第五十二話 ローマ軍が川を渡って攻めてきたので、温かい朝食を食べてから迎え撃つことにした
紀元前218年。
冬。
イタリア北部。
トレビア川の周辺には、冷たい風が吹いていた。
俺は川の水に手を入れた。
「……冷たっ!」
慌てて手を引っ込める。
指先が痛い。
メルカルが呆れた顔をした。
「何をしているんですか?」
俺は答えた。
「水温を確認していたんだよ」
「手を入れなくても、冷たいことくらい分かりますよ」
「……確かに」
俺は川を見つめた。
この川を、ローマ軍が渡ってくる。
しかも、冬の朝に。
俺は心の中で呟いた。
「……絶対に嫌だな」
ハンニバルは、軍議を開いていた。
「ローマ軍は、我々を攻撃する機会を探している」
将校たちが頷いた。
「特に、センプロニウスは積極的だ」
マゴンが尋ねた。
「こちらから攻撃するのか?」
ハンニバルは首を振った。
「いや」
そして、地図を指差した。
「敵に川を渡らせる」
俺は頷いた。
「やっぱりね」
ハンニバルが俺を見た。
「何か問題がありますか?」
俺は答えた。
「いや。
むしろ、いいと思う」
そして続けた。
「ただし、こちらの兵士には温かい食事を食べさせたい」
ハンニバルは少し驚いた。
「……食事?」
俺は頷いた。
「そう」
俺は説明した。
「冬の朝、冷たい川を渡った兵士は、体が冷える」
ハンニバルが頷いた。
「当然ですね」
「しかも、食事を取らずに戦えば、体力が落ちる」
「……」
「だったら、こちらは逆にすればいい」
ハンニバルは笑った。
「温かい食事を取って、体を温めてから戦う」
俺は頷いた。
「そういうこと」
マゴンが腕を組んだ。
「戦争の話をしているのに、朝食の話になるとはな」
俺は肩をすくめた。
「兵士も人間ですから」
ハンニバルは頷いた。
「採用しましょう」
翌朝。
俺は補給部隊を集めた。
「戦闘前の食事について、変更します」
メルカルが記録板を開いた。
「何を作るんですか?」
俺は答えた。
「温かい粥だよ」
「粥?」
「うん」
穀物を煮る。
塩を加える。
可能なら、肉や豆も入れる。
簡単な料理だ。
だが、寒い朝には十分な価値がある。
俺は続けた。
「兵士がすぐに食べられるよう、部隊ごとに準備する」
メルカルが頷いた。
「分かりました」
だが。
問題は、燃料だった。
大量の兵士へ温かい食事を用意するには、薪が必要になる。
俺は周辺の村から、薪を購入することにした。
商人ブレンノが尋ねた。
「……薪まで買うのか?」
俺は頷いた。
「そうだよ」
「山ほど木があるだろう?」
俺は答えた。
「勝手に切ったら、村の人が困るからね」
ブレンノは笑った。
「本当に変わった軍隊だな」
俺は肩をすくめた。
「少なくとも、そうありたいと思っているよ」
その日の午後。
ハンニバルは、地形を確認していた。
川。
平地。
そして、草木の茂る低い場所。
マゴンが尋ねた。
「ここを使うのか?」
ハンニバルは頷いた。
「そうだ」
「兵を隠すには、少し狭くないか?」
「人数を絞れば問題ありません」
俺は地図を見た。
「……伏兵?」
ハンニバルは笑った。
「はい」
そして、マゴンへ命令した。
「選抜した兵を率いて、夜のうちに隠れてください」
マゴンは頷いた。
「任せろ」
俺は、その様子を見つめていた。
本来の歴史では、トレビアの戦いでマゴン率いる伏兵が重要な役割を果たす。
ハンニバルは、ローマ軍を川の向こうから誘い出し、正面から攻撃した。
そして、隠れていた部隊が背後を突いた。
俺は、その戦いを知っている。
だが。
実際に目の前で準備が進んでいると、不思議な気分だった。
「……本当に、歴史の中にいるんだな」
メルカルが尋ねた。
「何か言いました?」
俺は首を振った。
「何でもない」
翌朝。
まだ薄暗い時間。
ハンニバルはヌミディア騎兵を集めた。
「ローマ軍の陣地へ接近し、敵を挑発しろ」
騎兵たちが頷いた。
「はっ!」
「ただし、無理に戦うな」
「はっ!」
「敵が追ってきたら、こちらへ誘導する」
騎兵たちは笑った。
「任せてください!」
そして、馬を走らせた。
ローマ軍の陣地。
センプロニウスは、カルタゴ騎兵の接近を知った。
「敵が来たのか!」
将校が答えた。
「はい!」
「兵力は?」
「少数の騎兵です!」
センプロニウスは立ち上がった。
「追い払え!」
ローマ騎兵が出撃した。
だが、ヌミディア騎兵は戦わずに後退した。
ローマ騎兵は追撃する。
すると、ヌミディア騎兵は再び接近した。
矢や投槍を放つ。
そして、また後退する。
ローマ軍は苛立った。
「逃げるな!」
だが、ヌミディア騎兵は逃げ続けた。
やがて。
センプロニウスは、全軍へ出撃を命じた。
ローマ兵たちは、急いで武器を取った。
十分な朝食を取る時間もなかった。
そして、カルタゴ軍を追って進軍した。
俺は、その報告を聞いて息を吐いた。
「……来たか」
メルカルが尋ねた。
「本当に来るんですか?」
俺は頷いた。
「うん」
そして、補給部隊へ命令した。
「食事の配布を急いで!」
カルタゴ軍の陣地では、温かい粥が配られていた。
兵士たちは、湯気の立つ器を手にしていた。
「……うまい」
「温まるな」
「これなら戦えそうだ」
俺は、その様子を見て少し安心した。
メルカルが尋ねた。
「これで勝てますか?」
俺は答えた。
「朝食だけで勝てるわけじゃないよ」
「……」
「でも、空腹よりはずっといい」
やがて。
ローマ軍がトレビア川へ到着した。
冬の川。
冷たい水。
兵士たちは、武器を持ったまま川へ入った。
水は腰のあたりまで達する場所もあった。
足元は滑りやすい。
流れもある。
そして、寒さが体力を奪う。
俺は遠くから、その様子を見ていた。
「……本当に渡ってきた」
メルカルが呟いた。
「……寒そうですね」
俺は頷いた。
「うん」
ローマ軍は、川を渡り終えた。
だが、兵士たちは疲れていた。
衣服は濡れている。
体は冷えている。
しかも、朝食も十分に取っていない。
その前に。
カルタゴ軍が待ち構えていた。
ハンニバルは馬上から、ローマ軍を見つめた。
そして、静かに命令した。
「全軍、前進」
カルタゴ軍の歩兵が進む。
騎兵が左右へ展開する。
そして、戦象が前へ出た。
ローマ軍も陣形を整えた。
センプロニウスは叫んだ。
「前進!」
両軍が接近する。
槍が突き出される。
盾がぶつかる。
兵士たちの叫び声が響く。
戦いが始まった。
俺は後方の補給拠点で、伝令を待っていた。
メルカルが落ち着かない様子で歩いている。
「……大丈夫でしょうか」
俺は答えた。
「分からない」
「またそれですか!」
俺は苦笑した。
「戦場のことは、ハンニバルに任せるしかないからね」
しばらくして。
最初の伝令が到着した。
「アドン殿!」
俺は立ち上がった。
「どうなってる!?」
伝令は答えた。
「両軍、激しく交戦中です!」
俺は頷いた。
「騎兵は?」
「カルタゴ騎兵が優勢です!」
俺は息を吐いた。
「……よし」
だが、伝令は続けた。
「ただし、ローマ軍の中央は強いです!」
俺は眉をひそめた。
「……やっぱり」
ローマ軍の中央には、重装歩兵がいた。
訓練された兵士たちだ。
彼らは盾を構え、槍を突き出しながら前進していた。
カルタゴ軍の中央は、少しずつ押され始めた。
だが。
ハンニバルは慌てなかった。
「左右を押し込め!」
騎兵が動く。
ローマ軍の側面が攻撃される。
さらに、戦象が敵の陣形を乱した。
ローマ軍は混乱した。
そして。
戦場の後方。
草木の茂る低地から、兵士たちが姿を現した。
マゴン率いる伏兵だった。
「今だ!」
マゴンが叫んだ。
兵士たちが突撃した。
ローマ軍の背後へ。
突然の攻撃。
ローマ兵たちは驚いた。
「敵が後ろにいる!」
「伏兵だ!」
陣形が乱れる。
前にはカルタゴ軍。
左右には騎兵。
そして、後ろには伏兵。
ローマ軍は包囲され始めた。
俺のところへ、二人目の伝令が到着した。
「アドン殿!」
「どうなった!?」
伝令は笑った。
「伏兵が成功しました!」
俺は息を吐いた。
「……よし!」
メルカルが叫んだ。
「勝てるんですか!?」
俺は答えた。
「まだ分からない!」
だが、俺の心の中では、確信が強くなっていた。
本来の歴史と同じだ。
ハンニバルは、トレビアで勝つ。
戦場では、ローマ軍の一部が必死に抵抗していた。
重装歩兵たちは陣形を維持し、カルタゴ軍の中央を突破しようとした。
ハンニバルは、その動きを見ていた。
「……中央を抜くつもりか」
将校が尋ねた。
「追いますか?」
ハンニバルは首を振った。
「無理に追うな」
「……?」
「逃げ道を求める敵を、こちらの兵士まで犠牲にして止める必要はない」
将校は頷いた。
「承知しました」
一部のローマ兵は包囲を突破した。
だが、多くの兵士は戦場に取り残された。
そして、ローマ軍は敗北した。
夕方。
勝利の知らせが届いた。
「カルタゴ軍、勝利!」
兵士たちが歓声を上げた。
俺は息を吐いた。
「……勝った」
メルカルが笑った。
「また勝ちましたね!」
俺は頷いた。
「うん」
だが。
俺はすぐに、補給記録を確認した。
メルカルが尋ねた。
「……何をしているんですか?」
俺は答えた。
「戦いが終わったあとの準備だよ」
「……?」
俺は続けた。
「負傷者の治療」
「……」
「食料の補充」
「……」
「馬の手当て」
そして、言った。
「次の戦いの準備」
メルカルは呆れた顔をした。
「……勝ったばかりなのに」
俺は答えた。
「ローマは、これで諦めないからね」
その夜。
ハンニバルが帰還した。
兵士たちは歓声を上げた。
「ハンニバル!」
「ハンニバル!」
俺は、その姿を見つめていた。
ハンニバルは俺のところへ来た。
「アドン」
「おかえり」
「勝ちました」
俺は笑った。
「知ってるよ」
ハンニバルは頷いた。
「温かい朝食は、兵士たちに好評でした」
俺は少し笑った。
「それはよかった」
ハンニバルは続けた。
「ですが、次はもっと大きな戦いになるでしょう」
俺は頷いた。
「そうだね」
翌日。
周辺のガリア系部族から、使者が訪れ始めた。
ローマ軍が敗れたという知らせは、すでに広がっていた。
ある部族は、カルタゴ軍への食料供給を申し出た。
別の部族は、騎兵の派遣を提案した。
さらに、ローマへの反発を強めていた部族もいた。
俺は、その報告を聞いて地図を広げた。
「……今が重要だな」
メルカルが尋ねた。
「何がですか?」
俺は答えた。
「ローマ軍に勝ったことより、その勝利をどう使うかだよ」
俺はハンニバルへ提案した。
「今のうちに、協力する部族との契約を整えたい」
ハンニバルは頷いた。
「お願いします」
俺は続けた。
「食料だけじゃない」
「……?」
「兵士の派遣、道路の利用、負傷者の保護、交易の継続」
ハンニバルは頷いた。
「重要ですね」
俺は答えた。
「うん」
そして、地図のローマを指差した。
「ローマが同盟都市から兵士を集めるなら、こちらも味方を増やす」
ハンニバルは笑った。
「アドンらしい戦い方ですね」
俺は肩をすくめた。
「俺は商人だからね」
だが。
その日の夕方。
新しい報告が届いた。
ローマ元老院が、次の軍隊の編成を始めたという。
俺は報告書を見つめた。
「……やっぱり」
メルカルが尋ねた。
「また軍隊ですか?」
俺は頷いた。
「そう」
「……何回負ければ諦めるんですか?」
俺は答えた。
「たぶん、普通に負け続けるだけじゃ諦めない」
メルカルは頭を抱えた。
「……恐ろしい国ですね」
俺は頷いた。
「本当にね」
その夜。
俺は一人で、地図を見つめていた。
ティキヌス。
トレビア。
二つの勝利。
だが、ローマはまだ戦争を続ける。
次は、紀元前217年。
トラシメヌス湖畔の戦い。
そして、その翌年にはカンナエの戦いが待っている。
俺は拳を握った。
「……ここからが本番だ」
本来の歴史では、ハンニバルは勝ち続けた。
それでも、カルタゴは最後に敗れた。
だからこそ俺は、戦場の勝利を政治的な勝利へ変えなければならない。
ローマの同盟都市を離反させる。
補給路を維持する。
援軍を確保する。
そして、ヌミディアとの関係を守る。
俺は地図を見つめた。
「……ザマまで、あと十六年か」
その長い戦争を、今度こそカルタゴの勝利で終わらせる。
だがそのときメルカルが部屋へ駆け込んできた。
「アドン殿!」
俺は顔を上げた。
「どうした?」
メルカルは叫んだ。
「ローマの同盟都市から、使者が来ています!」
俺は立ち上がった。
「……どこの都市?」
メルカルは答えた。
「名前は明かせないそうです!」
「……?」
「ただし、重要な話があると!」
俺は眉をひそめた。
「何の話?」
メルカルは答えた。
「ローマから離反する条件について、交渉したいそうです!」
俺は息を呑んだ。
「……ついに来たか」
そして、心の中で呟いた。
ハンニバルが戦場で勝つ。
俺は、その勝利を使ってローマの同盟を崩す。
そのための最初の機会が、ようやく訪れた。
だが、その使者が提示した条件は、俺の想像をはるかに超えるものだった。




