第四十四話 ローマ軍一万二千人が攻めてきたので、ハミルカル将軍が平原で迎え撃った
夜明け前。
ヒスパニアの平原には、冷たい風が吹いていた。
遠くには低い丘が連なり、その間を一本の街道が通っている。
街道の先には、カルタゴ軍の補給拠点があった。
そして、その補給拠点を目指して、ローマ軍が進軍していた。
兵力、およそ一万二千。
対するカルタゴ軍は、急いで集結した約九千。
数では、ローマ軍が上回っている。
だが、ハミルカル・バルカ将軍は、少しも慌てていなかった。
「敵は、こちらが平原で戦うと思っている」
将軍は地図を指差した。
俺は尋ねた。
「違うんですか?」
ハミルカルは答えた。
「戦う場所は平原だ。
だが、敵が望む場所とは限らん」
俺は地図を見た。
そこには、平原の中央を横切る小さな川と、その先にある低い丘が描かれていた。
将軍は静かに言った。
「敵が数で勝るなら、その数を十分に使えない場所で戦う」
軍議には、マゴン、アズルバル、各部隊の指揮官たちが集まっていた。
俺は補給担当として、後方の輸送計画を説明するために同席していた。
マゴンが尋ねた。
「敵は、騎兵への対策をしているようです」
ハミルカルは頷いた。
「報告を聞いている」
ローマ軍は、騎兵の突撃を警戒していた。
歩兵の側面に、槍を持った部隊を配置している。
さらに、陣地の前には浅い溝を掘り、馬が接近しにくいようにしていた。
俺は眉をひそめた。
「……騎兵を封じるつもりですね」
ハミルカルは頷いた。
「そうだ」
「では、騎兵は使わないんですか?」
将軍は少し笑った。
「使う」
俺は顔を上げた。
「……どうやって?」
ハミルカルは答えた。
「敵が守っている場所へ、わざわざ突撃する必要はない」
俺は地図を見つめた。
ローマ軍の主力。
歩兵を中心とした陣形。
側面を守る槍兵。
そして、騎兵を妨げる溝。
正面から攻撃すれば、大きな損害が出るだろう。
だが、ローマ軍にも弱点はある。
俺は静かに言った。
「……補給ですね」
ハミルカルが俺を見た。
「何?」
「ローマ軍は、一万二千人です」
「そうだ」
「それだけの兵士が、毎日食料を必要とします」
将軍は頷いた。
「当然だ」
俺は続けた。
「しかも、敵は補給拠点を攻撃するために進軍している」
「……」
「つまり、敵の補給路も長くなっています」
ハミルカルは少し笑った。
「商人らしい考えだな」
俺は答えた。
「戦場のことは、将軍の方が詳しいですから」
その日の午後。
ローマ軍は平原の北側へ到着した。
先頭には、盾を持った歩兵。
その後ろに、主力部隊。
さらに後方には、輸送隊が続いている。
俺は高台から、その光景を見ていた。
「……多いな」
メルカルが頷いた。
「はい」
一万二千人。
数字で聞くのと、実際に見るのとでは、まったく違う。
平原を埋める兵士たち。
整然と並ぶ盾。
無数の槍。
そして、風に揺れる軍旗。
俺は深く息を吐いた。
「……これがローマ軍か」
夕方。
ハミルカル将軍は、全軍へ命令を出した。
「明朝、敵を迎え撃つ」
指揮官たちが頷いた。
「はっ!」
将軍は続けた。
「ただし、こちらから敵陣へ突撃するな」
マゴンが尋ねた。
「敵を引きつけるのですか?」
ハミルカルは頷いた。
「そうだ」
そして、地図を指差した。
「この小川の手前で戦う」
俺は顔を上げた。
「……小川?」
将軍は続けた。
「敵がこちらへ進めば、隊列が伸びる」
「……」
「そして、地形によって動きが制限される」
俺は頷いた。
「ほう」
その夜。
俺は補給隊の準備を確認していた。
小麦。
干し肉。
水。
負傷者を運ぶ荷車。
そして、予備の武器。
メルカルが尋ねた。
「アドン殿」
「何?」
「明日は、勝てるんでしょうか?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「分からない」
メルカルは黙った。
俺は続けた。
「でも、準備できることは全部やろう」
「……はい」
「兵士が戦っている間に、食料がなくなったら困る」
メルカルは頷いた。
「そうですね」
俺は静かに言った。
「それが、俺たちの仕事だ」
翌朝。
太陽が昇る前から、両軍は動き始めていた。
カルタゴ軍は、小川の南側に布陣した。
中央には歩兵。
左右には軽装兵。
騎兵は、さらに後方に控えている。
一方、ローマ軍は平原の北側に展開した。
歩兵を中心に、厚い隊列を組んでいる。
俺は高台から、その光景を見つめていた。
メルカルが呟いた。
「……始まりますね」
俺は頷いた。
「そうだね」
ローマ軍の陣地から、角笛が鳴った。
歩兵たちが前進を始める。
一歩。
また一歩。
盾を並べ、槍を構え、ゆっくりと進んでくる。
カルタゴ軍は動かない。
俺は拳を握った。
「……まだか」
ローマ軍は、小川へ近づいた。
水深は浅い。
歩兵なら渡れる。
だが、川底には石が多い。
隊列を保ったまま進むには、少し厄介な場所だった。
先頭の兵士たちが、水へ足を踏み入れた。
その瞬間。
ハミルカルが命令した。
「投槍兵、前へ!」
カルタゴ軍の軽装兵たちが動いた。
そして。
「放て!」
無数の投槍が飛んだ。
ローマ軍の先頭部隊は、盾を掲げた。
投槍が盾へ突き刺さる。
水面に落ちる。
何人かの兵士が倒れた。
だが、ローマ軍は止まらなかった。
盾を並べ直し、前進を続ける。
俺は思わず呟いた。
「……やっぱり強い」
メルカルが頷いた。
「はい」
ローマ軍の歩兵は、攻撃を受けても隊列を崩さない。
それが恐ろしい。
やがて。
ローマ軍の先頭部隊が、小川を渡り終えた。
カルタゴ軍の歩兵と衝突する。
盾と盾がぶつかる。
槍が突き出される。
剣が振り下ろされる。
怒号。
悲鳴。
金属のぶつかる音。
俺は息を呑んだ。
「……始まった」
戦闘は激しかった。
ローマ軍は数で勝る。
中央の歩兵を厚くし、少しずつカルタゴ軍を押し始めた。
俺は高台から見ていた。
「……押されていますね」
メルカルが不安そうに言った。
俺は頷いた。
「そうだね」
だが、ハミルカルは慌てていなかった。
将軍は中央の部隊へ命令した。
「少しずつ下がれ!」
俺は眉をひそめた。
「……下がる?」
マゴンが確認した。
「中央を後退させますか?」
ハミルカルは頷いた。
「そうだ」
「敵が前進します!」
「それでいい」
俺は地図を見た。
そして、ようやく気づいた。
「……ほう」
カルタゴ軍の中央が、少しずつ後退した。
ローマ軍は、それを見て前進する。
敵が下がっている。
押している。
勝てる。
そう考えたのだろう。
ローマ軍の中央は、さらに前へ進んだ。
だが、左右の部隊は、中央ほど進めなかった。
小川の石が多い場所。
ぬかるんだ地面。
そして、カルタゴ軍の軽装兵による攻撃。
そのため、ローマ軍の隊列は、少しずつ中央が突出する形になった。
俺は静かに呟いた。
「……隊列が伸びている」
メルカルが尋ねた。
「どういうことです?」
俺は答えた。
「中央だけが前に出ているんだ」
メルカルは頷いた。
「……あ」
俺は続けた。
「左右の部隊が、追いついていない」
ハミルカルは、その動きを見逃さなかった。
「右翼、前進!」
カルタゴ軍の右翼が動いた。
「左翼も前へ!」
左翼も動く。
中央は後退。
左右は前進。
その結果。
カルタゴ軍の陣形は、ゆるやかな弓のような形になった。
ローマ軍の中央が、その内側へ入り込む。
俺は息を呑んだ。
「……包囲するつもりか」
だが、ローマ軍の指揮官も気づいた。
「中央を止めろ!」
ローマ側の角笛が鳴った。
前進していた部隊が、足を止めようとする。
だが、後方の兵士たちは、まだ前へ進んでいる。
隊列が詰まる。
前に進みたい兵士。
止まろうとする兵士。
左右へ広がろうとする兵士。
一瞬、動きが乱れた。
そのとき。
ハミルカルが命令した。
「騎兵、動け!」
カルタゴ軍の騎兵が、後方から走り出した。
だが、ローマ軍の側面へ直接突撃したわけではない。
敵が準備した溝や槍兵を避け、さらに外側へ回り込んだ。
俺は高台から、その動きを見ていた。
「……遠回りしている?」
メルカルが頷いた。
「そうですね」
俺は地図を見た。
そして、理解した。
「……敵の後方を狙っている」
ローマ軍は、騎兵への対策をしていた。
だが、それは正面から側面へ突撃してくる騎兵を想定したものだった。
カルタゴ軍の騎兵は、その外側を通っている。
そして、ローマ軍の後方へ向かった。
俺は深く息を吐いた。
「……そういうことか」
騎兵の目的は、歩兵の隊列を直接破壊することではない。
敵の後方にある輸送隊。
伝令。
そして、予備部隊。
そこへ圧力をかけることだった。
ローマ軍の後方で、騒ぎが起きた。
「敵の騎兵だ!」
「後方へ回られた!」
ローマ軍の指揮官は、予備部隊を動かした。
「後方を守れ!」
だが、その分。
中央の歩兵を支援する兵力が減った。
俺は静かに呟いた。
「……予備兵力を使わせた」
メルカルが頷いた。
「はい」
ハミルカルは、さらに命令を出した。
「中央、踏みとどまれ!」
後退していたカルタゴ軍の中央が、足を止めた。
そして。
「左右から押せ!」
カルタゴ軍の両翼が、ローマ軍の側面へ圧力をかけ始めた。
ローマ軍は、中央が突出している。
左右の部隊は遅れている。
後方では、騎兵への対応が必要になっている。
俺は息を呑んだ。
「……包囲が始まった」
戦闘は、さらに激しくなった。
ローマ軍は簡単には崩れなかった。
中央の歩兵は、盾を並べて抵抗した。
左右の部隊も、必死に隊列を整えようとする。
だが、カルタゴ軍は地形を利用して圧力をかけ続けた。
ローマ軍の中央は、前へ進めない。
左右へ広がろうとしても、カルタゴ軍が迫っている。
後方へ下がろうとしても、味方の部隊が詰まっている。
俺は静かに呟いた。
「……これは」
メルカルが尋ねた。
「勝てるんでしょうか?」
俺は答えた。
「……まだ分からない」
だが、戦場の流れが変わったことは確かだった。
やがて。
ローマ軍の後方から、角笛が鳴った。
短い音が何度も続く。
俺は顔を上げた。
「……何だ?」
メルカルが答えた。
「撤退の合図でしょうか?」
俺は頷いた。
「たぶん」
ローマ軍は、後退を始めた。
だが、簡単ではない。
中央の部隊は、カルタゴ軍に押されている。
左右の部隊も、戦闘を続けている。
後方には、騎兵がいる。
俺は息を呑んだ。
「……退けるのか?」
ハミルカルは、ローマ軍の動きを見ていた。
そして、命令した。
「退路を一つ残せ!」
俺は驚いた。
「……退路を?」
将軍は頷いた。
「そうだ」
「包囲できるのでは?」
ハミルカルは答えた。
「完全に囲めば、敵は死ぬまで戦う」
俺は黙った。
将軍は続けた。
「退く道があれば、戦闘を終わらせられる」
俺は頷いた。
「……ほう」
カルタゴ軍は、ローマ軍の退路を完全には塞がなかった。
その結果。
ローマ軍は、隊列を崩しながらも後退を始めた。
負傷者を運ぶ兵士。
盾を捨てて走る兵士。
仲間を支える兵士。
そして、後方を守るために踏みとどまる兵士。
俺は、その光景を見つめていた。
勝っている。
確かに、カルタゴ軍が勝っている。
だが、戦場には、倒れた兵士が大勢いた。
昼過ぎ。
戦闘は終わった。
ローマ軍は北東へ後退した。
カルタゴ軍は追撃を限定し、戦場の確保を優先した。
俺は深く息を吐いた。
「……終わった」
メルカルが頷いた。
「はい」
だが、俺はすぐに言い直した。
「……今日の戦闘はね」
夕方。
被害の報告が届いた。
カルタゴ軍。
戦死者、三百人余り。
負傷者、九百人近く。
ローマ軍の損害は、まだ正確には分からない。
だが、戦場に残された死傷者や捕虜の数から、カルタゴ軍より大きな損害を受けたことは明らかだった。
俺は報告書を見つめた。
「……三百人」
メルカルが黙った。
俺は静かに言った。
「勝ったのに、三百人以上死んだ」
メルカルは頷いた。
「……はい」
俺は深く息を吐いた。
「……戦争って、本当に高くつくな」
その夜。
ハミルカル将軍の幕舎では、指揮官たちが集まっていた。
マゴンが報告した。
「敵は北東へ後退しました」
ハミルカルは頷いた。
「追撃は?」
「限定的に行いましたが、主力は戻しています」
「よし」
アズルバルが続けた。
「補給拠点は守られました」
ハミルカルは頷いた。
「それが重要だ」
俺は静かに言った。
「食料も確保できています」
将軍は俺を見た。
「よくやった」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
だが、ハミルカルは、勝利を祝うことはなかった。
「諸君」
幕舎が静かになった。
「今日、我々は勝った」
指揮官たちが頷いた。
「だが、ローマ軍は滅びていない」
俺は顔を上げた。
将軍は続けた。
「ローマは、さらに兵を送ってくるだろう」
マゴンが頷いた。
「はい」
「そして、次は同じ失敗をしない」
俺は深く息を吐いた。
「……そうですね」
その日の夜遅く。
俺は一人で、地図を見つめていた。
ローマ軍。
カルタゴ軍。
交易路。
港。
そして、海。
俺は静かに呟いた。
「……勝っただけじゃ駄目だ」
ローマ軍を撃退した。
だが、ローマという国家は残っている。
ローマは、兵士を集める。
船を作る。
金を集める。
そして、再び戦争を仕掛けてくるかもしれない。
俺は深く息を吐いた。
「……どうすれば、戦争を終わらせられる?」
そのとき。
幕舎の外から声がした。
「アドン殿!」
メルカルだった。
「何?」
「カルタゴ本国から、急使が到着しました!」
俺は顔を上げた。
「……本国から?」
メルカルは頷いた。
「はい!」
俺は書簡を受け取った。
差出人は父。
封を開く。
そこには、こう書かれていた。
『アドン。
ローマ軍との戦闘について、カルタゴ政府は正式な戦争状態に入ったと判断した。
ヒスパニア方面軍への追加兵力の派遣が決定された。』
俺は頷いた。
「……そうか」
だが、続きを読んだ瞬間、表情が変わった。
『さらに、政府はローマ軍への対抗措置として、海軍の動員を決定した。』
俺は息を呑んだ。
「……海軍?」
メルカルが尋ねた。
「どうしました?」
俺は静かに答えた。
「カルタゴ政府が、海軍を動かすそうだ」
メルカルは驚いた。
「……海でも戦うんですか?」
俺は頷いた。
「そうなるかもしれない」
カルタゴ。
かつて地中海の交易を支配した海洋国家。
その力の源は、海にあった。
港。
商船。
軍船。
そして、海上交易路。
だが、ローマもまた、第一次ポエニ戦争で強力な海軍を築いている。
海で戦えば、双方に大きな損害が出る可能性がある。
俺は深く息を吐いた。
「……陸だけじゃなく、海まで」
書簡には、さらに続きがあった。
『カルタゴ政府は、ローマ方面の海上交易を制限するため、主要航路の監視を強化する方針である。』
俺は頷いた。
「……ほう」
だが、最後の一文を読んだ瞬間、手が止まった。
『なお、海軍の補給契約についても、政府指定商会を優先する方針が示されている。』
俺は深く息を吐いた。
「……また、バアルハンノか」
俺は書簡を閉じた。
そして、静かに呟いた。
「……戦争が大きくなるほど、あの商会が儲かる仕組みになっている」
メルカルが頷いた。
「そうですね」
俺は拳を握った。
「……でも、もう止められないかもしれない」
戦争は、陸から海へ広がろうとしている。
そして、カルタゴ政府は、軍の増強を決めた。
ローマも、さらに兵を送ってくるだろう。
俺は静かに呟いた。
「……次は海か」
だが、そのときの俺は、まだ知らなかった。
カルタゴ海軍が動員されたことで、ローマも大規模な艦隊を派遣することになるのを。
そして、その戦いが――地中海の交易路を巡る、新たな戦争の始まりになることを。




