第四十九話 アルプスを越えた先で食料を受け取るはずが、ローマに全部買い占められていた
紀元前218年。
ハンニバル率いるカルタゴ軍は、アルプス越えの最終段階に入っていた。
雪。
寒さ。
険しい山道。
そして、山岳部族による襲撃。
長年の準備をしていても、山越えは簡単ではなかった。
だが、ようやくイタリア側の谷が見え始めていた。
問題は、その先だ。
俺は手元の契約書を確認した。
「……食料は用意されているはずなんだけどな」
隣にいたメルカルが尋ねた。
「何が心配なんですか?」
「ローマだよ」
「またローマですか?」
「そう。
またローマ」
俺は地図を広げた。
アルプスの南側。
ポー川流域。
そこには、ローマの支配に反発するガリア系部族が暮らしている。
その一つが、タウリニ族だった。
俺は数年前から、タウリニ族の商人たちと交易を続けていた。
穀物。
塩。
布。
鉄製品。
馬。
そして、家畜。
取引を重ね、軍隊が通過する場合の食料供給についても協議していた。
だが、実際に軍隊が来るとなれば話は別だ。
約束が守られるとは限らない。
俺は契約書を丸めた。
「……直接、確認するしかないな」
俺はハンニバルのところへ向かった。
ハンニバルは、山岳案内人と地図を確認していた。
「アドン」
「ハンニバル。
少し相談がある」
「何でしょう?」
俺はイタリア側の谷を指差した。
「先に集落へ行って、食料の受け渡しを確認したい」
ハンニバルは眉をひそめた。
「危険ですよ」
「分かってる」
「ローマの使者もいると聞いています」
「だからこそ、早く行きたいんだ」
ハンニバルは少し考えた。
そして、近くにいた将校へ命令した。
「護衛を十人つけろ」
俺は首を振った。
「そんなに大勢で行くと、軍隊の使者だと警戒される」
「では、何人なら?」
「五人でいい」
ハンニバルは即座に答えた。
「八人です」
「……七人」
「八人」
俺はため息をついた。
「分かった。
八人で」
ハンニバルは笑った。
「交渉成立ですね」
……誰に似たんだろう。
翌朝。
俺はメルカルと護衛八人を連れ、山の南側へ向かった。
本隊は、まだ山道の修復と荷物の移動を続けている。
俺たちは案内人に従い、比較的通りやすい道を進んだ。
しばらくすると、雪が少なくなった。
岩ばかりだった斜面に、草が見え始める。
さらに進むと、木々が増えた。
俺は思わず立ち止まった。
「……緑だ」
メルカルも周囲を見た。
「本当に、山を越えたんですね」
「まだ本隊は越え切っていないけどね」
「でも、暖かいです」
俺は頷いた。
寒さで痛んでいた指先が、少しずつ動くようになっていた。
だが、安心するには早かった。
山の向こうには、ローマとの戦争が待っている。
昼過ぎ。
俺たちはタウリニ族の集落へ到着した。
木製の柵。
見張り台。
家畜小屋。
そして、広場には商人たちが集まっていた。
俺は見覚えのある男を探した。
「……いた」
広場の端に、一人の商人が立っていた。
名をブレンノという。
以前から取引を続けているタウリニ族の商人だ。
俺は声をかけた。
「ブレンノ!」
男が振り返った。
そして、目を見開いた。
「アドン!?」
「久しぶり」
「本当に来たのか!」
ブレンノは俺の肩を掴んだ。
「噂は聞いていたが、まさか本当にアルプスを越えてくるとは!」
俺は笑った。
「俺だって、できれば船で来たかったよ」
ブレンノは笑いかけた。
だが、すぐに表情を曇らせた。
「……まずいことになっている」
俺は嫌な予感がした。
「食料のこと?」
ブレンノは頷いた。
「そうだ」
俺たちはブレンノの家へ案内された。
中には、穀物の袋がいくつか積まれていた。
だが、数が少ない。
俺は尋ねた。
「契約していた穀物は?」
ブレンノは答えた。
「……ほとんど残っていない」
俺は固まった。
「何?」
「ローマの商人が来たんだ」
「……」
「大量の銀貨を持ってな」
俺は眉をひそめた。
ブレンノは続けた。
「この地域の穀物を、次々と買い集めている」
「……いくらで?」
「普段の倍以上だ」
俺は思わず声を上げた。
「倍!?」
ブレンノは頷いた。
「農民たちは喜んで売った」
俺は頭を抱えた。
……やられた。
ローマは、軍隊を動かす前に市場を動かしていた。
メルカルが尋ねた。
「でも、契約があったはずですよね?」
俺は契約書を取り出した。
「そうだ」
ブレンノは申し訳なさそうに答えた。
「俺が預かっていた分は残してある。
だが、ほかの村から集める予定だった穀物が手に入らなくなった」
俺は契約書を確認した。
確かに、ブレンノ個人が保管する分と、周辺の村から追加購入する分は別になっていた。
ブレンノは続けた。
「しかも、ローマの使者が族長へ会いに来ている」
俺は顔を上げた。
「何のために?」
ブレンノは答えた。
「カルタゴ軍へ食料を売るな、と」
俺は椅子に座った。
そして、考えた。
ローマは賢い。
軍隊を送って戦うより、食料を買い占める方が安い場合もある。
しかも、農民たちは儲かる。
ローマ側にとっても、カルタゴ軍の補給を妨害できる。
一石二鳥だ。
メルカルが尋ねた。
「どうするんですか?」
俺は答えた。
「まず、族長に会う」
ブレンノは首を振った。
「難しいぞ」
「なぜ?」
「ローマの使者が、今も族長と交渉している」
俺は頷いた。
「だったら、ちょうどいい」
ブレンノが驚いた。
「何が?」
俺は答えた。
「ローマの使者にも、話を聞いてもらおう」
夕方。
俺はタウリニ族の族長と面会することになった。
大きな木造の建物。
中央には炉があり、火が燃えている。
壁には盾や槍が飾られていた。
族長は、年配の男だった。
名をアリクスという。
俺は頭を下げた。
「お久しぶりです」
アリクスは俺を見た。
「アドンか」
「はい」
「本当にカルタゴ軍が山を越えてきたのだな」
俺は頷いた。
「まもなく本隊も到着します」
アリクスは険しい顔をした。
「……困ったことになった」
俺は尋ねた。
「ローマから、何か言われましたか?」
族長は答えなかった。
代わりに、隣に座っていた男が口を開いた。
「それは、私から説明しましょう」
俺は振り返った。
赤い縁取りの衣服。
整えられた髪。
そして、落ち着いた表情。
ローマの使者だった。
「私はルキウス・ファビウス」
男は名乗った。
「ローマの利益を代表して、この地へ来ています」
俺は頭を下げた。
「カルタゴの商人、アドンです」
ファビウスは薄く笑った。
「噂は聞いています」
「そうですか」
「カルタゴ軍の補給を担当しているとか」
俺は答えた。
「商売をしているだけですよ」
ファビウスは笑った。
「三万人の軍隊へ食料を売る商売ですか」
俺は肩をすくめた。
「大口のお客様ですから」
族長のアリクスが咳払いした。
「二人とも、争うなら外でやってくれ」
俺は頭を下げた。
「失礼しました」
ファビウスは族長へ向き直った。
「ローマは、タウリニ族との平和を望んでいます」
アリクスは黙っていた。
ファビウスは続けた。
「カルタゴ軍へ食料を渡さなければ、ローマは敵対行為と見なしません」
俺は眉をひそめた。
「つまり、渡せば敵だと?」
ファビウスは答えた。
「ローマと戦う軍隊を助けるのですから、当然でしょう」
俺は族長を見た。
アリクスは険しい顔をしている。
ローマの圧力。
カルタゴとの契約。
どちらを選んでも危険だ。
俺は考えた。
ここで脅しても意味がない。
ローマより多く銀貨を積んでも、問題は解決しない。
必要なのは、別の選択肢だ。
俺は族長へ尋ねた。
「アリクス殿」
「何だ?」
「ローマは、穀物を高値で買っているそうですね」
「そうだ」
「その穀物は、どこへ運ぶのですか?」
アリクスはファビウスを見た。
ファビウスが答えた。
「ローマ側の倉庫です」
俺は頷いた。
「では、来年も同じ値段で買うんですか?」
ファビウスの表情が変わった。
「……何?」
俺は続けた。
「再来年は?」
「……」
「五年後は?」
ファビウスは答えた。
「その時の市場価格によります」
俺は族長へ向き直った。
「つまり、今年だけ高く買うということです」
ファビウスが口を挟んだ。
「そんなことは言っていない!」
俺は答えた。
「では、五年間の購入契約を結べますか?」
ファビウスは黙った。
俺は鞄から書類を取り出した。
「こちらは、カルタゴ側が提案する交易契約です」
アリクスが眉を上げた。
「交易契約?」
「はい」
俺は説明した。
「穀物を毎年一定量購入します」
「……」
「価格は、最低保証価格を設けます」
「……」
「豊作なら追加購入します」
アリクスが尋ねた。
「不作なら?」
俺は答えた。
「無理に買い上げません。
まず、この土地の人々が食べる分を確保します」
族長は少し驚いた。
「……我々の食料を優先するのか?」
「当然です」
俺は続けた。
「村が飢えれば、翌年の取引もできなくなりますから」
ブレンノが笑った。
「こいつは昔から、そういう商売をする」
ファビウスが口を開いた。
「だが、カルタゴ軍は略奪するかもしれんぞ」
俺は答えた。
「それについても、契約に書きます」
「……何?」
俺は別の書類を取り出した。
「カルタゴ軍は、協力する村の穀物を無断で持ち出さない」
「……」
「購入する場合は、決められた価格で支払う」
「……」
「兵士が略奪した場合は、軍が調査し、被害を補償する」
アリクスが身を乗り出した。
「本当に守れるのか?」
俺は答えた。
「ハンニバル将軍の承認を得る必要がありますが、軍の正式な命令として発布するよう提案します」
ファビウスが笑った。
「そんなもの、紙切れにすぎん」
俺は頷いた。
「そのとおりです」
ファビウスが驚いた。
「……何?」
俺は続けた。
「契約書だけでは信用できません」
そして、族長を見た。
「だから、保証金を預けます」
「保証金?」
アリクスが尋ねた。
俺は頷いた。
「はい」
「いくらだ?」
俺は答えた。
「まず、銀貨五千枚」
部屋が静かになった。
ブレンノが目を見開いた。
「……五千枚!?」
俺は頷いた。
「ただし、族長個人へ渡す金ではありません」
アリクスが尋ねた。
「どういうことだ?」
俺は説明した。
「部族の代表者たちが管理する共同の保管所へ預けます」
「……」
「カルタゴ軍が契約を破り、損害を与えた場合は、そこから補償します」
「……」
「何も問題がなければ、交易代金の支払いに充てるか、契約終了時に返還してもらいます」
アリクスは考え込んだ。
ファビウスは眉をひそめた。
俺は続けた。
「一度だけ銀貨を渡すのではなく、長く取引を続けるための仕組みです」
アリクスが尋ねた。
「だが、ローマが攻めてきたら?」
俺は答えた。
「カルタゴ軍が協力します」
ファビウスが笑った。
「アルプスを越えて疲れ切った軍隊が、ローマ軍に勝てるとでも?」
俺は答えなかった。
代わりに、族長へ尋ねた。
「アリクス殿」
「何だ?」
「ローマは、タウリニ族の自治をどこまで認めていますか?」
族長の表情が変わった。
「……」
俺は続けた。
「ローマの命令に従わなければ、軍隊を送ると言われているのではありませんか?」
ファビウスが立ち上がった。
「無礼だぞ!」
俺は落ち着いて答えた。
「確認しているだけです」
族長は、しばらく黙っていた。
そして口を開いた。
「……ローマは、我々に人質を要求している」
俺は顔を上げた。
「人質?」
アリクスは頷いた。
「カルタゴ軍へ協力しない証拠として、族長の一族から若者を差し出せと言ってきた」
俺はファビウスを見た。
ファビウスは表情を変えなかった。
「同盟の誠意を示していただくだけです」
俺は答えた。
「誠意を示すために、人質が必要なんですか?」
「ローマにはローマのやり方がある」
俺は族長へ向き直った。
「カルタゴは、人質を要求しません」
アリクスが俺を見た。
「本当か?」
「はい」
俺は続けた。
「ただし、契約を守っていただく必要はあります」
族長は黙った。
長い沈黙が続いた。
やがて、アリクスが尋ねた。
「アドン」
「はい」
「お前は、我々にローマと戦えと言うのか?」
俺は首を振った。
「今すぐ戦ってほしいとは言いません」
「……」
「まず、カルタゴ軍が山を越えてくるまで、食料を確保してほしいんです」
アリクスは考え込んだ。
俺は続けた。
「そして、カルタゴ軍が到着したあと、実際に兵士たちの様子を見て判断してください」
「……」
「略奪する軍隊なのか、約束を守る軍隊なのか」
俺は族長を見た。
「それを確認してから、協力するかどうか決めていただいて構いません」
ファビウスが口を開いた。
「つまり、今すぐローマとの関係を断てとは言わないのか?」
俺は答えた。
「はい」
「……なぜだ?」
俺は答えた。
「無理に味方にしても、長続きしないからです」
ファビウスは黙った。
俺は続けた。
「俺たちは、ローマよりもよい条件を示すつもりです」
「……」
「それを選ぶかどうかは、この土地の人々が決めることです」
アリクスは、しばらく俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
俺は顔を上げた。
族長は続けた。
「カルタゴ軍へ渡す予定だった食料は、売らずに残しておこう」
俺は息を吐いた。
「ありがとうございます」
だが、アリクスは指を立てた。
「ただし、条件がある」
「何でしょう?」
「カルタゴ軍が村を略奪したら、その時点で協力は終わりだ」
俺は頷いた。
「承知しました」
交渉が終わったあと。
俺はブレンノと一緒に倉庫へ向かった。
「……助かったよ」
ブレンノが言った。
俺は答えた。
「まだ助かってないよ」
「どういうことだ?」
「食料が足りない」
ブレンノは頷いた。
「確かに」
俺は倉庫を見た。
残っている穀物は、予定の半分にも満たない。
これでは、山を越えてきた軍隊を十分に養えない。
俺は尋ねた。
「ローマが買い集めた穀物は、もう運び出された?」
ブレンノは首を振った。
「いや、まだだ」
俺は顔を上げた。
「どこにある?」
ブレンノは答えた。
「村の外にある、大きな倉庫だ」
俺は少し考えた。
「……見に行こう」
倉庫は、村から少し離れた場所にあった。
木製の建物。
周囲には荷車が並んでいる。
見張りもいた。
俺は遠くから様子を確認した。
「……かなりあるな」
メルカルが頷いた。
「はい」
ブレンノが言った。
「この地域で集めた穀物の大半が、あそこにある」
俺は考えた。
ローマは穀物を買い占めた。
だが、まだ運び出していない。
つまり、この土地には、食料そのものは残っている。
問題は、所有者だ。
俺は呟いた。
「……買い戻せないかな」
メルカルが驚いた。
「ローマからですか?」
俺は頷いた。
「そう」
「売ってくれるわけがありませんよ!」
俺は答えた。
「普通ならね」
俺はブレンノへ尋ねた。
「ローマの商人は、誰?」
ブレンノは答えた。
「ガイウスという男だ」
「ローマ政府の役人?」
「いや、民間の商人だ」
俺は顔を上げた。
「……民間?」
ブレンノは頷いた。
「ローマ側から資金を借りて、穀物を買い集めているらしい」
俺は考えた。
民間の商人。
つまり、利益を出さなければならない。
俺は少し笑った。
「……ほう」
メルカルが嫌な顔をした。
「アドン殿、その顔は何か考えていますね」
俺は答えた。
「商売の話をしようと思って」
翌朝。
俺はガイウスというローマ商人を訪ねた。
男は倉庫の前で、荷車への積み込みを指示していた。
「失礼します」
ガイウスが振り返った。
「何だ?」
「カルタゴの商人、アドンと申します」
ガイウスの表情が変わった。
「……カルタゴ?」
俺は頷いた。
「はい」
「何の用だ?」
俺は倉庫を指差した。
「穀物を売っていただけませんか?」
ガイウスは、しばらく俺を見つめた。
そして、大声で笑った。
「はははは!」
俺は黙っていた。
ガイウスは続けた。
「カルタゴ軍に食わせないために買った穀物を、カルタゴ人に売れというのか?」
俺は答えた。
「はい」
ガイウスは首を振った。
「馬鹿な話だ」
俺は頷いた。
「そうですね」
そして続けた。
「では、別の商売をしましょう」
ガイウスが眉をひそめた。
「別の商売?」
俺は答えた。
「穀物の輸送を引き受けます」
「……何?」
「ローマ側の倉庫まで、運んで差し上げます」
ガイウスは驚いた。
「カルタゴ人が?」
俺は頷いた。
「はい」
「信用できると思うか?」
俺は答えた。
「信用できないなら、契約しなければいいだけです」
ガイウスは黙った。
俺は続けた。
「ただし、今の輸送状況を見る限り、かなり困っているようですね」
ガイウスの表情が変わった。
俺は荷車を指差した。
「荷車が足りない」
「……」
「馬も足りない」
「……」
「しかも、カルタゴ軍が近づいている」
ガイウスは黙った。
俺は続けた。
「このままだと、穀物を運び出す前に軍隊が到着するかもしれません」
ガイウスは俺を睨んだ。
「脅しているのか?」
俺は首を振った。
「いいえ」
そして続けた。
「商売の話です」
ガイウスは黙った。
俺は提案した。
「穀物の一部を、輸送費としていただければ、残りを運びます」
ガイウスが眉をひそめた。
「……一部?」
「はい」
俺は答えた。
「運び出せずに全部失うより、少し払ってでも確実に運ぶ方が得ではありませんか?」
ガイウスは考え込んだ。
俺は続けた。
「もちろん、荷車と人員はこちらで用意します」
ガイウスは尋ねた。
「どれくらい欲しい?」
俺は答えた。
「三割です」
ガイウスが叫んだ。
「高すぎる!」
俺は肩をすくめた。
「では、二割五分で」
「まだ高い!」
「二割」
ガイウスは黙った。
俺は笑った。
「これ以上は難しいですね」
長い交渉の末。
ガイウスは、穀物の一部を輸送費として渡すことに同意した。
ただし、ローマ側の指定した集積所まで残りを運ぶことが条件だった。
俺は契約書を作成した。
メルカルが小声で尋ねた。
「……本当に運ぶんですか?」
俺は頷いた。
「もちろん」
「敵の食料ですよ?」
俺は答えた。
「契約したからね」
メルカルは頭を抱えた。
「……分かりません」
俺は少し笑った。
「商売は信用が大事なんだよ」
数日後。
俺たちは穀物の輸送を開始した。
ローマ商人の穀物を、指定された集積所へ運ぶ。
そして、契約どおり輸送費として受け取った穀物を、カルタゴ軍の補給拠点へ運ぶ。
メルカルが記録を確認した。
「……確かに食料が増えました」
俺は頷いた。
「そうだね」
「でも、ローマ側にも食料を運んでいますよ?」
俺は答えた。
「そうだよ」
メルカルは首をかしげた。
「……それでいいんですか?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「今は、軍隊を飢えさせないことが最優先だからね」
だが、その日の夕方。
俺たちのところへ、ブレンノが駆け込んできた。
「アドン!」
「どうした?」
ブレンノは息を切らしていた。
「ローマ軍が来る!」
俺は顔を上げた。
「……何?」
「先遣部隊だ!」
「何人?」
ブレンノは答えた。
「数百人!」
俺は眉をひそめた。
「……早いな」
ブレンノは続けた。
「しかも、族長へ要求している!」
「何を?」
ブレンノは答えた。
「カルタゴ軍へ食料を渡した者を、引き渡せと!」
俺は動きを止めた。
「……誰を?」
ブレンノは俺を見た。
そして、震える声で答えた。
「……お前だ」
俺は、しばらく黙っていた。
メルカルが叫んだ。
「アドン殿! 逃げましょう!」
俺は首を振った。
「まだだ」
「何を言っているんですか!」
俺は地図を広げた。
ローマ軍。
タウリニ族。
カルタゴ軍。
そして、アルプス。
俺は考えた。
ハンニバルの本隊は、まもなく山を越えてくる。
だが、今ここでローマ軍が食料を押さえれば、カルタゴ軍は危険な状態になる。
俺は静かに呟いた。
「……もう少し時間が必要だ」
メルカルが尋ねた。
「どうするんですか?」
俺は答えた。
「交渉する」
メルカルは目を見開いた。
「またですか!?」
俺は頷いた。
「そう。
まただよ」
そして、窓の外を見た。
遠くに、ローマ軍の旗が見え始めていた。
俺は息を吐いた。
「……今度は、軍隊が相手か」
そのとき。
集落の入口から、大きな角笛の音が響いた。
ローマ軍が到着したのだ。
そして、俺を引き渡さなければ、集落を攻撃する。
ローマ軍の指揮官は、そう宣告した。
俺は契約書を握りしめた。
「……ローマは、本当に約束を守らせるのが嫌いらしいな」
だが、このときの俺には、まだ知る由もなかった。
ローマ軍の指揮官が、単に俺を捕まえるためだけに来たのではないことを。
彼らの本当の目的は、ハンニバルの軍隊がアルプスを越えた直後に、食料を断って壊滅させることだった。




