第四十三話 ローマ軍の軍資金を奪ったら、カルタゴの銀貨が出てきた
夜明け前。
北東の丘陵地帯では、激しい戦闘が続いていた。
ローマ軍の輸送隊。
それを守る歩兵、およそ千人。
そして、輸送隊を止めようとするマゴンの部隊。
双方の兵士が、狭い街道を挟んで戦っていた。
俺はハミルカル将軍の本陣で、次々と届く報告を聞いていた。
「マゴン隊、敵の先頭を阻止!」
「敵の護衛部隊が反撃しています!」
「ローマ軍の主力から増援が接近中!」
俺は地図を見つめた。
「……時間がありませんね」
ハミルカルは頷いた。
「そうだ」
将軍は、ローマ軍の主力陣地を指差した。
「敵は輸送隊を守るため、兵を動かした」
「はい」
「だが、全軍が動いたわけではない」
俺は頷いた。
「陣地には守備兵が残っています」
ハミルカルは静かに言った。
「ならば、その守備兵をどう動かすかだ」
将軍はマゴンへ新しい命令を送った。
輸送隊を無理に攻撃し続けるな。
敵の増援が到着する前に、丘陵地帯の西側へ後退せよ。
ただし、輸送隊の進路は監視し続けること。
俺は少し驚いた。
「……攻撃をやめるんですか?」
ハミルカルは頷いた。
「そうだ」
「せっかく敵の輸送隊を止めたのに?」
将軍は俺を見た。
「アドン」
「はい」
「輸送隊を奪うために、兵士を千人失っては意味がない」
俺は黙った。
将軍は続けた。
「敵の増援が来るなら、こちらも戦い方を変える」
俺は頷いた。
「……分かりました」
夜が明けた。
ローマ軍の増援が丘陵地帯へ到着した。
だが、そのときにはマゴンの部隊はすでに後退していた。
ローマ側の指揮官は、輸送隊の無事を確認した。
「敵は退いたのか?」
部下が答えた。
「はい!」
「追撃するか?」
「どうしますか?」
指揮官は地図を見た。
そして首を振った。
「いや、輸送隊を守れ」
その判断は正しかった。
だが、ローマ軍の輸送隊は、すぐには動けなかった。
街道には倒れた馬がいる。
破損した荷車がある。
さらに、狭い道で荷車が詰まっていた。
俺は偵察隊の報告を聞き、静かに呟いた。
「……動けないだけでも、十分な成果ですね」
ハミルカルは頷いた。
「そうだ」
その日の午後。
ハミルカル将軍は、別の部隊を動かした。
目的は、ローマ軍の主力陣地の側面へ接近すること。
だが、正面から攻撃するわけではない。
丘陵地帯を利用し、敵の動きを監視する。
そして、ローマ軍がさらに兵を分けるなら、その隙を狙う。
俺は補給隊とともに、後方の陣地へ移動した。
メルカルが尋ねた。
「……本当に敵の背後を取れるんでしょうか?」
俺は答えた。
「分からない」
「……」
「でも、敵も補給隊を守らなければならない」
メルカルは頷いた。
「はい」
「だから、自由には動けない」
俺は続けた。
「軍隊は、食料がなければ戦えないからね」
夕方。
ローマ軍の主力陣地で動きがあった。
偵察隊が報告した。
「将軍!」
「何だ?」
「敵の主力の一部が、輸送隊の方向へ移動しています!」
ハミルカルは頷いた。
「兵力は?」
「およそ三千!」
俺は息を呑んだ。
「……三千?」
将軍は地図を見つめた。
「……動いたか」
ローマ軍は、輸送隊を守るために兵を増やした。
だが、その結果。
主力陣地の守備兵は減った。
俺は静かに呟いた。
「……今なら」
ハミルカルは頷いた。
「そうだ」
その夜。
カルタゴ軍の一部が、ローマ軍の主力陣地へ接近した。
兵士たちは、丘の陰を進んだ。
騎兵は別の道を通り、敵の退路を監視する。
俺は後方で、報告を待っていた。
夜半。
遠くから、角笛の音が聞こえた。
続いて、兵士たちの声。
そして、金属のぶつかる音。
俺は拳を握った。
「……始まった」
ハミルカル将軍の部隊は、ローマ軍の主力陣地の外側にある補助陣地を攻撃した。
そこには、食料や武器を保管する小さな倉庫があった。
ローマ軍の守備兵は、すぐに反撃した。
だが、主力の一部は輸送隊の護衛に向かっている。
十分な兵力を集めるには時間が必要だった。
カルタゴ軍は、その隙を突いた。
夜明け前。
補助陣地は、カルタゴ軍の手に落ちた。
俺がその報告を聞いたのは、夜明け直後だった。
「アドン殿!」
メルカルが駆け込んできた。
「何?」
「ローマ軍の補助陣地を占領したそうです!」
俺は顔を上げた。
「……本当に?」
「はい!」
俺は深く息を吐いた。
「……よかった」
だが、すぐに思い直した。
戦闘があった。
当然、死傷者も出ている。
俺は尋ねた。
「こちらの被害は?」
メルカルは首を振った。
「まだ、詳しくは分かりません」
俺は頷いた。
「……そうか」
数時間後。
俺はハミルカル将軍の許可を得て、占領した補助陣地へ向かった。
そこには、ローマ軍が残していった物資があった。
小麦。
干し肉。
武器。
馬具。
そして、木箱。
俺は木箱の一つを見た。
蓋には、商会の印が押されていた。
「……ん?」
メルカルが尋ねた。
「どうしました?」
俺は印を指差した。
「これ、見覚えがある」
メルカルが覗き込んだ。
「……あ」
俺は静かに言った。
「アウレリウス商会だ」
アウレリウス商会。
ローマ方面で活動する民間商会。
バアルハンノ商会へ銀貨三万枚を貸し付けていた商会でもある。
さらに、軍需物資の取引にも関係していた。
俺は木箱を見つめた。
「……こんなところに」
メルカルが尋ねた。
「ローマ軍へ物資を売っていたんでしょうか?」
俺は頷いた。
「その可能性は高いね」
だが、民間商会が軍へ物資を売ること自体は珍しくない。
問題は、その物資がどこから来たかだ。
俺は木箱の中身を確認した。
銀貨。
大量の銀貨だった。
俺は息を呑んだ。
「……これは」
メルカルも驚いた。
「すごい量ですね」
俺は一枚の銀貨を手に取った。
表面には、カルタゴで使われている貨幣の意匠があった。
俺は眉をひそめた。
「……カルタゴの銀貨?」
メルカルが尋ねた。
「なぜ、ローマ軍の陣地に?」
俺は答えた。
「交易で渡った銀貨かもしれない」
「……」
「ローマ方面の商人が、カルタゴの銀貨を持っていても不思議じゃない」
メルカルは頷いた。
「ほう」
俺は続けた。
「だから、これだけでは何も分からない」
だが、木箱の横には、一枚の書類が残されていた。
俺はそれを拾い上げた。
輸送記録。
荷主。
アウレリウス商会。
荷物。
銀貨。
数量。
そして、支払い元。
俺は目を細めた。
そこには、こう書かれていた。
『バアルハンノ商会 取引精算分』
俺は動きを止めた。
「……何?」
メルカルが覗き込んだ。
「……バアルハンノ商会?」
俺は頷いた。
「そう書いてある」
俺は書類を詳しく確認した。
銀貨の数量。
輸送日。
荷主。
受取人。
そして、用途。
『ヒスパニア方面軍需物資購入代金精算』
俺は眉をひそめた。
「……軍需物資?」
メルカルが尋ねた。
「カルタゴ軍のですか?」
俺は首を振った。
「分からない」
だが、書類には別の記載があった。
『ローマ側補給契約 前払金』
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
メルカルが尋ねた。
「どういうことです?」
俺は答えた。
「バアルハンノ商会からアウレリウス商会へ送られた金が、ローマ側の補給契約に使われている可能性がある」
メルカルは驚いた。
「……敵の軍隊に?」
俺は頷いた。
「そういうことになるかもしれない」
俺はすぐにハミルカル将軍へ報告した。
将軍は書類を読み終えると、静かに言った。
「……カルタゴの商会が、ローマ軍の補給を支えているのか」
俺は答えた。
「まだ、そう断定はできません」
ハミルカルは頷いた。
「分かっている」
俺は続けた。
「商会同士の通常の取引代金が、結果としてローマ側の軍需契約へ回った可能性もあります」
「……」
「ただし、取引の流れは確認する必要があります」
ハミルカルは頷いた。
「そうだな」
将軍は命令した。
「押収した書類と銀貨を、正式な記録に残せ」
「はっ!」
「そして、保管場所を明確にしろ」
「承知しました!」
俺は頷いた。
「ありがとうございます」
ハミルカルは続けた。
「これらは、戦利品として扱う前に、軍の監督官へ確認させる」
俺は静かに答えた。
「それがよいと思います」
その日の夕方。
俺は押収した書類を整理していた。
メルカルが記録を読み上げる。
「アウレリウス商会」
「はい」
「バアルハンノ商会」
「はい」
「ヒスパニア方面軍需物資購入代金精算」
俺は頷いた。
「続けて」
メルカルは次の書類を手に取った。
そして、動きを止めた。
「……アドン殿」
「何?」
「これ、見てください」
俺は書類を受け取った。
そこには、複数の支払い記録があった。
軍需物資。
輸送費。
倉庫費。
そして。
『安全保障協力費』
俺は眉をひそめた。
「……また、この名目か」
安全保障協力費。
以前、カルタゴ政府の契約書にも出てきた費用だった。
交易路の安全管理。
護衛隊の手配。
軍需物資の輸送。
そして、調査団の活動費。
俺は書類を見つめた。
「……同じ名前が出てくる」
メルカルが尋ねた。
「偶然でしょうか?」
俺は答えた。
「分からない」
だが、俺は続けた。
「少なくとも、確認する価値はある」
さらに調べると、別の記録が見つかった。
『特別輸送費』
『緊急警備費』
『交易路安全確認費』
そして。
『戦闘継続対応費』
俺は思わず呟いた。
「……戦闘継続?」
メルカルが顔を上げた。
「何ですか、それ?」
俺は答えた。
「戦闘が続く場合に発生する費用らしい」
「……」
「ただ、誰に支払われるのか、まだ分からない」
俺は書類を裏返した。
そこには、受取先が記載されていた。
『ハンノン交易商会』
俺は息を呑んだ。
「……繋がった」
ハンノン交易商会。
アズバル・ハンノンの親族が経営する商会。
カルタゴ政府との緊急補給支援契約案に名前があった商会だ。
そして、その商会が、ローマ方面の商会からも金を受け取る予定になっている。
俺は深く息を吐いた。
「……両方から金を受け取るのか」
メルカルが尋ねた。
「カルタゴ政府からも?」
俺は頷いた。
「契約案が承認されればね」
「……」
「そして、ローマ方面の商会からも」
メルカルは黙った。
俺は静かに言った。
「戦争が長引くほど、両方から金が入る仕組みになりかけている」
だが、ここで一つ疑問が残った。
俺は書類を見つめた。
「……なぜ、ローマ側の補助陣地に、こんな記録がある?」
メルカルが尋ねた。
「どういうことです?」
俺は答えた。
「商会同士の取引記録なら、普通は商会の事務所に保管する」
「はい」
「それが、軍の陣地にある」
メルカルは頷いた。
「……確かに」
俺は続けた。
「つまり、この書類を軍が必要としていた可能性がある」
翌朝。
俺はローマ側の捕虜について、軍の監督官へ確認した。
捕虜の中には、輸送隊の会計を担当していた男がいた。
名前は、ティトゥス。
ローマ方面の商会から派遣された会計係だった。
俺は監督官の立ち会いのもと、話を聞くことになった。
「ティトゥスさん」
男は顔を上げた。
「……何だ?」
俺は書類を見せた。
「この輸送記録について、確認したいことがあります」
ティトゥスは書類を見た。
そして、顔をしかめた。
「……それをどこで?」
俺は答えた。
「補助陣地です」
ティトゥスは黙った。
俺は尋ねた。
「この銀貨は、何のために運ばれていたんですか?」
ティトゥスは答えた。
「軍需物資の支払いだ」
俺は頷いた。
「ローマ軍への?」
「そうだ」
俺は続けた。
「では、バアルハンノ商会の名前があるのは?」
ティトゥスは少し迷った。
そして答えた。
「……商会同士の精算だ」
俺は頷いた。
「ほう」
「それ以上は知らん」
俺は静かに言った。
「では、ハンノン交易商会への支払いについては?」
ティトゥスの表情が変わった。
「……」
俺は続けた。
「戦闘継続対応費という名目があります」
ティトゥスは黙った。
俺は静かに尋ねた。
「これは、何の費用ですか?」
しばらくして。
ティトゥスは低い声で答えた。
「……輸送の危険が増えた場合の追加費用だ」
俺は頷いた。
「ほう」
「戦闘が続けば、護衛も必要になる」
「そうですね」
「だから、費用が増える」
俺は静かに答えた。
「それ自体は理解できます」
ティトゥスは少し安心したようだった。
だが、俺は続けた。
「では、なぜ受取先がハンノン交易商会なんですか?」
ティトゥスは黙った。
俺は尋ねた。
「実際に護衛を手配しているんですか?」
「……」
「輸送を担当しているんですか?」
「……」
「それとも、別の役割があるんですか?」
ティトゥスは顔を伏せた。
しばらくして。
男は静かに言った。
「……俺は、命令されたとおりに記録しただけだ」
俺は頷いた。
「誰から?」
ティトゥスは答えた。
「アウレリウス商会の上役だ」
「名前は?」
「……知らん」
俺は眉をひそめた。
「知らない?」
ティトゥスは頷いた。
「書類には、印章しかなかった」
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
その日の午後。
俺はハミルカル将軍へ報告した。
将軍は最後まで黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「……戦争で儲ける者がいるのは、珍しいことではない」
俺は頷いた。
「はい」
「だが、軍の食料を横流しし、敵側の補給にも関わっているなら問題だ」
「そのとおりです」
ハミルカルは続けた。
「証拠を集めろ」
俺は頷いた。
「分かりました」
「そして、本国へ送れ」
「はい」
だが、その夜。
カルタゴ本国から、急使が到着した。
俺は書簡を受け取った。
差出人は父。
そこには、短い文章が書かれていた。
『アドン。
政府の会議で、ローマに対する軍事行動が正式に承認された。』
俺は動きを止めた。
「……何?」
続きを読んだ。
『ハンノ殿は、外交交渉の継続を求めたが、賛成多数で軍事行動の承認が決定された。』
俺は深く息を吐いた。
「……ついに」
そして、最後の一文。
『ヒスパニア方面軍には、ローマ軍を撃退するための追加兵力と予算が与えられる。』
俺は書簡を閉じた。
俺は軍営の外へ出た。
遠くには、ローマ側の篝火が見える。
戦争は、もう避けられないのかもしれない。
だが、俺は静かに呟いた。
「……だったら、勝つしかない」
ただし、勝つだけでは駄目だ。
ローマ軍を倒しても、ローマという国家は残る。
再び軍を送ってくるかもしれない。
だから、カルタゴが生き残るためには、戦争を終わらせる条件まで考えなければならない。
俺は拳を握った。
「……ザマの戦いまで、まだ時間はある」
本来の歴史とは違う戦争が始まってしまった。
ならば。
この戦争で、カルタゴが滅びない未来を作るしかない。
翌朝。
ハミルカル将軍は、全軍の指揮官を集めた。
そして、カルタゴ政府から届いた命令書を読み上げた。
「ローマ軍の侵攻を阻止し、ヒスパニア方面の安全を確保せよ」
指揮官たちが頷いた。
ハミルカルは続けた。
「諸君」
幕舎が静まり返った。
「我々は、これより本格的な戦争に入る」
俺は息を呑んだ。
将軍は剣を取った。
そして、静かに言った。
「ローマ軍を、ヒスパニアから退ける」
指揮官たちが一斉に立ち上がった。
「はっ!」
だが、その日の昼。
さらに重大な知らせが届いた。
「将軍!」
伝令が駆け込んできた。
「ローマ軍の主力が、移動を始めました!」
ハミルカルが顔を上げた。
「どこへ?」
伝令は答えた。
「南西です!」
俺は地図を見た。
南西。
そこには、カルタゴ軍の補給拠点がある。
だが、それだけではない。
さらに南へ進めば、カルタゴ軍の後方地域へ入ることができる。
俺は眉をひそめた。
「……補給拠点を狙っている?」
伝令は続けた。
「敵の兵力は、およそ一万二千!」
俺は息を呑んだ。
「……一万二千?」
ハミルカルは地図を見つめた。
そして、静かに言った。
「……決戦を望んでいるようだな」
俺は深く息を吐いた。
ローマ軍、一万二千。
カルタゴ軍も、主力を集結させ始めている。
そして、両軍が向かおうとしている場所は――ヒスパニアの平原。
騎兵が動きやすく、歩兵も大規模な隊列を組める場所だった。
俺は静かに呟いた。
「……いよいよ、大きな戦いになる」
だが、そのときの俺は、まだ知らなかった。
ローマ軍の指揮官が、カルタゴ軍の騎兵を封じるため、特別な陣形を準備していたことを。
そして、その戦いが――
ハミルカル・バルカの名を、ローマ中に知らしめる最初の大勝利になることを。




