルだけを警戒しているわけではない。
補給路。
交易網。
そして、同盟都市への働きかけ。
その中心にいる俺も、標的になり始めていた。
俺は呟いた。
「……商人なのに、ずいぶん嫌われたな」
メルカルが答えた。
「商人の仕事を超えていますから!」
俺は苦笑した。
「……それもそうか」
その日の夕方。
新しい報告が届いた。
ローマ軍が、北イタリアから一部の部隊を撤退させているという。
俺は地図を広げた。
「……次の戦いの準備か」
メルカルが尋ねた。
「どこで戦うんですか?」
俺は答えた。
「まだ分からない」
だが、俺は知っていた。
次に大きな戦いが起きるのは、紀元前217年。
トラシメヌス湖畔。
本来の歴史では、ハンニバルがローマ軍を待ち伏せし、大勝利を収める場所だ。
俺は地図を見つめた。
「……また、ローマ軍が負ける」
だが。
その勝利だけでは、カルタゴは勝てない。
俺は拳を握った。
「……今度こそ、勝利を無駄にしない」
そのとき。
ハンニバルが俺のところへ来た。
「アドン」
「何?」
ハンニバルは地図を広げた。
そして、イタリア中部を指差した。
「次は、ここへ向かいます」
俺は顔を上げた。
「……南へ?」
ハンニバルは頷いた。
「はい」
そして、言った。
「ローマの同盟都市を、直接揺さぶります」
俺は地図を見つめた。
ついに。
ハンニバルは、イタリア半島の奥深くへ進軍することになる。
そして。
その進軍先には、ローマ軍の新しい執政官が待ち構えていた。




