第三十四話 軍の食料を止めた命令書を調べたら、政府が承認していない命令だった
ヒスパニア。
ハミルカル将軍の軍営で、俺は一枚の命令書を見つめていた。
『ヒスパニア方面軍補給契約移行通知』
その書類には、政府の印章が押されていた。
内容は簡単だ。
今後、軍への物資納入は政府指定商会を通すこと。
従来の商人による直接納入は、原則として停止すること。
そして、新しい補給契約については、政府指定商会の承認を必要とすること。
俺は書類を机に置いた。
「……これ、本当に政府の命令なんですか?」
補給担当のアズルバルが答えた。
「それを確認しているところです」
「印章は本物に見えますね」
「はい」
俺は頷いた。
だが、気になることがあった。
書類の末尾に書かれた日付だ。
政府の買い取り案が暫定承認された日よりも、前の日付になっている。
俺は眉をひそめた。
「……おかしいですね」
アズルバルが顔を上げた。
「何がです?」
「この通知、政府の暫定承認より前に発行されています」
「……はい」
「では、何を根拠に発行したんでしょう?」
アズルバルは黙った。
俺は書類をもう一度確認した。
発行者。
アズバル・ハンノンの補佐官。
政府の補給監督担当。
そして、政府の印章。
形式だけなら、正式な書類に見える。
だが。
「アズルバル殿」
「はい」
「この通知には、政府の決議番号がありませんね」
アズルバルが書類を覗き込んだ。
「……確かに」
「通常、こういう通知には根拠となる決議や命令が書かれているはずです」
アズルバルは頷いた。
「そうです」
俺は続けた。
「それがないということは、正式な決定ではなく、準備段階の通知だった可能性があります」
アズルバルは考え込んだ。
「……ほう」
俺はさらに尋ねた。
「この通知を最初に受け取ったのは誰ですか?」
アズルバルは答えた。
「現地の運送業者と穀物商です」
「軍ではなく?」
「はい」
俺は眉をひそめた。
「……軍に正式な命令が届く前に、商人へ通知したんですか?」
アズルバルは頷いた。
「そのようです」
俺は深く息を吐いた。
これは、かなり不自然だ。
軍の補給制度を変更するなら、まず軍の担当者へ通知するはずだ。
そのうえで、既存契約の扱いを決める。
そして、商人へ正式な説明を行う。
だが、今回は逆だった。
商人へ先に通知する。
商人が納入を止める。
その結果、軍の補給が遅れる。
俺は静かに呟いた。
「……先に現場を止めたのか」
翌朝。
俺は現地の穀物商を訪ねた。
名前はマルド。
以前から軍へ穀物を納入している商人だった。
「アドン殿」
「お久しぶりです」
マルドは疲れた顔をしていた。
「また面倒なことになりましたな」
俺は苦笑した。
「そうですね」
「軍へ穀物を届けようとしたら、止められたんですよ」
「誰にです?」
「政府指定商会の者です」
俺は顔を上げた。
「軍の兵士ではなく?」
マルドは頷いた。
「そうです」
「何と言われました?」
マルドは答えた。
「今後、軍へ直接納入することは禁止された、と」
俺は眉をひそめた。
「禁止?」
「はい」
「正式な政府命令を見せられましたか?」
マルドは頷いた。
「これです」
彼は一枚の書類を取り出した。
俺は受け取った。
先ほど軍営で見たものと、ほぼ同じ内容だった。
だが、一つだけ違う部分があった。
俺は書類を見比べた。
軍営に届いた通知。
マルドが受け取った通知。
文章は似ている。
だが、商人向けの通知には、次の一文が追加されていた。
『本通知に反して軍へ直接納入した商人は、今後の政府調達から除外される場合がある』
俺は眉をひそめた。
「……これは」
マルドが言った。
「怖くて納入できませんよ」
俺は頷いた。
「そうでしょうね」
「軍との契約は残っているんです」
「はい」
「でも、政府の仕事を全部失うかもしれないと言われたら……」
マルドは深く息を吐いた。
「家族も従業員もいますから」
俺は黙った。
商人にとって、政府との取引を失うことは大きな痛手だ。
特に、軍への納入を主な仕事にしている商人なら、なおさらだ。
俺は静かに言った。
「マルドさん。
あなたが納入を止めた理由は分かりました」
マルドは頷いた。
「ありがとうございます」
「ただ、この通知が正式なものかどうかは、まだ確認できていません」
「……え?」
俺は答えた。
「政府が本当に、そのような処分を決めたのか調べています」
マルドの顔色が変わった。
「……では、偽物かもしれないんですか?」
俺は首を振った。
「偽物と決まったわけではありません」
そして続けた。
「印章が本物でも、書かれた内容すべてが正式に承認されているとは限りませんから」
俺はマルドに尋ねた。
「この通知を持ってきた人物は覚えていますか?」
「はい」
「どんな人物でした?」
「三十歳くらいの男です」
「所属は?」
「政府指定商会の代理人だと言っていました」
俺は頷いた。
「商会の名前は?」
マルドは答えた。
「バアルハンノ商会です」
俺は深く息を吐いた。
「……やはり」
マルドは続けた。
「その男は、こう言いました」
「何と?」
「今後は、うちの穀物をバアルハンノ商会が買い取ることになる、と」
俺は顔を上げた。
「……買い取る?」
「はい」
「価格は?」
マルドは苦い顔をした。
「これまで軍へ売っていた価格より、二割ほど安い金額でした」
俺は黙った。
軍へ直接売ることはできない。
代わりに、バアルハンノ商会へ安く売る。
そして、バアルハンノ商会が軍へ高く売る。
俺は静かに呟いた。
「……ほう」
その日の午後。
俺は別の穀物商にも話を聞いた。
さらに、運送業者にも確認した。
すると、同じような話が出てきた。
政府指定商会の代理人が来た。
直接納入を止めるよう言われた。
代わりに、バアルハンノ商会を通すよう求められた。
そして、買い取り価格は以前より低い。
俺は記録を整理した。
メルカルが尋ねる。
「アドン様」
「何?」
「これって、商人たちから安く買って、軍へ高く売るためなんでしょうか?」
俺は答えた。
「その可能性はある」
「……ひどいですね」
「ただし、まだ全体の契約を確認できていない」
俺は続けた。
「中間の商会が輸送や保管を担当するなら、その費用がかかるのは当然だ」
メルカルは頷いた。
「はい」
「問題は、その費用に見合う仕事をしているかどうかだ」
俺は机の上に数字を書いた。
これまで。
現地商人から軍へ、穀物一袋を銀貨二枚で納入。
新しい案では。
現地商人からバアルハンノ商会へ、銀貨一枚と銅貨相当の端数を加えた価格。
そして、バアルハンノ商会から軍へ、銀貨三枚。
メルカルが目を丸くした。
「……ずいぶん差がありますね」
俺は頷いた。
「そうだね」
「差額は、全部バアルハンノ商会の利益ですか?」
俺は首を振った。
「そうとは限らない」
「……?」
「輸送費や保管費が含まれているかもしれない」
メルカルは頷いた。
「ほう」
俺は続けた。
「でも、実際の輸送距離や保管期間を考えると、説明が必要な差額だね」
翌日。
俺はハミルカル将軍へ報告した。
将軍は最後まで黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「……つまり、軍の補給を止めているのは、政府の正式な命令とは限らんのだな?」
俺は頷いた。
「はい」
「しかも、商人たちは政府から取引を排除されることを恐れている」
「そのとおりです」
ハミルカルは腕を組んだ。
「……厄介だな」
俺は続けた。
「将軍。
軍の既存契約は、正式に破棄されていないはずです」
「そうだ」
「ならば、契約に基づく納入を受けることは可能ではありませんか?」
ハミルカルは少し考えた。
「軍の法務担当に確認させよう」
俺は頷いた。
「お願いします」
数日後。
軍の担当者による確認が終わった。
結論は明確だった。
既存の補給契約について、正式な解除命令は確認されていない。
また、政府指定商会への移行についても、軍へ正式な実施命令は届いていなかった。
ハミルカルは静かに言った。
「ならば、既存契約に基づく納入を再開する」
アズルバルが頷いた。
「承知しました」
俺は少し安心した。
だが、将軍は続けた。
「ただし、商人たちへ強制はしない」
俺は頷いた。
「そのとおりです」
「政府からの処分を恐れている者もいる」
「はい」
ハミルカルは言った。
「軍として、正式な契約が有効であることを文書で示そう」
俺は頷いた。
「それなら、商人たちも判断しやすくなります」
翌朝。
軍から、既存契約の有効性を確認する通知が出された。
内容は簡潔だった。
『正式な解除命令が確認されていない既存の補給契約については、従来の条件に基づく納入を受け付ける』
さらに。
『納入の記録、数量、価格については、従来どおり確認を行う』
俺はその通知を見て頷いた。
「……これなら大丈夫そうですね」
アズルバルが答えた。
「少なくとも、軍としての立場は明確になりました」
数日後。
マルドが軍営へ穀物を運んできた。
荷車は五台。
積まれているのは、乾燥した穀物の袋だった。
俺は思わず笑った。
「マルドさん!」
マルドも笑った。
「アドン殿!」
「納入を再開できたんですね」
「はい」
マルドは頷いた。
「軍から正式な通知をいただきましたので」
俺は少し安心した。
「よかったです」
マルドは続けた。
「ただ、ほかの商人はまだ迷っています」
俺は頷いた。
「そうでしょうね」
「政府指定商会から、また何か言われるかもしれませんから」
俺は静かに答えた。
「その問題も、調べています」
だが、穀物の納入が再開された翌日。
新しい問題が発生した。
バアルハンノ商会の代理人が、軍営へ抗議に来たのだ。
男は立派な服を着ていた。
三十代半ば。
名前はサルド。
彼はハミルカル将軍の前で、強い口調で言った。
「将軍!」
ハミルカルは静かに答えた。
「何だ?」
「政府の補給制度に反する行為は、お控えいただきたい!」
将軍は眉をひそめた。
「正式な命令は届いていない」
サルドは答えた。
「移行通知は発行されています!」
ハミルカルは静かに言った。
「通知と、正式な実施命令は違う」
サルドは一瞬、言葉を失った。
俺は横から尋ねた。
「サルド殿」
男が俺を見た。
「何だ?」
「確認したいことがあります」
「何だ?」
「あなたが商人たちへ渡した通知には、政府調達からの除外について書かれていましたね?」
サルドは頷いた。
「当然だ」
俺は続けた。
「その処分は、誰が決定したものですか?」
サルドは眉をひそめた。
「政府だ」
「政府のどの機関です?」
「補給監督担当だ」
俺は頷いた。
「その処分を認める正式な決定書はありますか?」
サルドは黙った。
俺は続けた。
「確認できるなら、見せていただきたいんです」
サルドは顔を赤くした。
「商人風情が、政府の決定に口を出すのか!」
俺は静かに答えた。
「政府の決定なら、確認するだけです」
「……」
「ただ、政府が決めていないことを、政府の名前で伝えているなら問題になります」
サルドは黙った。
ハミルカルが口を開いた。
「サルド」
「……はい」
「私は政府の監督を拒んでいるわけではない」
「はい」
「だが、正式な命令が確認できない以上、軍の食料を止めるわけにはいかん」
サルドは歯を食いしばった。
将軍は続けた。
「必要なら、本国へ確認する」
「……」
「それまでは、既存契約に基づく納入を続ける」
サルドは深く頭を下げた。
「……承知しました」
だが、その目には明らかな不満が浮かんでいた。
その夜。
俺はメルカルと記録を整理していた。
「……何とか食料は入ってきましたね」
メルカルが言った。
俺は頷いた。
「そうだね」
「これで問題は解決ですか?」
俺は首を振った。
「まだだよ」
「……?」
俺は答えた。
「正式な命令が出ていないことは確認できた」
「はい」
「でも、誰が商人向けの通知を作ったのかは、まだ分からない」
メルカルは頷いた。
「そうですね」
俺は続けた。
「政府の印章が使われている以上、どこかで正式な書類の作成手続きが関係しているはずだ」
「……ほう」
「そして、政府調達からの除外という脅し文句が、誰の判断で追加されたのかも調べる必要がある」
翌朝。
俺はサルドが持っていた通知の写しを、改めて確認した。
すると、末尾に小さな文字が書かれていた。
『補給監督室発行』
その下に、さらに短い記号がある。
俺は眉をひそめた。
「……何だ、これ?」
メルカルが覗き込む。
「書類の番号ですか?」
「そうかもしれない」
俺は頷いた。
「でも、通常の決議番号とは違う」
メルカルは考え込んだ。
「……内部の管理番号でしょうか?」
俺は答えた。
「その可能性がある」
そして、以前カルタゴ政府の監査で使われた書類を取り出した。
父の商会を調べたときの通知だ。
そこにも、似た記号が書かれていた。
俺は二枚を並べた。
「……あれ?」
メルカルが顔を上げる。
「どうしました?」
俺は指差した。
「この記号、同じ形式だ」
メルカルが覗き込んだ。
「……本当ですね」
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
以前、父の商会に監査が入った。
その際、政府の監査担当者が、軍の補給情報まで要求してきた。
そして、その情報の一部が民間倉庫へ渡っていた。
今回の補給移行通知。
その管理番号が、監査書類と同じ形式になっている。
俺は静かに呟いた。
「……同じ部署が関係しているのかもしれない」
メルカルが尋ねた。
「アズバル・ハンノンの部署ですか?」
俺は答えた。
「少なくとも、補給監督に関わる部署だと思う」
「……」
「ただし、同じ形式だからといって、同じ人物が作ったとは限らない」
メルカルは頷いた。
「そうですね」
俺は続けた。
「だから、本国の発行記録を確認する必要がある」
俺はハンノへ書簡を書いた。
『政府指定商会への移行通知について、正式な実施命令が確認できない段階で、現地商人への直接納入停止が通知されていました。
また、商人向け通知には、政府調達からの除外を示唆する文章が追加されています。
この処分を認める正式な決定については、現時点で確認できていません。
通知末尾には、補給監督室の内部管理番号と思われる記号があります。
過去の監査通知と形式が似ているため、発行記録との照合をお願いします。』
俺は封を閉じた。
そして、メルカルへ渡した。
「これをカルタゴへ送ってくれ」
「分かりました」
それから十日ほどが過ぎた。
軍の補給は、少しずつ正常に戻り始めていた。
だが、すべての商人が納入を再開したわけではない。
政府指定商会からの圧力を恐れている者もいる。
一方、カルタゴ本国では、補給制度を巡る議論が続いていた。
そして、ある日の午後。
ハンノから返事が届いた。
俺はすぐに封を開いた。
『アドン。
補給移行通知について、政府の発行記録を確認した。
その結果、正式な補給制度変更の決議は、通知発行時点では存在していなかった。』
俺は頷いた。
「……やっぱり」
だが、続きを読んだ瞬間、手が止まった。
『ただし、通知に押されていた印章は、政府の正式な印章である可能性が高い。』
俺は眉をひそめた。
「……本物?」
さらに続く。
『補給監督室では、制度変更の準備に関する通知を作成していた。
しかし、現地商人への直接納入停止や、政府調達からの除外を命じる内容は、確認された原案には存在しない。』
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
正式な準備通知は存在した。
だが、その内容が変更されている。
誰かが文章を追加した。
そして、政府の印章を使って配布した。
俺は静かに呟いた。
「……政府の書類を利用したのか」
俺は最後の部分を読んだ。
『現在、通知の作成と配布に関わった担当者を確認している。
その過程で、一つ重要な事実が判明した。
補給監督室の原案を、政府指定商会へ渡す前に受け取った人物がいる。』
俺は顔を上げた。
「……誰だ?」
続きを読んだ。
『その人物は、アズバル・ハンノンの補佐官である。』
俺は深く息を吐いた。
「……やっぱり、そこに繋がるのか」
だが、まだ決定的ではない。
補佐官が書類を受け取っただけなら、通常の業務かもしれない。
問題は、その後だ。
誰が文章を追加したのか。
誰が政府の印章を使ったのか。
誰がバアルハンノ商会へ配布を指示したのか。
俺は静かに言った。
「……次は、書類がどこで書き換えられたのかを調べる必要があるな」
メルカルが頷いた。
「はい」
だが、その日の夕方。
さらに一通の書簡が届いた。
差出人は、カルタゴにいる父だった。
俺は封を開いた。
『アドン。
補給監督室の書類について、調査が進んでいる。
その中で、今回の通知とは別に、もう一つ不審な書類が見つかった。』
俺は眉をひそめた。
「……別の書類?」
続きを読んだ。
『それは、ヒスパニア方面軍の指揮権について、政府が緊急時に介入するための準備文書だ。』
俺は息を呑んだ。
「……指揮権?」
さらに続く。
『文書には、補給の混乱によって軍の行動に支障が生じた場合、方面軍の指揮体制を一時的に変更できるようにする案が記載されている。』
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
補給を止める。
軍が動けなくなる。
その混乱を理由に、将軍の指揮権へ介入する。
俺は静かに呟いた。
「……やっぱり、そこまで考えていたのか」
だが、父の書簡には、さらに恐ろしい一文があった。
『なお、その準備文書には、すでに次の指揮官候補の名前が記載されていた。』
俺は続きを読んだ。
そこには、こう書かれていた。
『暫定指揮官候補 マゴン』
俺はしばらく動けなかった。
マゴン。
以前、ハミルカル将軍の一時的な職務停止が提案されたときにも、名前が挙がった人物だ。
俺は静かに呟いた。
「……補給を止めて、将軍を交代させるつもりだったのか?」
だが、本当に恐ろしいのは、その先だった。
マゴン本人が、この計画を知っているのかどうか。
もし知っているなら、軍の内部にも協力者がいる。
もし知らないなら、マゴンもまた政治家たちに利用されていることになる。
俺は書簡を閉じた。
そして、決めた。
次に確認するべき相手は、商人でも役人でもない。
ハミルカル将軍の後任に指名されようとしている、マゴン本人だった。




