第三十話 ローマの使節に戦争を止めろと言われたので、先に届いた報告書を見せてもらった
ローマから新しい使節が来た。
その知らせを聞いた翌朝、俺はサグントゥムの政庁へ向かっていた。
隣を歩くメルカルは、朝から落ち着かない。
「アドン様」
「何?」
「本当に会うんですか?」
「誰に?」
「ローマの使節です」
「会わないと話が進まないだろう」
「ですが、相手は元老院から派遣された人物ですよ」
俺は苦笑した。
「俺だって好きで政治家と話しているわけじゃないよ」
「そうなんですか?」
「できれば石鹸でも売って暮らしたい」
「石鹸ですか?」
「いや、何でもいいんだけど」
本当に。
俺は商人の息子だ。
軍隊を指揮する権限もない。
外交交渉を決定する権限もない。
それなのに、気づけばローマとカルタゴの戦争を止めようとしている。
人生とは分からないものだ。
もっとも、俺の場合は前世の記憶がある時点で、普通の人生ではないのだが。
政庁の会議室には、すでに何人もの人物が集まっていた。
サグントゥムの有力者たち。
ネロン。
ルキオ。
そして、ローマから来た使節団。
中央に座っていたのは、五十歳ほどの男だった。
灰色の髪。
鋭い目。
落ち着いた物腰。
男は俺を見ると、静かに尋ねた。
「君がアドンか?」
「はい」
「カルタゴの商人だと聞いている」
「そのとおりです」
男は頷いた。
「私はガイウス・セルウィリウス。
ローマの元老院から派遣された使節団を率いている」
俺は頭を下げた。
「お会いできて光栄です」
セルウィリウスは笑わなかった。
「では、早速聞こう」
「はい」
「カルタゴ軍がサグントゥムへ進軍したという報告は、事実なのか?」
俺は答えた。
「カルタゴの旗を掲げた武装集団が接近したことは事実です」
「ほう」
「ですが、その集団がハミルカル将軍の軍に所属していることは、まだ確認されていません」
セルウィリウスは眉をひそめた。
「旗を掲げていたのだろう?」
「はい」
「それでもカルタゴ軍ではないと言うのか?」
俺は首を振った。
「カルタゴ軍ではないと断定しているわけではありません」
そして続けた。
「まだ確認できていない、と申し上げています」
セルウィリウスは俺を見つめた。
「……言葉を選ぶ男だな」
俺は答えた。
「商人ですから」
「商人は言葉を選ぶのか?」
「契約書の一文字で、銀貨が何千枚も動くことがあります」
セルウィリウスは初めて少し笑った。
「ほう」
だが、すぐに表情を戻した。
「では、サグントゥム側から矢が放たれたという報告は?」
「事実です」
会議室がざわついた。
俺は続けた。
「一本の矢が放たれ、騎馬の男の肩をかすめました」
「負傷者は?」
「軽傷とみられますが、正式な確認はできていません」
セルウィリウスは頷いた。
「その後、戦闘は?」
「確認されていません」
「カルタゴ軍からの攻撃は?」
「ありませんでした」
セルウィリウスはしばらく考え込んだ。
そして言った。
「……ローマへ届いた報告とは、少し違うな」
俺は顔を上げた。
「その報告を見せていただけませんか?」
セルウィリウスは同行していた書記官へ目配せした。
書記官が一枚の書簡を取り出す。
「これは、ローマに届いた報告の写しだ」
俺は受け取った。
そこには、こう書かれていた。
『カルタゴ軍はサグントゥム周辺へ兵力を進め、都市に対して軍事的圧力を加えた』
ここまでは、解釈の問題だ。
だが、次の文章を読んだ瞬間。
俺は手を止めた。
『サグントゥムの守備隊は、カルタゴ軍の接近を阻止するため、防衛行動を開始した』
俺は眉をひそめた。
さらに続く。
『カルタゴ軍は都市への進軍を継続しており、武力衝突は避けられない状況にある』
俺は顔を上げた。
「……この書簡は、いつローマへ届いたのですか?」
セルウィリウスは答えた。
「私が出発する前だ」
「正確な日付は?」
書記官が記録を確認した。
そして、日付を告げた。
俺は頭の中で計算した。
航海に必要な日数。
書簡がローマへ届いた日。
そして、サグントゥムで武装集団が確認された日。
「……おかしい」
俺は呟いた。
セルウィリウスが尋ねる。
「何がおかしい?」
俺は答えた。
「この書簡がローマへ届いた時点では、まだ武装集団はサグントゥムへ接近していません」
会議室が静かになった。
「どういうことだ?」
セルウィリウスが尋ねた。
俺は机の上に地図を広げた。
「こちらが、武装集団を確認した日です」
日付を書き込む。
「そして、こちらがローマへ報告が届いた日」
もう一つの日付を書く。
「ローマへの航海には、一定の日数が必要です」
セルウィリウスは頷いた。
俺は続けた。
「つまり、この報告は、武装集団が接近する前に書かれた可能性があります」
会議室がざわついた。
ルキオが立ち上がった。
「……そんな馬鹿な」
俺は首を振った。
「まだ断定できません。
船がどこから出たのか、どの航路を通ったのかも確認する必要があります」
セルウィリウスは書記官を見た。
「発送地の記録はあるか?」
書記官が答えた。
「あります」
「どこだ?」
「ヒスパニア沿岸の港です」
俺は顔を上げた。
その港の名前には、見覚えがあった。
以前、バアルハンノ商会が利用していた港だ。
セルウィリウスは静かに尋ねた。
「君は、この報告が偽造されたと考えているのか?」
俺は答えた。
「少なくとも、実際の出来事を確認してから書かれた報告ではない可能性があります」
「……」
「誰かが、事件が起きることを予想していたのかもしれません」
セルウィリウスは眉をひそめた。
「予想?」
俺は頷いた。
「あるいは、事件が起きるように準備していたのかもしれません」
会議室が静まり返った。
そのとき、ティマルが立ち上がった。
「待て!」
全員が振り返る。
ティマルは俺を指差した。
「カルタゴ人の話を信用するのか!」
俺は黙った。
ティマルは続けた。
「カルタゴ軍が接近したのは事実だ!」
「その集団の所属は、まだ確認されていません」
俺が答えると、ティマルは怒鳴った。
「旗があった!」
俺は静かに言った。
「旗を掲げていたことは、誰も否定していません」
「ならば!」
「問題は、誰がその旗を掲げさせたのかです」
ティマルは口を閉じた。
俺は続けた。
「もし本当にハミルカル将軍の命令なら、正式な軍の記録があるはずです」
「……」
「ですが、将軍は進軍命令を出していないと説明しています」
ティマルは鼻で笑った。
「敵の将軍が否定したからといって、信用できるものか!」
俺は頷いた。
「そのとおりです」
ティマルが一瞬、言葉を失った。
俺は続けた。
「だから、将軍の説明だけでなく、独立した記録を確認する必要があるんです」
セルウィリウスが手を上げた。
「そこまでだ」
会議室が静かになった。
彼はティマルを見た。
「私はカルタゴを信用しているわけではない」
ティマルが頷いた。
「当然です」
セルウィリウスは続けた。
「だが、ローマの判断を誤らせる情報が流れているなら、それも問題だ」
俺は静かに頷いた。
セルウィリウスは俺に向き直った。
「アドン」
「はい」
「君は、この事件の背後に誰がいると考えている?」
俺は少し迷った。
バアルハンノ商会。
アウレリウス商会。
そして、カルタゴ政府の一部の政治家。
疑わしい人物はいる。
だが、証拠が十分ではない。
俺は答えた。
「関係が疑われる商会はあります」
「名前は?」
「バアルハンノ商会です」
セルウィリウスは眉をひそめた。
俺は続けた。
「ただし、商会全体の正式な指示だったかどうかは、まだ確認できていません」
「ほう」
「さらに、ローマ方面のアウレリウス商会にも、関連する取引が確認されています」
セルウィリウスの表情が変わった。
「……アウレリウス商会?」
「ご存じですか?」
「名前は知っている」
彼は静かに言った。
「だが、商会の取引はローマ政府の命令ではない」
俺は頷いた。
「承知しています」
セルウィリウスはしばらく考え込んだ。
そして、俺に尋ねた。
「では、君は何を望む?」
俺は答えた。
「三つあります」
「聞こう」
「一つ目。
問題の報告書の発送経路を確認すること」
セルウィリウスは頷いた。
「よい」
「二つ目。
サグントゥム周辺の武装集団について、正式な調査を行うこと」
「それはサグントゥム側の権限だな」
「はい」
俺は続けた。
「三つ目。
調査が終わるまで、今回の報告だけを根拠に軍事行動を決定しないことです」
セルウィリウスは黙った。
しばらくして、静かに答えた。
「……最後の条件は、私だけでは決められない」
俺は頷いた。
「分かっています」
「ローマの元老院が判断する」
「はい」
俺は続けた。
「ですが、少なくとも調査結果を元老院へ伝えることはできるはずです」
セルウィリウスは少し笑った。
「……商人らしい交渉だな」
俺も笑った。
「できることから始める主義なので」
会議が終わった後。
俺はネロンとルキオに呼び止められた。
「アドン殿」
「はい」
ルキオは真剣な表情だった。
「私はローマとの関係を維持したい」
「知っています」
「だが、ローマを戦争へ巻き込むために、サグントゥムが利用されるのは許せない」
俺は頷いた。
「同感です」
ネロンも言った。
「交易が止まれば、この都市は大きな損害を受けます」
俺は答えた。
「そうですね」
ルキオは続けた。
「だから、我々も動きます」
俺は顔を上げた。
「何をするんです?」
ルキオは答えた。
「サグントゥムの商人たちを集める」
「商人を?」
「そうだ」
彼は頷いた。
「ローマと取引している者も、カルタゴと取引している者もいる」
俺は少し考えた。
「……ほう」
ルキオは続けた。
「どちらの国との交易も失いたくない者は多い」
俺は笑った。
「それは、心強いですね」
その日の午後。
サグントゥムの商人たちが集まった。
穀物商。
布商。
金属商。
船主。
倉庫業者。
そして、運送業者。
集まった人数は三十人を超えていた。
ルキオが立ち上がった。
「諸君!」
会議室が静かになる。
「我々は、カルタゴとローマの間で商売をしている」
商人たちが頷いた。
「どちらか一方と戦争になれば、交易は大きな打撃を受ける!」
ざわめきが広がった。
ルキオは続けた。
「しかも、今回の騒動には不審な点が多い」
俺は静かに聞いていた。
「だから、正式な調査が終わるまで、軍事行動を求める決議には慎重であるべきだ!」
何人かが拍手した。
ネロンも立ち上がった。
「さらに、交易路の安全を確保する必要があります」
商人たちが頷いた。
ネロンは続けた。
「噂によって荷車が止まり、港の取引が減れば、我々全員が損をします」
一人の穀物商が声を上げた。
「だが、カルタゴ軍が攻めてきたらどうする!」
ネロンは答えた。
「そのときは都市を守る必要があります」
「……」
「ですが、攻めてくるという噂だけで交易を止めるべきではありません」
穀物商は黙った。
俺は少し安心した。
俺は商人たちへ提案した。
「一つ、考えがあります」
全員が俺を見る。
「交易を続けるための共同保証を作りませんか?」
一人の船主が尋ねた。
「共同保証?」
俺は頷いた。
「はい」
「何を保証するんだ?」
「戦争の噂によって、一方的に契約を破棄しないことです」
商人たちが顔を見合わせた。
俺は続けた。
「もちろん、実際に危険が発生した場合は別です」
「……」
「ですが、確認されていない噂だけで荷物を止めたり、価格を不当に引き上げたりしない」
一人の商人が尋ねた。
「そんなことができるのか?」
俺は答えた。
「全員に強制することはできません」
そして、少し笑った。
「ですが、参加する商人同士で約束することはできます」
商人たちは議論を始めた。
「穀物の価格はどうする?」
「輸送が遅れた場合は?」
「港が閉鎖されたら?」
「損失は誰が負担する?」
俺は一つずつ答えた。
通常の価格は契約で決める。
実際の輸送費が増えた場合は、記録を残して協議する。
港が閉鎖された場合は、契約の履行を延期できる。
損失の負担は、事前に取り決める。
そして、重要なのは。
「噂だけを理由に、誰かが一方的に利益を得る仕組みにしないことです」
商人たちは考え込んだ。
やがて、一人の穀物商が手を上げた。
「……俺は参加する」
別の船主も言った。
「私もだ」
さらに、布商が頷いた。
「交易が止まるよりはいい」
こうして、サグントゥムの商人たちによる共同交易保証の準備が始まった。
だが、その日の夕方。
俺は一つの問題に気づいた。
共同保証に参加しない商会があったのだ。
バアルハンノ商会。
そして、アウレリウス商会の代理人。
俺は名簿を見つめた。
「……やっぱり参加しないか」
メルカルが尋ねた。
「どうします?」
俺は答えた。
「無理に参加させることはできない」
「そうですね」
「でも、参加しない理由は確認したいな」
翌日。
俺はアウレリウス商会の代理人を訪ねた。
男は三十歳ほど。
整った服装。
落ち着いた話し方。
名前はセクストゥス。
彼は俺を見ると、少し笑った。
「アドン殿。
お噂は聞いています」
「どんな噂です?」
「戦争を止めようとしている商人だとか」
俺は苦笑した。
「商売ができなくなると困りますから」
セクストゥスは笑った。
「それは我々も同じです」
俺は頷いた。
「では、共同交易保証に参加しませんか?」
セクストゥスは首を振った。
「申し訳ありませんが、現時点では難しい」
「理由を伺っても?」
彼は答えた。
「本店の承認が必要なのです」
俺は頷いた。
「ほう」
それなら、普通の理由だ。
だが、セクストゥスは続けた。
「それに、我々はすでに別の契約を結んでいます」
俺は顔を上げた。
「別の契約?」
「はい」
「どんな契約です?」
セクストゥスは少し迷った。
そして答えた。
「サグントゥム周辺の安全が悪化した場合に備えた契約です」
俺は眉をひそめた。
「……安全が悪化した場合?」
「そうです」
彼は頷いた。
「交易が止まった場合でも、一定の利益を確保できるようにしています」
俺は黙った。
それ自体は、不自然ではない。
商人が危険に備えるのは当然だ。
だが、問題はその内容だ。
俺は尋ねた。
「その契約は、誰と結んだものですか?」
セクストゥスは答えた。
「バアルハンノ商会です」
俺は深く息を吐いた。
……またか。
俺はさらに尋ねた。
「契約の内容を教えていただけますか?」
セクストゥスは首を振った。
「申し訳ありません。
商会間の契約ですので」
俺は頷いた。
「承知しました」
無理に聞き出すことはできない。
だが、彼は少し考えた後、こう言った。
「ただし、一つだけ申し上げましょう」
俺は顔を上げた。
「何でしょう?」
セクストゥスは静かに言った。
「我々は、戦争が起きることを望んでいるわけではありません」
俺は頷いた。
「そうでしょうね」
「ですが、戦争が起きた場合に備えることは、商人として当然です」
俺は答えた。
「そのとおりです」
そして続けた。
「問題は、備えているだけなのか、それとも起きるように仕向けているのか、ということですね」
セクストゥスの笑みが消えた。
その夜。
俺はネロンの商会へ戻った。
メルカルが尋ねた。
「どうでした?」
俺は答えた。
「アウレリウス商会は、バアルハンノ商会と別の契約を結んでいるらしい」
「……またですか」
「うん」
俺は椅子に座った。
「ただし、契約の内容は分からない」
メルカルは考え込んだ。
「……どうします?」
俺は答えた。
「別の角度から調べる」
「別の角度?」
俺は頷いた。
「契約書が見られないなら、実際の取引を調べるんだ」
メルカルは顔を上げた。
「取引?」
「そう」
俺は続けた。
「何を買っているのか」
「……」
「どこへ運んでいるのか」
「……」
「そして、誰が代金を払っているのか」
メルカルは頷いた。
「ほう」
数日後。
俺たちは港の公開記録と、商人たちから得た取引情報を整理した。
すると、奇妙なことが分かった。
バアルハンノ商会は、最近、大量の穀物を買い集めていた。
それだけではない。
鉄材。
木材。
革製品。
そして、馬。
どれも、軍需物資として使えるものだ。
俺は眉をひそめた。
「……また、軍需物資か」
メルカルが頷いた。
「はい」
俺は続けた。
「でも、今回は量が多い」
「どれくらいです?」
俺は記録を見た。
「通常の取引量を大きく超えている」
メルカルは考え込んだ。
「……戦争に備えているんでしょうか?」
俺は答えた。
「その可能性はある」
そして続けた。
「ただし、どこへ売るつもりなのかが問題だ」
さらに調べると、物資の一部はサグントゥム周辺の倉庫へ運ばれていた。
別の一部は、ローマ方面の港へ。
そして、残りはヒスパニア内陸部へ。
俺は地図を広げた。
「……ほう」
メルカルが尋ねた。
「何か分かりました?」
俺は答えた。
「戦争が起きた場合、どちら側にも売れる場所へ物資を置いている」
メルカルは驚いた。
「……どちら側にも?」
「そう」
俺は頷いた。
「カルタゴ軍にも」
「……」
「サグントゥムにも」
「……」
「そして、ローマ側にも」
メルカルは深く息を吐いた。
「……戦争が起きれば、誰にでも売れるんですね」
俺は頷いた。
「そういうこと」
だが、俺は、さらに気になる記録を見つけた。
バアルハンノ商会が購入した物資の一部について、支払いがまだ行われていなかった。
代わりに、将来の売却代金を担保にしている。
俺は眉をひそめた。
「……信用取引か」
メルカルが頷いた。
「はい」
「誰が資金を出している?」
メルカルは記録を確認した。
そして、顔を上げた。
「……アウレリウス商会です」
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
つまり、バアルハンノ商会は、アウレリウス商会の資金を使って軍需物資を買い集めている。
そして、戦争が起きれば、物資の価格が上がる。
高値で売れば、借金を返しても利益が残る。
だが、戦争が起きなければ?俺は考え込んだ。
「……待てよ」
メルカルが尋ねた。
「どうしました?」
俺は答えた。
「戦争が起きなかった場合、この契約はどうなるんだ?」
メルカルは首を傾げた。
「どうなるんでしょう?」
俺は静かに言った。
「……そこが重要かもしれない」
翌日。
俺はセクストゥスを再び訪ねた。
「少し確認したいことがあります」
セクストゥスは笑った。
「また契約の話ですか?」
「はい」
俺は頷いた。
「バアルハンノ商会への融資についてです」
セクストゥスの表情が変わった。
「……どこでそれを?」
俺は答えた。
「商人の間で確認できる取引記録からです」
セクストゥスは黙った。
俺は続けた。
「戦争が起きた場合、軍需物資の価格が上がる可能性があります」
「……」
「ですが、戦争が起きなかった場合、物資の価格はそれほど上がらないかもしれません」
セクストゥスは頷いた。
「そうでしょうね」
俺は静かに尋ねた。
「その場合、バアルハンノ商会は借金を返せるんですか?」
セクストゥスは答えなかった。
俺は続けた。
「もし返せなければ、担保を失うことになりますよね?」
セクストゥスは静かに言った。
「……商取引には危険が伴います」
俺は頷いた。
「そのとおりです」
そして、さらに尋ねた。
「では、担保は何ですか?」
セクストゥスは黙った。
俺は静かに言った。
「港ですか?」
彼の表情がわずかに変わった。
俺は続けた。
「それとも、倉庫?」
セクストゥスは口を閉じたままだった。
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
その夜。
俺は資料を整理していた。
戦争が起きれば、軍需物資が高く売れる。
戦争が起きなければ、バアルハンノ商会の借金が残る。
返済できなければ、担保を失う。
だが、その担保が港や倉庫なら。
アウレリウス商会は、戦争が起きても起きなくても利益を得る可能性がある。
俺は静かに呟いた。
「……どちらでも儲かる仕組みか」
メルカルが尋ねた。
「どういうことです?」
俺は答えた。
「戦争が起きれば、物資を高く売って利益を得る」
「はい」
「戦争が起きなければ、借金の担保を手に入れる」
メルカルは顔を上げた。
「……つまり」
俺は頷いた。
「アウレリウス商会は、どちらの結果でも損をしにくい契約を作っている可能性がある」
メルカルは深く息を吐いた。
「……すごい商売ですね」
俺は首を振った。
「商売としては、よく考えられている」
そして、静かに続けた。
「でも、問題は、その契約のために戦争が利用されているかもしれないことだ」
そのとき。
扉が開いた。
ネロンが入ってきた。
「アドン殿!」
「どうしました?」
ネロンは一枚の書簡を差し出した。
「カルタゴから知らせが届きました!」
俺は受け取った。
差出人は、父だった。
俺は封を開いた。
『アドン。
バアルハンノ商会の資金について、新しい情報が入った。
商会は、軍需物資の購入資金として、複数の商人から銀貨を集めている。
その中には、カルタゴ政府の有力者と関係する商会も含まれている。
さらに、政府内で新しい提案が出された。』
俺は眉をひそめた。
「……新しい提案?」
続きを読んだ。
『提案の内容は、ヒスパニア方面の軍需物資を確保するため、政府が民間商会の在庫を優先的に購入するというものだ。』
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
戦争が起きなければ、軍需物資の価格は上がらない。
だが、政府が高値で買い取れば?バアルハンノ商会は、借金を返せる。
そして、アウレリウス商会も資金を回収できる。
俺は静かに呟いた。
「……戦争が起きなくても、政府に買わせればいいわけか」
メルカルが顔を上げた。
「どういうことです?」
俺は答えた。
「つまり、戦争の危険を理由に政府へ軍需物資を買わせるんだ」
「……」
「そうすれば、商会は大量に買い集めた物資を売れる」
メルカルは驚いた。
「……そんな」
俺は書簡の最後を読んだ。
そこには、こう書かれていた。
『なお、この提案を提出したのは、アズバル・ハンノンだ。』
俺は思わず笑ってしまった。
「……本当に、よく考えるな」
だが、笑っている場合ではない。
軍需物資の買い取り。
政府の予算。
商会の借金。
そして、戦争の噂。
すべてが繋がり始めていた。
俺は静かに言った。
「……次は、政府の金を守らないといけないな」
メルカルが尋ねた。
「どうするんですか?」
俺は答えた。
「簡単だよ」
そして、少し笑った。
「政府が買う前に、その物資が本当に必要なのか計算するんだ」
だが、このときの俺には、まだ知る由もなかった。
アズバル・ハンノンが、すでに政府の審議を急がせていたことを。
そして、その買い取り案が承認されれば。
カルタゴの国庫から、銀貨十万枚を超える金が動くことになるのだった。




