第四十一話 戦争が長引くほど儲かる契約を見つけたら、カルタゴ政府が分裂した
戦争が始まると、金が動く。
食料。
武器。
馬。
船。
兵士の給料。
負傷者の治療費。
そして、戦死者の家族へ支払う金。
軍隊を動かすには、想像以上の金が必要になる。
だが、その金はどこから出てくるのか。
当然、カルタゴ政府の財政からだ。
政府の財政とは、つまり税金である。
商人が払う税金。
港の使用料。
交易によって集められる収入。
その金が、戦争に使われる。
俺は机の上に広げた帳簿を見つめていた。
「……これは、ひどいな」
メルカルが顔を上げた。
「何がですか?」
俺は一枚の契約書を指差した。
「この契約だよ」
そこには、こう書かれていた。
『ヒスパニア方面軍緊急補給支援契約案』
契約相手は、カルタゴ国内の商会。
アズバル・ハンノンの親族が経営する、ハンノン交易商会だった。
契約の内容は、一見すると普通だった。
軍需物資の輸送。
倉庫の管理。
護衛隊の手配。
緊急時の補給路確保。
だが、問題は支払い条件にあった。
俺はメルカルへ説明した。
「この契約では、軍需物資の代金とは別に、補給体制維持費が支払われることになっている」
メルカルが頷いた。
「はい」
「その費用は、戦闘が続いている間、定期的に支払われる」
「……定期的に?」
「そう」
俺は頷いた。
「しかも、実際にどれだけ物資を運んだかとは別なんだ」
メルカルは眉をひそめた。
「……何もしなくても、金がもらえるんですか?」
俺は首を振った。
「待機する人員や倉庫にも費用はかかるから、固定費そのものが悪いわけじゃない」
「ほう」
「でも、この契約には、待機人数や倉庫の使用状況を確認する条件がほとんどない」
メルカルの表情が変わった。
「……それは」
俺は頷いた。
「実際に何をしているか分からなくても、金が支払われる可能性がある」
俺は契約書の金額を確認した。
一期間あたり、銀貨八千枚。
契約期間は、当面三期間。
合計、銀貨二万四千枚。
さらに、戦闘が継続した場合は延長できる。
俺は蝋板に数字を書いた。
三期間なら、二万四千枚。
六期間なら、四万八千枚。
十二期間なら、九万六千枚。
メルカルが息を呑んだ。
「……すごい金額ですね」
俺は頷いた。
「そうだね」
「でも、戦争が終わったら?」
俺は答えた。
「支払いも終わる」
メルカルは黙った。
俺は静かに言った。
「つまり、この契約だけを見れば、戦争が長引くほど収入が増える仕組みになっている」
もちろん、戦争が長引けば商会にも危険はある。
輸送中に荷物を失うかもしれない。
船が沈むかもしれない。
倉庫が襲われるかもしれない。
だから、長期戦を望んでいると断定することはできない。
だが、俺は契約書の末尾を見た。
そこには、こう書かれていた。
『戦闘終結の確認は、政府指定の安全保障調査団による報告に基づくものとする』
俺は眉をひそめた。
「……また、調査団か」
メルカルが尋ねた。
「何か問題が?」
俺は答えた。
「この調査団は、以前サグントゥムが駐留要求を拒否したという報告を提出した組織だ」
メルカルの表情が変わった。
「……あの調査団ですか?」
「そう」
俺は頷いた。
「しかも、正式な設置決議が確認できなかった」
メルカルは深く息を吐いた。
「……そんな調査団が、戦争が終わったかどうかを判断するんですか?」
俺は静かに答えた。
「契約案では、そうなっている」
俺は椅子にもたれた。
戦争が続いていると報告すれば、商会への支払いが続く。
戦争が終わったと報告すれば、支払いが止まる。
そして、その報告を行う調査団には、バアルハンノ商会の関係者がいる。
さらに、契約相手はアズバル・ハンノンの親族の商会だ。
俺は深く息を吐いた。
「……利益が絡みすぎている」
メルカルが頷いた。
「そうですね」
俺は続けた。
「本当に戦争が続いているかどうかは、政府や軍が独立して確認するべきだ」
「はい」
「それを、利益を受け取る側と関係の深い組織に任せるのは危険だよ」
翌朝。
俺はハミルカル将軍へ報告した。
将軍は契約書を読み終えると、静かに言った。
「……軍の補給を口実に、金を取り続けるつもりか」
俺は頷いた。
「そのような仕組みになり得ます」
ハミルカルは眉をひそめた。
「だが、補給体制を維持する費用は必要だ」
「はい」
俺は答えた。
「そこは否定しません」
将軍は俺を見た。
「では、何が問題だ?」
俺は説明した。
「実際に必要な費用と、支払う金額が結びついていないことです」
「……」
「さらに、戦闘が終わったかどうかを判断する組織が、契約相手と関係しています」
ハミルカルは頷いた。
「ほう」
俺は続けた。
「少なくとも、独立した確認が必要です」
ハミルカルはしばらく考え込んだ。
そして、静かに言った。
「アドン」
「はい」
「私は軍人だ」
俺は頷いた。
「はい」
「軍に必要な食料と武器を確保することが仕事だ」
「そのとおりです」
「だが、政府の契約を決めるのは私ではない」
俺は頷いた。
「分かっています」
将軍は続けた。
「だからこそ、この資料は本国へ送れ」
俺は答えた。
「すでに父とハンノ殿へ送る準備をしています」
ハミルカルは頷いた。
「よし」
それから十日余り。
カルタゴ本国では、緊急の会議が開かれていた。
父から届いた書簡によれば、議題は三つ。
ローマとの戦闘への対応。
ヒスパニア方面軍の追加予算。
そして、軍需物資の調達契約。
会議では、激しい議論が起きたという。
俺は父の書簡を読み進めた。
カルタゴ政府の議場。
アズバル・ハンノンが立ち上がった。
「諸君!」
その声が議場に響いた。
「ローマ軍は、すでに我が軍と交戦している!」
議員たちがざわつく。
アズバルは続けた。
「兵士が死んだ!」
「補給路が襲われた!」
「我々は、いつまで議論を続けるつもりなのか!」
何人かの議員が頷いた。
「そのとおりだ!」
「軍を支援するべきだ!」
アズバルは机を叩いた。
「今必要なのは、迅速な決断だ!」
そして、契約書を掲げた。
「ヒスパニア方面軍の補給を安定させるため、政府指定商会との緊急契約を承認するべきである!」
だが、そこで、ハンノが立ち上がった。
「一つ、質問がある」
議場が静かになった。
アズバルは眉をひそめた。
「何だ?」
ハンノは答えた。
「この契約では、戦闘が続く限り、補給体制維持費が支払われることになっている」
アズバルは頷いた。
「当然だ」
「では、実際にどれだけの物資を運んだかは、どのように確認する?」
アズバルは答えた。
「商会の報告書を提出させる」
ハンノは頷いた。
「その報告書を、誰が確認する?」
アズバルは少し苛立ったように答えた。
「政府の担当部署だ」
ハンノは続けた。
「その担当部署には、契約相手と利害関係のある者が含まれていないか?」
議場がざわついた。
アズバルは顔をしかめた。
「何が言いたい?」
ハンノは静かに答えた。
「契約相手のハンノン交易商会は、あなたの親族が経営している」
議場が騒がしくなった。
「何?」
「親族の商会?」
アズバルは声を上げた。
「親族だからといって、不正があるとは限らん!」
ハンノは頷いた。
「そのとおりだ」
アズバルは一瞬、言葉を止めた。
ハンノは続けた。
「だからこそ、独立した確認を行うべきだと言っている」
ハンノはさらに資料を掲げた。
「この契約には、もう一つ問題がある」
議員たちが静かになった。
「戦闘終結の確認を、安全保障調査団の報告に委ねていることだ」
アズバルは答えた。
「専門の調査団が判断するのは当然だ!」
ハンノは首を振った。
「その調査団の正式な設置決議が確認できない」
議場がざわついた。
「……何?」
ハンノは続けた。
「さらに、調査団の活動費は、バアルハンノ商会が立て替えている」
アズバルの表情が変わった。
「……」
ハンノは静かに言った。
「戦争が続いていると報告すれば、関係商会への支払いが続く」
「……」
「その判断を、関係商会と利害のある調査団へ任せるのは適切なのか?」
議場は静まり返った。
だが、アズバルも引かなかった。
「では、どうする!」
彼は声を張り上げた。
「契約を止めるのか!」
「軍の食料を止めるのか!」
「ローマ軍が攻めてきているというのに!」
何人かの議員が頷いた。
「そうだ!」
「今は戦争だ!」
「細かいことを言っている場合ではない!」
ハンノは静かに答えた。
「軍の補給を止めろとは言っていない」
アズバルが眉をひそめた。
「では?」
ハンノは答えた。
「必要な物資は買う」
「……」
「ただし、数量と価格を確認する」
「……」
「そして、複数の商会から調達する」
議場が静かになった。
ハンノは続けた。
「一つの商会へ、軍の命運を預けるべきではない」
議論は長時間続いた。
アズバルを支持する議員たちは、迅速な軍事対応を求めた。
ハンノを支持する議員たちは、軍需契約の透明性を求めた。
だが、単純な二つの勢力ではなかった。
軍を強くしたいが、ハミルカル個人の権力拡大は警戒する者。
ローマとの戦争を避けたいが、すでに攻撃された以上は反撃すべきだと考える者。
政府の財政を守りたいが、軍の補給不足も恐れる者。
それぞれの立場があった。
そして。
ついに、議場から一人の議員が立ち上がった。
「……もう、契約の話だけでは済まない」
議場が静かになった。
その議員は続けた。
「ローマ軍は、すでに我々の兵士を殺している」
「……」
「我々は、戦争をするのか。
それとも、講和を求めるのか」
誰も答えなかった。
議員は続けた。
「軍需物資の契約を決める前に、国家としての方針を決めるべきではないか?」
議場がざわついた。
アズバルが立ち上がった。
「我々は、すでに攻撃されている!」
「だからこそ、反撃するべきだ!」
一方で、別の議員が声を上げた。
「まだ正式な宣戦布告はない!」
「外交交渉の余地はある!」
議場は騒然となった。
ハンノは静かに立ち上がった。
「諸君」
議場が少しずつ静かになる。
ハンノは続けた。
「ローマとの戦争は、カルタゴにとって重大な決断だ」
「……」
「戦争を始めれば、金が必要になる」
「兵士が必要になる」
「船が必要になる」
「そして、何年も続く可能性がある」
議員たちは黙って聞いていた。
ハンノは続けた。
「だからこそ、我々は冷静に判断する必要がある」
だが、そのとき。
議場の扉が開いた。
一人の使者が駆け込んできた。
「緊急報告です!」
議員たちが振り返った。
議長が尋ねた。
「何事だ?」
使者は息を切らしながら答えた。
「ローマ軍が、ヒスパニア方面でさらに増援を送りました!」
議場がざわついた。
使者は続けた。
「兵力は、すでに一万人を超える可能性があります!」
アズバルが立ち上がった。
「見ろ!」
彼は議場を見渡した。
「ローマは、すでに戦争の準備を進めている!」
議員たちの表情が変わった。
使者はさらに続けた。
「そして、ローマ側の指揮官が、カルタゴ軍へ撤退を要求しています!」
議場が静まり返った。
ハンノは尋ねた。
「撤退とは、どこからだ?」
使者は答えた。
「トゥリア川の西岸です!」
議場がざわついた。
ハンノは眉をひそめた。
「そこには、我が軍の補給路があるはずだ」
使者は頷いた。
「はい!」
アズバルは声を上げた。
「つまり、ローマは我が軍の補給路を明け渡せと言っているのだ!」
議員たちが騒ぎ始めた。
「そんな要求を受け入れられるか!」
「軍を増強するべきだ!」
「ローマに譲歩するな!」
議場の空気が、一気に変わった。
父の書簡は、そこで一度区切られていた。
俺は深く息を吐いた。
「……まずいな」
メルカルが尋ねた。
「どうしたんです?」
俺は答えた。
「カルタゴ政府の議論が、軍需契約から戦争そのものへ移っている」
メルカルは頷いた。
「……当然では?」
俺は静かに答えた。
「そうだね」
そして続けた。
「でも、戦争をするかどうかの判断は、一度決まると簡単には戻せない」
俺は書簡の続きを読んだ。
『アドン。
政府は、ローマとの戦闘について、正式な国家方針を決定するための会議を開くことになった。
議題は、ローマに対する軍事行動の承認である。』
俺は息を呑んだ。
「……ついに」
さらに続く。
『ハンノ殿は、戦争の拡大を避けるため、最後の外交交渉を提案している。』
俺は少し安心した。
だが、次の一文で表情が変わった。
『一方、アズバル・ハンノンは、ローマ軍への全面的な反撃を求めている。』
俺は深く息を吐いた。
「……そうか」
そして、最後の一文。
『政府内では、すでに意見が大きく分かれている。』
俺は書簡を閉じた。
その夜。
俺はハミルカル将軍へ報告した。
将軍は最後まで黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「……政府が決めることだ」
俺は頷いた。
「はい」
「我々軍人は、その決定に従う」
「……」
「だが、軍が戦える状態を維持する責任はある」
俺は頷いた。
「そのとおりです」
ハミルカルは続けた。
「アドン」
「はい」
「戦争が長引くなら、補給は今まで以上に重要になる」
俺は答えた。
「分かっています」
将軍は地図を広げた。
「ローマ側は兵を増やしている」
「はい」
「こちらも、兵を集めなければならん」
俺は頷いた。
「そうですね」
俺は静かに尋ねた。
「将軍。
もし政府が全面戦争を承認したら、どうしますか?」
ハミルカルは少し考えた。
そして答えた。
「戦う」
俺は黙った。
将軍は続けた。
「だが、無駄な戦いはしない」
「……」
「勝てる場所で戦う」
「……」
「補給を維持する」
「……」
「そして、兵士を無駄に死なせない」
俺は頷いた。
「……分かりました」
そのとき。
幕舎の外から、兵士の声が聞こえた。
「将軍!」
ハミルカルが顔を上げた。
「何だ?」
兵士が駆け込んできた。
「ローマ軍が、再び動き始めました!」
将軍が立ち上がった。
「どこへ?」
兵士は答えた。
「トゥリア川の上流です!」
俺は地図を見た。
上流。
そこには、別の浅瀬がある。
しかも、その先にはカルタゴ軍の補給路が続いている。
俺は眉をひそめた。
「……また渡河するつもりか」
兵士は続けた。
「さらに、ローマ側の騎兵が、上流の村へ向かっています!」
ハミルカルは地図を見つめた。
そして、静かに言った。
「……敵も考えているな」
俺は深く息を吐いた。
一度目の戦闘では、ローマ軍は川を渡れなかった。
だが、今回は別の場所を狙っている。
俺は静かに呟いた。
「……次の戦いが始まる」
その夜。
軍営では、兵士たちが出撃の準備を進めていた。
武器。
盾。
食料。
馬。
そして、負傷者を運ぶ荷車。
俺は補給記録を確認していた。
すると、メルカルが一枚の書簡を持ってきた。
「アドン殿」
「何?」
「カルタゴ本国から、追加の連絡です」
俺は受け取った。
差出人は父。
短い書簡だった。
『アドン。
政府の会議で、ローマに対する軍事行動の承認について採決が行われる。
結果は、まだ分からない。
ただし、政府内では、戦争を支持する声が急速に強まっている。』
俺は深く息を吐いた。
「……いよいよか」
そして、最後の一文を読んだ。
『ハンノ殿は、最後まで外交交渉の余地を残すよう求めている。』
俺は書簡を閉じた。
俺は軍営の外へ出た。
遠くに、ローマ側の篝火が見える。
以前より、ずっと多い。
川を挟んで、二つの軍隊が向かい合っている。
その間には、いくつもの村がある。
畑がある。
家がある。
そこで暮らす人たちがいる。
俺は静かに呟いた。
「……戦争を始めるのは、政治家かもしれない」
だが。
「……戦争で死ぬのは、兵士と住民なんだよな」
俺は拳を握った。
ここまで、戦争を止めようとしてきた。
だが、もう戦闘は起きている。
ならば。
次に考えるべきことは、戦争をどう終わらせるかだ。
俺は静かに呟いた。
「……勝つだけじゃ駄目だ」
カルタゴが勝っても、ローマが再び戦争を仕掛けてくれば意味がない。
ローマが勝っても、カルタゴが復讐を誓えば戦争は続く。
必要なのは。
双方が、これ以上戦う必要はないと思える状況を作ることだ。
だが。
そのためには、まず目の前の戦いを乗り越えなければならない。
翌朝。
ハミルカル将軍が、軍の指揮官たちを集めた。
マゴン。
アズルバル。
各部隊の隊長。
そして、補給担当の俺。
将軍は地図を広げた。
「ローマ軍は、上流から渡河を試みている」
全員が地図を見つめた。
ハミルカルは続けた。
「今回は、前回のように川岸で待つだけでは済まん」
マゴンが尋ねた。
「では、どうしますか?」
ハミルカルは答えた。
「敵が川を渡り切る前に、こちらの補給路を守る位置へ兵を移す」
マゴンが頷いた。
「承知しました」
将軍はさらに続けた。
「そして、敵が補給路へ進むなら迎え撃つ」
俺は深く息を吐いた。
「……分かりました」
ハミルカルは全員を見渡した。
そして、静かに言った。
「諸君」
幕舎が静まり返った。
「ローマ軍は、強い」
「……」
「だが、我々にも守るべきものがある」
「……」
「この戦いで、補給路を失えば、軍は動けなくなる」
将軍は剣を取った。
「だから、ここは譲れん」
指揮官たちが頷いた。
そして、ハミルカルは命令した。
「全軍、出撃準備!」
俺は軍営の外へ出た。
兵士たちが動き始めている。
槍を持つ者。
盾を背負う者。
馬に乗る者。
荷車を引く者。
そして、食料を積み込む者。
俺はメルカルを見た。
「……行こう」
メルカルが頷いた。
「はい」
俺たちも、補給隊の準備を始めた。
次の戦いは、前回より大きくなる。
ローマ軍は増援を受けている。
カルタゴ軍も、主力部隊を動かし始めている。
そして。
この戦いの結果によっては、カルタゴ政府が全面戦争を決断するかもしれない。
俺は深く息を吐いた。
「……歴史が、本当に変わるな」
だが、そのときの俺は、まだ知らなかった。
ローマ軍が上流へ向かった本当の目的が、単なる渡河ではなかったことを。
そして、その作戦が――ハミルカル将軍の軍を、補給路から切り離すためのものだったことを。




