第三十三話 軍の食料を買い戻そうとしたら、将軍から補給の権限まで奪われそうになった
サグントゥム。
俺は父から届いた書簡を、もう一度読み直していた。
『政府が買い取ろうとしている物資の中に、すでにヒスパニア方面軍が購入したものが含まれている可能性がある』
問題は、それだけではなかった。
書簡の最後には、もう一つ気になる文章があった。
『なお、今回の買い取り案には、物資の所有権だけでなく、今後の補給契約に関する権限を政府へ移す条項が含まれている』
俺は手を止めた。
「……補給契約の権限?」
メルカルが顔を上げる。
「どうしました?」
俺は書簡を渡した。
メルカルは読み終えると、首を傾げた。
「政府が軍の物資を管理するということですか?」
「それだけなら、まだ分かる」
俺は答えた。
「軍の予算は政府が認めている。
支出を監督するのも当然だ」
「はい」
「でも、補給契約を結ぶ権限まで取り上げるとなると、話が違う」
メルカルは考え込んだ。
「……どう違うんです?」
俺は机に地図を広げた。
「例えば、ハミルカル将軍の軍が、この場所にいるとする」
ヒスパニア内陸部を指差す。
「食料が不足したら、どうする?」
「近くの村や商人から購入します」
「そうだね」
俺は頷いた。
「でも、その契約をカルタゴ本国でしか結べなくなったら?」
メルカルの表情が変わった。
「……返事を待つ必要があります」
「その間、兵士は何を食べる?」
メルカルは黙った。
俺は静かに言った。
「政府が金を管理することと、現地で食料を買う判断まで政府が握ることは、別の問題なんだ」
翌朝。
俺はハミルカル将軍の軍営へ向かった。
将軍に会うのは、数日ぶりだった。
幕舎に入ると、ハミルカルは地図を見ていた。
隣には、補給担当のアズルバルがいる。
「アドン」
「将軍。
お時間をいただき、ありがとうございます」
ハミルカルは頷いた。
「カルタゴ政府の買い取り案だな?」
俺は驚いた。
「もうご存じですか?」
「本国から知らせが来た」
将軍は一枚の書簡を差し出した。
「読んでみろ」
俺は受け取った。
そこには、政府の新しい方針が書かれていた。
『ヒスパニア方面軍補給安定化措置』
名前だけなら、立派なものだった。
軍の食料を確保する。
物資の価格を統一する。
不正な支出を防ぐ。
補給契約を整理する。
どれも必要なことだ。
だが、途中の一文を読んだ瞬間、俺は眉をひそめた。
『政府指定商会による補給体制への移行後、方面軍が独自に締結する補給契約は、原則として新規の効力を認めない』
俺は顔を上げた。
「……これは」
ハミルカルが頷いた。
「気づいたか」
俺は答えた。
「将軍が現地の商人と新しい契約を結べなくなる可能性があります」
「そうだ」
アズルバルが低い声で言った。
「しかも、例外についての説明が曖昧なのです」
俺は続きを読んだ。
『緊急時の調達については、政府が別途定める手続きによる』
別途定める。
つまり、まだ決まっていない。
俺は深く息を吐いた。
「……危険ですね」
ハミルカルは頷いた。
「政府の監督は必要だ」
「はい」
「だが、戦場で必要な食料を買うために、毎回本国の許可を待つわけにはいかん」
俺は答えた。
「そのとおりです」
将軍は地図を指差した。
「先月、北の部族との交渉で予定が変わった」
「はい」
「兵士の移動先も変わった」
「はい」
「そのため、現地の商人から追加の穀物を購入した」
俺は頷いた。
「必要な対応だと思います」
ハミルカルは静かに言った。
「だが、この案がそのまま実施されれば、それができなくなるかもしれん」
アズルバルが記録を広げた。
「さらに問題があります」
俺は顔を上げた。
「何でしょう?」
「政府指定商会の一覧です」
そこには、五つの商会が記載されていた。
そのうち二つには、見覚えがあった。
バアルハンノ商会。
そして、バアルハンノ商会と長く取引している別の商会。
俺は眉をひそめた。
「……五つですか」
アズルバルは頷いた。
「はい」
「ほかの商人は?」
「原則として、この五つの商会を経由することになります」
俺は考え込んだ。
「つまり、現地の小さな商人が軍へ直接納入できなくなる?」
「その可能性があります」
俺は深く息を吐いた。
以前、俺たちは現地の商人や村と直接契約を結んだ。
食料を適正価格で買う。
代金を支払う。
無理な徴発をしない。
そうすることで、部族との関係が改善した。
だが、指定商会だけが軍へ納入できるようになれば。
小さな商人は、その商会へ売るしかなくなる。
そして、指定商会が買い取り価格を決めるようになったら。
俺は静かに呟いた。
「……軍の問題だけでは済みませんね」
ハミルカルが俺を見た。
「どういうことだ?」
「現地の商人も、農民も、指定商会に依存することになります」
俺は答えた。
「政府は補給を安定させるつもりでも、実際には一部の商会へ取引が集中する可能性があります」
アズルバルが頷いた。
「その懸念はあります」
ハミルカルは腕を組んだ。
「アドン。
お前ならどうする?」
俺は少し考えた。
「政府が補給を監督することには賛成です」
将軍が頷いた。
「続けろ」
「ですが、現地での調達権限は残すべきです」
「どの程度だ?」
俺は答えた。
「通常の補給は、政府が認めた予算と価格の範囲で、現地の担当者が契約できるようにする」
アズルバルが頷いた。
「ほう」
「緊急時には、一定額まで現地で購入できるようにする」
「はい」
「そして、購入後に数量、価格、納入先を記録して、政府へ報告する」
ハミルカルは考え込んだ。
俺は続けた。
「重要なのは、誰が買うかを一つの商会に固定しないことです」
「……」
「複数の商会から買えるようにしておけば、一つの商会が納入できなくなっても、別の商会を使えます」
ハミルカルは頷いた。
「理にかなっている」
そのとき、アズルバルが別の記録を取り出した。
「アドン殿。
もう一つ、確認していただきたいことがあります」
「何でしょう?」
「以前、民間倉庫へ移された軍の物資についてです」
俺は顔を上げた。
「例の物資ですね」
アズルバルは頷いた。
「はい」
彼は二枚の記録を並べた。
一枚目は、軍の購入記録。
二枚目は、民間倉庫への移送記録。
俺は数量を確認した。
穀物百袋。
鉄材五十束。
革製品二十箱。
そして、それぞれの荷札番号。
俺は静かに言った。
「……一致していますね」
アズルバルは頷いた。
「はい」
「所有権の移転記録は?」
「確認できていません」
俺は眉をひそめた。
「では、軍の物資のままということですか?」
アズルバルは慎重に答えた。
「少なくとも、我々が確認できる記録では、軍から民間商会へ売却した事実はありません」
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
だが、アズルバルは続けた。
「問題は、その先です」
彼は三枚目の記録を取り出した。
バアルハンノ商会の在庫一覧。
そこには、同じ荷札番号が記載されていた。
さらに。
政府の買い取り予定表にも、同じ番号があった。
俺は思わず呟いた。
「……本当に同じ物資だ」
アズルバルは頷いた。
「その可能性が極めて高いと考えています」
俺は記録を見つめた。
軍が購入した。
民間倉庫へ移された。
商会の在庫になった。
そして、政府が買い取ろうとしている。
だが、所有権が移った記録はない。
俺は静かに言った。
「……政府が、自分の物資を買い戻そうとしている可能性がありますね」
ハミルカルの表情が険しくなった。
「そういうことだ」
俺はアズルバルに尋ねた。
「民間倉庫への移送を命じた人物は分かりますか?」
アズルバルは頷いた。
「書類上は、政府の補給監督担当者です」
「名前は?」
アズルバルは答えた。
「カルタゴ本国から派遣された役人です」
俺は眉をひそめた。
「その役人は、今どこに?」
「すでに本国へ戻っています」
俺は考え込んだ。
「……ほう」
以前、政府の監査担当者が軍の補給情報を入手し、その情報が民間倉庫へ渡っていた。
今回の移送記録も、政府側の担当者が関係している。
ただし、同じ人物かどうかは分からない。
俺は静かに言った。
「政府の記録と照合する必要がありますね」
アズルバルが頷いた。
「そのとおりです」
俺はハミルカルに尋ねた。
「将軍。
軍の物資を勝手に売却した者がいるなら、調査は可能ですか?」
ハミルカルは答えた。
「軍の内部については調べられる」
「はい」
「だが、政府の役人や本国の商会については、私の権限だけでは限界がある」
俺は頷いた。
「分かりました」
将軍は続けた。
「だからこそ、本国の調査が必要なのだ」
俺は静かに答えた。
「ハンノ殿へ報告します」
その日の午後。
俺は軍営で補給記録を整理していた。
すると、ハンニバルがやってきた。
「アドン」
「何です?」
少年は机の上の書類を覗き込んだ。
「また食料の計算か?」
「そうですよ」
「お前はいつも食料の話をしているな」
俺は笑った。
「兵士は食べないと動けませんから」
ハンニバルは頷いた。
「それは分かる」
そして、少し考えた。
「でも、父上が食料を買えなくなったら、どうするんだ?」
俺は顔を上げた。
「……どういうことです?」
ハンニバルは答えた。
「政府が食料を送ってこなかったら?」
俺は黙った。
少年は続けた。
「父上は、兵士を動かせなくなる」
「そうですね」
「敵が攻めてきても?」
俺は答えた。
「備蓄があれば、しばらくは動けます」
ハンニバルは首を傾げた。
「備蓄がなくなったら?」
俺は静かに答えた。
「……かなり危険ですね」
ハンニバルは頷いた。
「じゃあ、食料を送る人間が、父上より強いのか?」
俺は思わず黙った。
ハンニバルは不思議そうに俺を見た。
「違うのか?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「場合によっては、そうなるかもしれません」
少年は頷いた。
「やっぱり」
俺は机の上の書類を見つめた。
政府が補給契約を管理する。
指定商会が物資を運ぶ。
将軍は現地で購入できない。
そして、指定商会が納入を止めれば。
軍は食料を失う。
俺は静かに呟いた。
「……ほう」
ハンニバルが尋ねた。
「何が?」
俺は答えた。
「今回の案は、単に金を管理するためのものではないかもしれません」
「……?」
「軍の行動を、補給によって制限する仕組みにもなるんです」
ハンニバルは少し考えた。
そして言った。
「……だったら、父上は困るな」
俺は頷いた。
「そうですね」
その夜。
俺はハミルカル将軍へ、補給制度についての意見書を提出した。
内容は三つ。
政府による予算と支出の監督。
現地での限定的な調達権限。
そして、複数の商会による補給体制。
さらに、軍の既存物資について、所有権を確認するまで買い取り対象から除外することを提案した。
ハミルカルは意見書を読み終えると、静かに言った。
「……よく整理されている」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
将軍は続けた。
「だが、政府が受け入れるとは限らん」
俺は頷いた。
「承知しています」
「アズバル・ハンノンは、簡単には引かないだろう」
俺は答えた。
「そうでしょうね」
ハミルカルは少し笑った。
「それでも、やるのか?」
俺も笑った。
「ここまで来たら、途中でやめるわけにはいきませんから」
数日後。
俺はサグントゥムへ戻った。
ネロンの商会には、カルタゴ本国から新しい書簡が届いていた。
差出人は父。
俺はすぐに封を開いた。
『アドン。
ハンノ殿が政府の買い取り案について、正式な再審査を求めた。
軍の現在庫との照合が終わっていないこと。
商会の在庫表に重複が確認されたこと。
安全保障協力費の内容が不明確であること。
これらを理由に、支払いの延期を主張している。』
俺は少し安心した。
「……よかった」
だが、続きを読んだ瞬間、表情が変わった。
『しかし、アズバル・ハンノンは、買い取り案と補給制度の変更を一体の政策として扱うべきだと主張している。』
俺は眉をひそめた。
「……一体の政策?」
さらに続く。
『そのため、買い取り案を延期する場合、ヒスパニア方面軍への補給制度の移行も遅れると説明している。』
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
物資の買い取り。
補給契約の管理。
そして、政府指定商会への集中。
すべてを一つの案にまとめている。
つまり、買い取り案を止めようとすると。
軍の補給制度の整備まで妨げているように見える。
俺は静かに呟いた。
「……うまいこと考えるな」
メルカルが尋ねた。
「どういうことです?」
俺は答えた。
「必要な改革と、問題のある支出を一緒にしているんだ」
「……」
「そうすると、問題のある部分だけを止めるのが難しくなる」
メルカルは考え込んだ。
「……では、どうするんです?」
俺は答えた。
「分ければいい」
「分ける?」
「そう」
俺は頷いた。
「補給制度の改革は進める」
「はい」
「でも、問題のある買い取り契約は、確認が終わるまで止める」
メルカルは顔を上げた。
「ほう」
俺は少し笑った。
「必要なことまで止める理由はないからね」
俺はすぐに父とハンノへ書簡を書いた。
『補給制度の改革と、特定商会からの軍需物資買い取りは、別々に審議することを提案します。
政府による監督強化には賛成です。
ただし、現地での調達権限を完全に失わせることには反対します。
また、軍がすでに所有している可能性のある物資について、所有権の確認が終わるまで買い取り対象から除外するべきです。』
俺は封を閉じた。
そして、メルカルに渡した。
「次の船で送ってくれ」
「分かりました」
だが、その日の夕方。
ネロンが慌ててやってきた。
「アドン殿!」
「どうしました?」
ネロンは一枚の書簡を差し出した。
「ハミルカル将軍の軍営から、急ぎの知らせです!」
俺は受け取った。
封を開く。
差出人はアズルバルだった。
『アドン殿。
政府指定商会の補給体制について、現地の一部商会へ通知が届いた。
その通知には、今後、軍の補給契約を政府指定商会へ順次移行するよう記載されている。
しかし、正式な移行手続きはまだ完了していない。』
俺は眉をひそめた。
「……もう通知が?」
続きを読んだ。
『さらに、複数の現地商人が、軍への直接納入を断られたと報告している。』
俺は息を呑んだ。
「……何?」
メルカルが尋ねた。
「どうしました?」
俺は答えた。
「まだ制度が正式に決まっていないのに、現地の商人が軍へ物資を納入できなくなっている」
メルカルの顔色が変わった。
「……そんな」
俺は深く息を吐いた。
「……まずいな」
書簡は続いていた。
『この影響により、一部の補給拠点で、予定されていた穀物の納入が遅れている。
現時点で軍の備蓄に重大な不足は生じていないが、遅延が続けば問題となる可能性がある。』
俺は机に地図を広げた。
補給拠点。
交易路。
軍の駐屯地。
そして、政府指定商会の倉庫。
俺は静かに言った。
「……制度が決まる前に、現場が動き始めている」
メルカルが頷いた。
「はい」
俺は続けた。
「しかも、軍の補給が遅れ始めている」
「……どうします?」
俺は答えた。
「まず、誰がその通知を出したのか確認する」
メルカルは頷いた。
「はい」
俺は続けた。
「そして、現地の商人が納入できなくなった理由を調べる」
翌朝。
俺は再びハミルカル将軍の軍営へ向かった。
将軍は、すでに問題を把握していた。
「アドン」
「将軍」
俺は頭を下げた。
ハミルカルは一枚の書簡を差し出した。
「これを見ろ」
俺は受け取った。
政府指定商会への移行通知。
そこには、こう書かれていた。
『ヒスパニア方面軍の補給契約について、政府指定商会による一元的な管理へ移行するものとする』
俺は眉をひそめた。
「……正式な決定ですか?」
ハミルカルは首を振った。
「まだだ」
俺は顔を上げた。
「では、なぜ?」
将軍は静かに答えた。
「それを調べている」
俺は書簡の末尾を確認した。
発行者の名前。
そして、印章。
そこには、見覚えのある名前が記載されていた。
アズバル・ハンノン。
俺は深く息を吐いた。
「……また、この人か」
だが、次の瞬間。
俺は、さらに重要なことに気づいた。
通知の中には、こう書かれていた。
『政府指定商会への移行が完了するまで、既存の補給契約については、新規納入を原則として停止する』
俺は息を呑んだ。
「……停止?」
ハミルカルが頷いた。
「そうだ」
俺は顔を上げた。
「新しい補給体制が整う前に、今の補給を止めるんですか?」
将軍は静かに答えた。
「そのように読める」
俺はしばらく黙った。
これは危険だ。
新しい制度を作る。
そのために、古い制度を止める。
だが、新しい制度はまだ動いていない。
つまり、その間、軍への補給が途切れる。
俺は静かに呟いた。
「……補給の空白ができますね」
ハミルカルは頷いた。
「そういうことだ」
俺は将軍に尋ねた。
「現時点で、何日分の食料がありますか?」
ハミルカルはアズルバルを見た。
アズルバルが答えた。
「拠点によって異なります」
「はい」
「主力軍の備蓄は、当面の行動に支障がない水準です」
俺は頷いた。
「では、問題は?」
アズルバルは地図を指差した。
「こちらの補給拠点です」
俺は顔を上げた。
内陸の小さな拠点だった。
「ここは?」
「周辺の部族との交易路を守るために置いている部隊です」
俺は頷いた。
「ほう」
アズルバルは続けた。
「この拠点では、現地商人からの穀物納入が遅れています」
「どれくらい?」
「予定より数日です」
俺は考え込んだ。
「……備蓄は?」
アズルバルは静かに答えた。
「節約すれば、しばらく持ちます」
俺は深く息を吐いた。
「……急ぐ必要がありますね」
そのとき。
ハミルカルが静かに言った。
「アドン」
「はい」
「政府は、軍を監督する権限を持っている」
俺は頷いた。
「承知しています」
「だが、正式な決定がない段階で、補給を止める命令が出ている」
「はい」
将軍は続けた。
「これが単なる手続きの混乱なのか」
「……」
「それとも、意図的なものなのか」
俺は答えた。
「まだ分かりません」
ハミルカルは頷いた。
「そうだ」
そして、静かに言った。
「だからこそ、証拠が必要だ」
俺は深く息を吐いた。
「……分かりました」
その日の夜。
俺は軍営で記録を整理していた。
政府の買い取り案。
補給制度の変更案。
現地商人への通知。
そして、納入停止の記録。
すべてを並べる。
すると、一つのことが見えてきた。
買い取り案が審議される。
政府指定商会への移行が提案される。
正式な決定前に、現地商人へ通知が出る。
そして、軍への納入が止まり始める。
俺は静かに呟いた。
「……順番がおかしい」
メルカルが尋ねた。
「何がです?」
俺は答えた。
「普通なら、新しい補給体制を準備してから、古い体制を切り替える」
「はい」
「でも、今回は逆だ」
メルカルは顔を上げた。
「……先に古い体制を止めている?」
俺は頷いた。
「そう」
そして、静かに続けた。
「新しい制度を必要にするために、今の制度を壊しているようにも見える」
そのとき。
幕舎の外から、慌ただしい足音が聞こえた。
「失礼します!」
若い兵士が入ってきた。
「アズルバル殿から、急ぎの報告です!」
俺は顔を上げた。
「何があった?」
兵士は答えた。
「内陸の補給拠点で、穀物の納入が完全に止まりました!」
俺は息を呑んだ。
「……完全に?」
「はい!」
兵士は続けた。
「現地商人たちが、政府指定商会の許可がなければ納入できないと言われているそうです!」
俺は深く息を吐いた。
「……まずい」
だが、兵士の報告はそれだけではなかった。
「さらに、政府指定商会から、新しい納入条件が提示されました!」
俺は顔を上げた。
「どんな条件です?」
兵士は答えた。
「従来の価格より高い価格での購入を求めています!」
俺は眉をひそめた。
「……どれくらい?」
兵士は答えた。
「穀物の価格が、これまでの一・五倍です!」
俺はしばらく黙った。
現地商人から買えない。
政府指定商会からしか買えない。
そして、その商会は価格を引き上げる。
俺は静かに呟いた。
「……ほう」
メルカルが尋ねた。
「どうするんですか?」
俺は答えた。
「まず、正式な命令か確認する」
そして、立ち上がった。
「そのうえで、軍の食料を確保する方法を考える」
翌朝。
俺はハミルカル将軍のもとへ向かった。
将軍は、すでに報告を受けていた。
「アドン」
「将軍」
俺は頭を下げた。
ハミルカルは静かに言った。
「補給拠点の食料が不足し始めている」
俺は頷いた。
「はい」
「現地商人は納入を止められている」
「はい」
「政府指定商会は価格を引き上げた」
俺は深く息を吐いた。
「……そうですね」
ハミルカルは俺を見た。
「どうする?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「まず、政府の正式な決定が出ているか確認します」
「……」
「出ていないなら、既存の契約を有効なものとして扱える可能性があります」
ハミルカルは頷いた。
「そのとおりだ」
俺は続けた。
「そして、補給拠点の食料が不足する前に、現地商人から必要な分だけ購入する」
「……」
「ただし、すべて記録を残します」
ハミルカルは静かに言った。
「よし」
将軍はアズルバルを呼んだ。
「正式な政府命令を確認しろ」
「承知しました」
「既存の補給契約が有効なら、必要な納入を再開する」
「はい」
「そして、政府指定商会の新しい価格についても、記録を残せ」
アズルバルは頷いた。
「承知しました」
俺は深く息を吐いた。
これで、少なくとも食料不足は避けられるかもしれない。
だが、その日の午後。
カルタゴ本国から、さらに新しい書簡が届いた。
差出人はハンノ。
俺は封を開いた。
『アドン。
政府の買い取り案について、重大な問題が確認された。
軍需物資の買い取り契約に関する権限を政府指定商会へ移す条項が、当初の提案書には存在していなかった。』
俺は手を止めた。
「……何?」
続きを読んだ。
『その条項は、審議の途中で追加されたものだ。
しかも、追加された時点で、十分な説明が行われていなかった。』
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
つまり、最初は、軍需物資の買い取り案だった。
だが、途中で補給契約の権限移転が追加された。
そして、その変更が十分に説明されないまま、審議が進んでいた。
俺は静かに呟いた。
「……買い取り案に、別の目的を隠していたのか」
メルカルが顔を上げた。
「どういうことです?」
俺は答えた。
「政府の金で物資を買う話に見せかけて、軍の補給契約を管理する権限まで移そうとしていたんだ」
メルカルは黙った。
俺は続けた。
「しかも、その権限を政府指定商会へ集中させる」
「……」
「そうなれば、ハミルカル将軍は、軍を動かすための食料を自由に確保できなくなる」
メルカルは深く息を吐いた。
「……それは、将軍を失脚させるためですか?」
俺は首を振った。
「まだ、そこまでは断定できない」
そして、静かに続けた。
「でも、少なくとも将軍の行動を制限する仕組みにはなる」
俺は書簡の最後を読んだ。
そこには、こう書かれていた。
『なお、追加条項を作成した担当者について、現在確認を進めている。
現時点では、アズバル・ハンノンの補佐官が関与した可能性がある。』
俺は深く息を吐いた。
「……また、そこに繋がるのか」
だが、まだ終わりではなかった。
書簡には、最後に一文が付け加えられていた。
『さらに、政府指定商会への移行通知について、正式な承認前に発行された可能性がある。
もし事実であれば、政府の決定を待たずに、現地の補給体制が変更されたことになる。』
俺は静かに呟いた。
「……先に現場を動かしたのか」
そして、気づいた。
もし、現地の補給が止まれば。
軍は食料不足になる。
食料不足になれば。
政府指定商会から、高い価格で買わざるを得なくなる。
その結果。
政府の買い取り案が必要だという説明が、ますます強くなる。
俺は深く息を吐いた。
「……これは、よくできた仕組みだな」
メルカルが尋ねた。
「どういうことです?」
俺は答えた。
「自分たちで問題を作る」
「……」
「そして、その問題を解決するために、自分たちの案が必要だと主張する」
メルカルは顔を上げた。
「……そんなことが」
俺は静かに言った。
「もし意図的なら、かなり悪質だ」
その夜。
俺は机の上に地図を広げた。
ヒスパニア方面軍。
補給拠点。
現地商人。
政府指定商会。
そして、カルタゴ本国。
すべてが、一本の線で繋がっている。
その線の途中に、バアルハンノ商会がある。
そして、その背後には、アズバル・ハンノンの名前が見え隠れしている。
俺は静かに呟いた。
「……軍の補給を握れば、軍を動かせる」
だが、本当に恐ろしいのは、それだけではない。
補給を止めれば、軍は動けなくなる。
軍が動けなくなれば、周辺の部族は不安になる。
不安になれば、交易路が閉ざされる。
交易路が閉ざされれば、さらに補給が難しくなる。
そして。
その混乱を理由に、政府が軍の指揮権へ介入することもできる。
俺は深く息を吐いた。
「……これは、単なる商売の問題じゃないな」
メルカルが尋ねた。
「では、何の問題です?」
俺は静かに答えた。
「カルタゴの軍隊を、誰が動かすのかという問題だよ」
そして、俺は決めた。
次に調べるべきものは、軍需物資の値段ではない。
補給制度の変更案でもない。
政府の正式な承認が出る前に、誰が現地商人へ納入停止を命じたのか。
その命令の出所を突き止めることだった。




