第四十五話 ローマ艦隊が交易路を封鎖してきたので、商船を使って海戦に勝つことになった
カルタゴは、海の国だ。
少なくとも、俺が知る歴史ではそうだった。
北アフリカに築かれた港湾都市。
地中海を行き交う商船。
各地に設けられた交易拠点。
そして、巨大な軍港。
カルタゴの富は、海から生まれていた。
だが。
海を支配しているからといって、必ず海戦に勝てるわけではない。
第一次ポエニ戦争。
カルタゴはローマと海上で争い、敗北した。
シチリアを失い、多額の賠償金を支払うことになった。
ローマは、海戦の経験が少ない国家ではなくなっていた。
そして今。
そのローマが、再び艦隊を動かし始めていた。
「……ローマ艦隊、四十隻?」
俺は報告書を見つめた。
メルカルが頷いた。
「はい」
「全部、軍船なのか?」
「確認できた範囲では、三十隻ほどが大型の軍船です。
残りは小型船や輸送船だそうです」
俺は深く息を吐いた。
「……思ったより早いな」
ローマ軍は、陸上で敗北した。
ハミルカル将軍の指揮によって、一万二千の軍勢が撃退されたのだ。
だが、ローマはそこで戦争をやめなかった。
今度は海から、カルタゴ軍の補給路を脅かそうとしている。
俺は地図を広げた。
ヒスパニア東岸。
港。
交易路。
そして、カルタゴ軍の補給拠点。
「……ここを止められたら、困るな」
メルカルが尋ねた。
「そんなに重要なんですか?」
俺は頷いた。
「陸路だけで軍を養うのは大変だからね」
軍隊が必要とする物資は、食料だけではない。
武器。
盾。
馬具。
衣服。
医療用の布。
船を修理する木材。
そして、兵士へ支払う銀貨。
これらをすべて陸路で運ぶには、大量の荷車が必要になる。
だが、船なら一度に大量の物資を運べる。
もちろん、海には海の危険がある。
嵐。
浅瀬。
海賊。
そして、敵の軍船。
俺は静かに呟いた。
「……ローマは、そこを狙ってきたか」
翌朝。
俺はハミルカル将軍の幕舎を訪ねた。
将軍は、すでに報告を受けていた。
「アドン」
「将軍」
俺は頭を下げた。
「ローマ艦隊について、確認したいことがあります」
ハミルカルは頷いた。
「聞こう」
俺は地図を広げた。
「ローマ艦隊は、どの港を狙っていますか?」
将軍は海岸沿いの一点を指差した。
「この港だ」
俺は眉をひそめた。
「……ここですか」
小さな湾。
その奥には、交易港がある。
大型の軍船が何十隻も停泊できるほど大きな港ではない。
だが、カルタゴ軍へ物資を送るには重要な場所だった。
ハミルカルは続けた。
「敵は港を攻めるというより、出入りする船を止めるつもりらしい」
俺は頷いた。
「……海上封鎖ですね」
マゴンが尋ねた。
「海軍は、いつ到着しますか?」
ハミルカルは答えた。
「本国からの艦隊は、まだ集結中だ」
俺は顔を上げた。
「……まだですか?」
将軍は頷いた。
「そうだ」
つまり、ローマ艦隊は、すでに近づいている。
だが、カルタゴの主力艦隊は、まだ到着していない。
俺は深く息を吐いた。
「……まずいですね」
ハミルカルは頷いた。
「だからこそ、先に補給を確保する必要がある」
俺は尋ねた。
「港にある食料は、何日分ですか?」
アズルバルが記録を開いた。
「現在の軍全体を維持するなら、およそ十日分です」
俺は頷いた。
「……十日」
「ただし、陸路からも一部は届きます」
「それでも、海上輸送が止まれば厳しいですね」
アズルバルは頷いた。
「はい」
俺は少し考えた。
そして、静かに言った。
「……では、船を分けましょう」
ハミルカルが俺を見た。
「船を分ける?」
「はい」
俺は地図を指差した。
「現在、補給船は大きな港へ集中しています」
将軍は頷いた。
「そうだ」
「ですが、ローマ艦隊がその港を封鎖すれば、船は入れなくなります」
「……」
「ならば、すべての物資を同じ港へ運ぶ必要はありません」
俺は続けた。
「沿岸の小さな港や入り江を使い、物資を分散して陸揚げします」
マゴンが眉をひそめた。
「だが、小さな港では大型船が入れんぞ」
俺は頷いた。
「そのとおりです」
そして答えた。
「大型船から小型船へ積み替えます」
アズルバルが尋ねた。
「小型船は、どこから集めるのですか?」
俺は答えた。
「沿岸の商人たちです」
「……商船を?」
「はい」
俺は頷いた。
「ただし、軍が勝手に徴発するのではなく、正式な契約を結びます」
ハミルカルは頷いた。
「それなら問題ない」
俺は続けた。
「輸送量に応じて運賃を支払い、船を失った場合の補償も決めます」
アズルバルが頷いた。
「ほう」
俺は静かに言った。
「商人は、利益が見込めれば協力してくれます」
だが、ハミルカルはすぐに尋ねた。
「ローマ艦隊に見つかったら?」
俺は答えた。
「逃げます」
マゴンが少し笑った。
「簡単に言うな」
俺は首を振った。
「商船で軍船と戦うつもりはありません」
そして続けた。
「重要なのは、敵にすべての船を一度に捕まえさせないことです」
ハミルカルは頷いた。
「……ほう」
俺は地図を指差した。
「港を一つ封鎖しても、ほかの場所から物資が届くようにします」
数日後。
沿岸の商人たちが集められた。
ネロンも、その一人だった。
サグントゥムで交易を行う商人で、以前から俺と協力している男だ。
「アドン」
「ネロン」
俺は手を上げた。
「久しぶり」
ネロンは苦笑した。
「久しぶりどころじゃない」
俺は首をかしげた。
「何が?」
ネロンは答えた。
「お前と関わるようになってから、商売がどんどん危険になっている」
俺は少し笑った。
「……それは否定できない」
俺は商人たちへ説明した。
「今回お願いしたいのは、沿岸輸送です」
商人たちが顔を見合わせる。
「ローマ艦隊が来ているんだろう?」
「危険すぎる」
「船を失ったらどうする?」
俺は頷いた。
「当然の心配です」
そして続けた。
「だから、補償を契約に入れます」
商人たちが静かになった。
「船を失った場合は、事前に決めた評価額を基準に補償する」
「……」
「乗組員の負傷についても、一定の補償を行う」
「……」
「そして、危険な航路を強制することはしません」
ネロンが尋ねた。
「運賃は?」
俺は答えた。
「通常より高く設定します」
商人たちが顔を上げた。
「……いくらだ?」
俺は少し笑った。
「そこは交渉しましょう」
交渉は長引いた。
当然だ。
商人たちは命を懸けることになる。
安い運賃では引き受けない。
俺も、それは理解していた。
最終的に、複数の商人が契約に応じた。
小型船。
沿岸輸送船。
漁船を改造した運搬船。
合計、二十数隻。
俺は深く息を吐いた。
「……よし」
メルカルが頷いた。
「集まりましたね」
俺は答えた。
「まだ足りないけど、何もないよりはいい」
その日の夕方。
ローマ艦隊が姿を現した。
沖合に並ぶ軍船。
長い船体。
左右に伸びる櫂。
そして、船首の衝角。
俺は港の見張り台から、その光景を見ていた。
「……本当に来たな」
メルカルが頷いた。
「はい」
ローマ艦隊は、港の入口から少し離れた海域に展開した。
すぐに攻撃してくるわけではない。
だが、港へ出入りする船を監視している。
俺は深く息を吐いた。
「……封鎖が始まった」
翌朝。
最初の被害が出た。
カルタゴ側の商船が、ローマ軍船に停止を命じられた。
商船は逃げようとした。
だが、軍船の方が速かった。
結局、商船は拿捕された。
積んでいた小麦も奪われた。
俺は報告書を見つめた。
「……一隻か」
メルカルが頷いた。
「はい」
俺は尋ねた。
「乗組員は?」
「捕虜になったようです」
俺は深く息を吐いた。
「……そうか」
その日の午後。
俺は輸送計画を変更した。
大型船は、封鎖されている港へ近づけない。
そこで、沿岸の別の港へ向かわせる。
そこから小型船へ積み替える。
そして、陸路で補給拠点へ運ぶ。
俺は地図を指差した。
「この入り江を使います」
メルカルが頷いた。
「はい」
「ただし、敵の軍船が近づいたら出航しない」
「分かりました」
俺は続けた。
「一度に大量の物資を運ぼうとしないこと」
メルカルは頷いた。
「はい」
数日後。
最初の小型船団が出航した。
五隻。
積荷は小麦と干し肉。
目的地は、南側の小さな入り江。
俺は港で見送った。
「……頼むぞ」
ネロンが笑った。
「商売だからな」
俺は頷いた。
「無理はしないでくれ」
ネロンは答えた。
「分かっている」
そして、船は出航した。
翌日。
小型船団は、無事に目的地へ到着した。
俺は報告を聞き、深く息を吐いた。
「……よかった」
メルカルが笑った。
「成功ですね!」
俺は頷いた。
「最初の一回はね」
だが、これを続けなければ意味がない。
ローマ艦隊が気づけば、別の港も監視するだろう。
俺は静かに呟いた。
「……次が問題だな」
予想どおりだった。
三日後。
ローマ艦隊の一部が、南側の入り江へ向かった。
俺は報告を聞き、眉をひそめた。
「……もう見つかったか」
メルカルが頷いた。
「はい」
俺は地図を見た。
「では、別の場所へ移そう」
メルカルが驚いた。
「またですか?」
俺は頷いた。
「そう」
そして続けた。
「敵が追いかけてくるなら、こちらも動けばいい」
だが、ローマ軍も、ただ追いかけているわけではなかった。
数日後。
ローマ艦隊の一部が、カルタゴ側の小型船団を待ち伏せした。
二隻が拿捕された。
一隻は逃げ切った。
残りは、近くの入り江へ退避した。
俺は報告を聞き、拳を握った。
「……くそっ」
メルカルが黙った。
俺は深く息を吐いた。
「……やっぱり、限界があるな」
その夜。
ハミルカル将軍の幕舎で、軍議が開かれた。
将軍は地図を見つめていた。
「ローマ艦隊は、こちらの小型船を狙い始めた」
俺は頷いた。
「はい」
「このままでは、補給が不安定になる」
「そうですね」
マゴンが尋ねた。
「海軍の増援は?」
アズルバルが答えた。
「本国からの艦隊が、まもなく到着する予定です」
ハミルカルは頷いた。
「……よし」
俺は顔を上げた。
「……海戦になるんですか?」
将軍は答えた。
「その可能性が高い」
数日後。
カルタゴ艦隊が到着した。
軍船、三十五隻。
ローマ艦隊より少ない。
だが、熟練した船員たちが乗っている。
俺は港から、その艦隊を見つめていた。
「……すごいな」
メルカルが頷いた。
「はい」
大きな軍船。
整然と並ぶ櫂。
そして、船首に描かれたカルタゴの印。
俺は深く息を吐いた。
「……これがカルタゴ海軍か」
艦隊を率いるのは、アドヘルバルという提督だった。
年配の男。
日に焼けた顔。
鋭い目。
そして、落ち着いた声。
俺はハミルカル将軍の紹介で、提督と会うことになった。
「お前がアドンか」
「はい」
俺は頭を下げた。
「商人だそうだな」
「そうです」
アドヘルバルは頷いた。
「海のことは分かるか?」
俺は少し考えた。
「商船の運航なら、多少は」
提督は笑った。
「軍船のことは?」
俺は正直に答えた。
「専門ではありません」
アドヘルバルは頷いた。
「それでいい」
俺は少し驚いた。
「……いいんですか?」
提督は答えた。
「分からないことを、分かると言う者よりは信用できる」
俺は海図を広げた。
「提督」
「何だ?」
「ローマ艦隊は、この港を封鎖しています」
アドヘルバルは頷いた。
「知っている」
俺は続けた。
「ですが、ローマ艦隊も補給が必要です」
提督が俺を見た。
「……ほう」
「食料も、水も必要です」
「当然だ」
「そして、船を修理するための木材や縄も必要です」
アドヘルバルは頷いた。
「そうだな」
俺は海図を指差した。
「ローマ艦隊の補給船は、こちらの海域を通っています」
提督は地図を見つめた。
「……ほう」
俺は続けた。
「ローマ艦隊そのものを正面から攻撃する必要はありません」
アドヘルバルが尋ねた。
「では?」
俺は答えた。
「補給船を守るために、ローマ艦隊を動かせばいいんです」
提督は少し笑った。
「……商人らしい考えだ」
俺は頷いた。
「そうかもしれません」
翌朝。
カルタゴ艦隊は出航した。
だが、ローマ艦隊へ一直線に向かったわけではない。
まず、南側へ進んだ。
そして、沖合で進路を変えた。
俺は港の見張り台から、その動きを見ていた。
メルカルが尋ねた。
「……どこへ行くんですか?」
俺は答えた。
「敵の補給航路だよ」
メルカルは頷いた。
「ほう」
ローマ艦隊は、カルタゴ艦隊の動きを確認した。
そして、一部の軍船を追跡に向かわせた。
だが、カルタゴ艦隊は逃げなかった。
距離を保ちながら、南へ進む。
ローマ軍船が近づけば、少し離れる。
ローマ軍船が止まれば、こちらも速度を落とす。
俺は報告を聞き、静かに呟いた。
「……誘っているな」
その日の午後。
ローマ艦隊は、さらに多くの軍船を南へ向かわせた。
カルタゴ艦隊が、補給航路を脅かしていると判断したのだ。
だが、その結果。
封鎖していた港の前に残る軍船が減った。
俺は地図を見つめた。
「……今だ」
俺はネロンたち商人へ連絡した。
「準備は?」
ネロンが頷いた。
「できている」
「船は?」
「十二隻」
俺は深く息を吐いた。
「……よし」
今回の目的は、ローマ艦隊と戦うことではない。
封鎖が薄くなった港へ、物資を運び込むことだ。
俺は静かに言った。
「出航しよう」
十二隻の商船が動き始めた。
小麦。
干し肉。
水。
医療用の布。
そして、軍需物資。
船は沿岸を進み、港へ向かった。
だが、途中で、ローマ軍船が二隻現れた。
メルカルが叫んだ。
「……敵です!」
俺は顔を上げた。
ローマ軍船が、こちらへ向かってくる。
俺は拳を握った。
「……くそっ」
商船は、軍船より遅い。
正面から逃げても、追いつかれる可能性が高い。
俺は船長へ尋ねた。
「近くに浅瀬はありますか?」
船長は頷いた。
「ある!」
俺は答えた。
「そこへ向かってください!」
船長が眉をひそめた。
「危険だぞ!」
俺は頷いた。
「分かっています」
そして続けた。
「でも、軍船は大型です」
船長は顔を上げた。
「……ほう」
商船は、浅瀬の近くへ進路を変えた。
大型のローマ軍船は、すぐには追ってこなかった。
座礁を警戒したのだ。
だが、完全に諦めたわけではない。
距離を保ちながら、こちらの動きを見ている。
俺は深く息を吐いた。
「……時間を稼げた」
船長が頷いた。
「そうだな」
そのとき。
沖合から、角笛の音が聞こえた。
俺は顔を上げた。
カルタゴ軍船だった。
三隻。
港の外側から、こちらへ向かってくる。
俺は息を呑んだ。
「……援軍?」
船長が笑った。
「来てくれたか!」
カルタゴ軍船は、ローマ軍船と商船の間へ入った。
ローマ軍船は、すぐに進路を変えた。
三隻のカルタゴ軍船と戦うには、不利だったからだ。
俺は深く息を吐いた。
「……助かった」
夕方。
十二隻の商船は、無事に港へ到着した。
俺は船を降りた。
足が少し震えていた。
メルカルが笑った。
「……成功ですね!」
俺は頷いた。
「うん」
そして続けた。
「でも、もう一度やれと言われたら、ちょっと嫌だな」
メルカルも笑った。
その夜。
カルタゴ艦隊が戻ってきた。
アドヘルバル提督は、ローマ艦隊との大規模な戦闘を避けながら、敵の補給航路を脅かすことに成功していた。
ローマ艦隊は、封鎖を維持するために船を分けざるを得なくなった。
その結果。
港への補給が、一時的に再開された。
俺は提督へ頭を下げた。
「ありがとうございます」
アドヘルバルは頷いた。
「商船が無事に入れたそうだな」
「はい」
提督は少し笑った。
「ならば、今日の目的は達成した」
俺は頷いた。
「そうですね」
だが、提督は続けた。
「ただし、ローマ艦隊はまだ残っている」
俺は顔を上げた。
「……はい」
「次は、こちらの動きを読んでくるだろう」
俺は頷いた。
「そうですね」
提督は静かに言った。
「次は、海戦になるかもしれん」
翌朝。
ローマ艦隊が動いた。
今度は、封鎖を維持するだけではなかった。
カルタゴ艦隊へ向かって、主力が進み始めたのだ。
俺は港の見張り台から、その光景を見ていた。
ローマ軍船。
三十隻以上。
カルタゴ軍船。
三十五隻。
両軍が、海上で向かい合っている。
俺は深く息を吐いた。
「……ついに」
アドヘルバル提督は、艦隊へ命令した。
「全艦、戦闘準備!」
角笛が鳴った。
櫂が動く。
軍船が進む。
ローマ艦隊も、隊列を整え始めた。
俺は息を呑んだ。
「……海戦だ」
だが、そのとき。
見張りの兵士が叫んだ。
「提督!」
アドヘルバルが顔を上げた。
「何だ!」
「ローマ艦隊の後方に、別の船団が見えます!」
俺は眉をひそめた。
「……別の船団?」
見張りの兵士は続けた。
「大型の輸送船です!」
俺は息を呑んだ。
「……補給船?」
アドヘルバルは海図を見た。
そして、静かに言った。
「……敵は、戦闘と補給を同時に行うつもりか」
俺は深く息を吐いた。
ローマ艦隊の主力が、カルタゴ艦隊を引きつける。
その間に、輸送船団が別の港へ向かう。
もし成功すれば、ローマ軍は補給を維持できる。
そして、陸上の戦争も続けられる。
俺は静かに呟いた。
「……敵も、同じことを考えている」
だが、そのときの俺は、まだ知らなかった。
ローマ艦隊の後方に現れた輸送船団が、単なる補給船ではなかったことを。
そして、その船団に――カルタゴの港を攻撃するための兵士と攻城兵器が積まれていたことを。




