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転生したらカルタゴ人だったので、ハンニバルを勝たせてローマに勝利します  作者: レモンティー


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第二十九話 たった一本の矢で戦争が始まりかけたので、敵の旗を買い取ることにした

矢が飛んだ。

サグントゥムの城壁から放たれた一本の矢は、街道を駆けてくる騎馬へ向かって一直線に伸びた。

「伏せろ!」

俺は叫んだ。

もちろん、届く距離ではない。

騎馬の男が身体を傾けた。

次の瞬間。

矢は男の肩をかすめ、背後へ飛んでいった。

男が馬上でよろめく。

城壁の上から歓声が上がった。

「当たったぞ!」

「カルタゴ兵を射た!」

俺は背筋が冷たくなった。

違う。

喜んでいる場合じゃない。

今、何が起きたのか分かっているのか。

こちらが先に矢を放った。

相手が本当にカルタゴ軍なら、外交問題になる。

偽装した集団なら、なおさら厄介だ。

彼らは、この瞬間を待っていた可能性がある。

俺は城壁の責任者に向き直った。

「二射目を止めてください!」

「何だと?」

「まだ相手の身元を確認していません!」

責任者は怒鳴った。

「城壁へ近づく武装集団だぞ!」

「だからこそです!」

俺も声を張り上げた。

「相手が攻撃していないのに、こちらから矢を射続ければ、後で何を説明しても信じてもらえなくなります!」

責任者が口を閉じた。

その隙に、ネロンが叫んだ。

「私は市の商人ネロンだ! この件は有力者会議にも報告する! これ以上の射撃は、責任者の判断として記録されるぞ!」

その言葉は効いた。

責任者が手を上げる。

「……射撃中止!」

弓兵たちが弓を下ろした。

俺はようやく息を吐いた。

だが、安心するには早かった。

街道の集団が動き始めたからだ。

「見ろ!」

ハンニバルが指差した。

先ほど矢を受けた騎馬が、集団へ戻っていく。

その周囲で、武装した男たちが慌ただしく動いていた。

俺は目を凝らした。

「……何をしている?」

ハンニバルが答えた。

「盾を前に出している」

「攻撃準備ですか?」

「いや」

少年は首を振った。

「荷車を守っている」

確かに、男たちは城壁へ突撃してこなかった。

十台ほどの荷車を囲むように、盾を並べている。

そして、その中心にはカルタゴの旗が掲げられていた。

俺は考えた。

二百人の武装集団。

十台の荷車。

カルタゴの旗。

しかし、攻城兵器はない。

都市を占領するには兵力が少なすぎる。

それでも、城壁の兵士たちを刺激するには十分だ。

「……本当に攻めるつもりなら、あんなところで止まらないな」

俺が呟くと、ハンニバルが頷いた。

「父上なら、敵の城壁の前で荷車を並べたりしない」

「でしょうね」

「それに、あいつらは妙だ」

「何がです?」

「旗を守りすぎている」

俺はもう一度、街道を見た。

男たちは荷車よりも、旗の周囲へ多く集まっている。

まるで、その旗こそが最も重要な荷物であるかのように。

「……ほう」

俺は静かに言った。

「連中の商品は、穀物でも鉄材でもないのかもしれません」

ハンニバルが俺を見た。

「商品?」

「はい」

俺は旗を指差した。

「あの旗を見せること自体が、仕事なのかもしれない」

そのとき、城門の方から別の騒ぎが聞こえた。

「門を開けろ!」

「出撃だ!」

俺たちは急いで城壁を下りた。

門の前には、武装した男たちが集まっていた。

中心にいるのは、サグントゥムの若い有力者だった。

名をティマルという。

以前、ネロンから聞いたことがある。

ローマとの関係強化を主張する一派の中でも、特に強硬な人物だ。

ティマルは兵士たちへ叫んでいた。

「敵が近くまで来ている! 今のうちに追い払うべきだ!」

ネロンが前へ出た。

「待ってください!」

ティマルが振り返る。

「ネロンか。

何の用だ?」

「まだ相手の身元が確認できていません!」

「カルタゴの旗があるだろう!」

俺は思わず口を挟んだ。

「旗なら、商人でも買えますよ」

ティマルが俺を睨んだ。

「何だと?」

「布と染料があれば作れます」

俺は答えた。

「旗だけで軍隊だと判断するのは危険です」

「カルタゴ人のお前が言っても信用できん!」

それはそうだ。

俺が逆の立場でも、簡単には信用しないだろう。

だから、別の方法が必要だった。

俺はティマルではなく、門の責任者へ向き直った。

「確認のため、使者を出せませんか?」

責任者は眉をひそめた。

「使者?」

「相手の指揮官と所属を尋ねるんです」

「危険だ」

「もちろん、無防備で近づく必要はありません。

市の正式な使者として、双方が確認できる場所で話せばいい」

ネロンが続けた。

「私も同行します」

ティマルが鼻で笑った。

「商人二人で軍隊を止めるつもりか?」

俺は答えた。

「止められるかは分かりません」

そして、少しだけ笑った。

「ですが、商人は値段を聞くのが仕事ですから」

使者の派遣は、すぐには認められなかった。

当然だ。

俺にはサグントゥムの軍を動かす権限がない。

ネロンにもない。

結局、門の責任者が市の執政担当者へ報告し、正式な許可を得ることになった。

その間、俺たちは城壁の上から街道を見張った。

武装集団は動かない。

それどころか、火を起こし始めた。

「……食事ですかね」

メルカルが呆れたように言った。

「たぶん」

俺は答えた。

「攻める気があるようには見えないですね」

「でも、帰る気もなさそうです」

「そうなんだよ」

俺は腕を組んだ。

連中は、ここにいること自体に意味がある。

城壁から見える位置。

カルタゴの旗。

武装した二百人。

そして、サグントゥムから放たれた一本の矢。

これだけ材料が揃えば、どんな噂でも作れる。

『カルタゴ軍がサグントゥムへ進軍した』

『サグントゥムがカルタゴ兵を攻撃した』

どちらの文章も、事実の一部を使って書けてしまう。

俺は嫌な予感がした。

「……メルカル」

「はい」

「港へ行って、今日出る船を調べてくれ」

「船ですか?」

「うん。

特に、ローマ方面へ向かう船だ」

メルカルは少し考えた。

そして、顔を上げた。

「……この騒ぎを知らせるためですか?」

俺は頷いた。

「そう」

「でも、まだ何が起きたか分かっていませんよ?」

「だから急ぐんだ」

俺は答えた。

「事実が確認される前に、誰かが結論だけを送り出すかもしれない」

しばらくして、市から使者の派遣許可が出た。

同行するのはネロン、市の書記官、護衛の兵士二人。

俺は通訳と商人側の証人として加わる。

ハンニバルは同行を希望したが、断った。

「なぜだ?」

少年は不満そうだった。

俺は答えた。

「あなたが捕まったら、誰が責任を取ると思います?」

「自分で逃げる」

「そういう問題じゃありません」

「父上には黙っていればいい」

「それが一番まずいんです」

ハンニバルは頬を膨らませた。

俺は少し笑った。

「代わりに、城壁から連中の動きを見ていてください」

「……分かった」

少年は不承不承頷いた。

だが、最後にこう言った。

「アドン」

「何です?」

「相手が逃げようとしたら、荷車を見ろ」

「荷車?」

「兵士より先に動かすなら、中に大事なものがある」

俺は頷いた。

「覚えておきます」

俺たちは白い布を掲げ、街道を進んだ。

武装集団まで十分な距離を残して止まる。

市の書記官が声を張り上げた。

「サグントゥム市の正式な使者である!」

しばらくして、集団から三人の男が出てきた。

中央の男は、革の胸当てを身につけていた。

年齢は四十歳前後。

日に焼けた顔。

軍人らしい歩き方ではある。

だが、装備が妙に揃っていない。

一人はカルタゴ式の盾。

もう一人は現地の部族が使う槍。

中央の男だけが、比較的新しい剣を帯びていた。

書記官が尋ねた。

「所属と指揮官の名を答えよ」

男は答えた。

「我々はカルタゴ方面の輸送護衛隊だ」

俺は眉をひそめた。

「カルタゴ方面?」

男が俺を見る。

「何だ?」

俺は答えた。

「ハミルカル将軍の軍に所属しているのですか?」

男は一瞬、口を閉じた。

「……軍の依頼を受けている」

「どの部隊から?」

「それをお前に話す必要はない」

俺は頷いた。

「では、サグントゥム市の書記官に説明してください」

男は書記官を見た。

だが、具体的な部隊名は答えなかった。

書記官が続けた。

「武装した集団が市の近くへ接近した理由は?」

男は答えた。

「輸送の途中だ」

「どこへ?」

「北の港へ向かう」

俺は地図を思い浮かべた。

北の港へ行くなら、別の街道がある。

この道は遠回りだ。

俺は尋ねた。

「荷車には何を積んでいるんです?」

男は俺を睨んだ。

「商人か?」

「はい」

「なら、積み荷を詮索するな」

「失礼しました」

俺は素直に引き下がった。

そして、別の質問をした。

「では、輸送を依頼した商会を教えてください」

男の表情がわずかに変わった。

「……なぜだ?」

「商人同士なら、荷主を確認するのは普通でしょう?」

男は黙った。

俺は続けた。

「もし正式な輸送なら、サグントゥム側も通行を認めるかどうか判断できます」

書記官が頷いた。

「そのとおりだ」

男はしばらく迷った。

そして、低い声で答えた。

「……バアルハンノ商会だ」

俺は心の中で呟いた。

また、お前か。

だが、ここで一つ問題があった。

バアルハンノ商会が護衛を雇うこと自体は違法ではない。

危険な街道なら、武装した護衛を付けるのは普通だ。

カルタゴの旗を使うことも、商会が許可を得ている場合はあり得る。

つまり、今の説明だけでは犯罪とは言えない。

俺は男に尋ねた。

「では、なぜサグントゥムの城壁から見える場所で止まっているんです?」

男は答えた。

「休憩だ」

「ほう」

俺は頷いた。

「では、休憩が終われば出発するんですね?」

男は黙った。

俺は続けた。

「市は、武装集団が城壁の近くに長く留まることを警戒しています」

書記官も言った。

「通行の目的が確認できれば、所定の道を案内することはできる」

男は考え込んだ。

「……分かった」

俺は少し安心した。

これで、少なくとも衝突は避けられるかもしれない。

だが、そのときだった。

背後から、一人の男が走ってきた。

「隊長!」

男は息を切らしていた。

「何だ?」

「……荷車の準備ができました!」

隊長と呼ばれた男の顔色が変わった。

俺はその変化を見逃さなかった。

「……何の準備です?」

隊長は答えなかった。

代わりに、背後の男へ怒鳴った。

「余計なことを言うな!」

俺は荷車の方を見た。

十台のうち、三台だけが動き始めている。

しかも、残りの荷車とは別の方向へ向かおうとしていた。

ハンニバルの言葉を思い出した。

『兵士より先に動かすなら、中に大事なものがある』

俺は書記官に小声で言った。

「三台の荷車が、別の道へ向かっています」

書記官も気づいた。

「……確かに」

隊長が言った。

「話は終わりだ。

戻れ」

俺は頷いた。

「分かりました」

ここで無理に止める権限はない。

しかも、相手は二百人。

俺たちは数人だ。

争えば、こちらが危険になる。

俺は書記官へ目配せした。

「戻りましょう」

城門へ戻ると、ハンニバルが駆け寄ってきた。

「アドン!」

「どうしました?」

少年は地図を広げた。

「三台の荷車が東へ向かった!」

俺は頷いた。

「見えました」

ハンニバルは地図の一点を指差した。

「東の道は、港へ続いている」

俺は顔を上げた。

「……港?」

「そうだ」

ハンニバルは続けた。

「北へ向かうと言っていたのに、荷車だけ東へ行った」

俺は深く息を吐いた。

「……ほう」

隊長は北の港へ向かうと言った。

だが、三台の荷車は東へ向かった。

目的地が違う。

俺はネロンに尋ねた。

「東の道の先には、何があります?」

ネロンは答えた。

「小さな船着き場があります」

俺は顔を上げた。

「商船は入れますか?」

「大型船は無理ですが、小型船なら」

俺は頷いた。

「……分かりました」

その日の夕方。

メルカルが港から戻ってきた。

「アドン様!」

「どうだった?」

「今日、ローマ方面へ出港する予定の船が二隻ありました」

俺は頷いた。

「商会は?」

「一隻は普通の交易船です」

「もう一隻は?」

メルカルは少し声を落とした。

「……アウレリウス商会の関係船です」

俺は黙った。

バアルハンノ商会。

アウレリウス商会。

そして、サグントゥムの城壁で放たれた一本の矢。

嫌な線が繋がり始めていた。

俺は尋ねた。

「その船は、もう出た?」

メルカルは首を振った。

「まだです」

「どうして?」

「荷物を待っているそうです」

俺はハンニバルを見た。

ハンニバルも俺を見た。

そして、同時に言った。

「……三台の荷車だ」

俺たちは急いでエルダンを訪ねた。

サグントゥムの港を管理する役人だ。

事情を説明すると、エルダンは険しい表情になった。

「……つまり、あの武装集団が港へ荷物を送っている可能性があると?」

俺は頷いた。

「はい」

「荷物の中身は?」

「分かりません」

エルダンは腕を組んだ。

「中身が分からないなら、船を止める理由にはならない」

「そのとおりです」

俺は答えた。

「だから、通常の港湾手続きで確認できる範囲を調べてください」

エルダンは少し驚いた。

「通常の手続き?」

「はい」

俺は頷いた。

「積み荷の申告と、実際に積み込まれる荷物が一致しているかどうかです」

エルダンは考え込んだ。

そして言った。

「……それなら確認できる」

港の記録を調べると、アウレリウス商会の関係船は、羊毛と染料を積む予定になっていた。

俺は首を傾げた。

「羊毛と染料?」

エルダンが頷いた。

「そうだ」

「三台の荷車で運ぶ量ですか?」

「数量としては不自然ではない」

俺は頷いた。

「ほう」

だが、記録には気になる点があった。

積み荷の申告者が、出港直前に変更されている。

最初はアウレリウス商会の代理人。

その後、別の商人の名前になっていた。

俺は尋ねた。

「この変更は、よくあることですか?」

エルダンは答えた。

「珍しくはない」

「ですが、変更理由の記録がありませんね」

エルダンは眉をひそめた。

「……確かに」

俺は静かに言った。

「確認をお願いします」

日が暮れる頃。

東の船着き場へ向かった三台の荷車が、港へ到着した。

俺たちは少し離れた場所から見ていた。

荷車には、布がかけられている。

男たちが木箱を下ろし始めた。

エルダンの部下が、積み荷の確認に向かった。

しばらくして。

一人の役人が戻ってきた。

「エルダン様」

「どうした?」

「申告と違う荷物があります」

俺は顔を上げた。

「何です?」

役人は答えた。

「木箱の中に、書簡が大量に入っています」

俺は深く息を吐いた。

「……やっぱり」

だが、役人は続けた。

「それだけではありません」

「何が?」

「武器もあります」

俺は眉をひそめた。

「武器?」

「槍の穂先と、剣です」

俺は考え込んだ。

武器の輸送自体は、珍しくない。

だが、羊毛と染料として申告していたなら話は別だ。

エルダンはすぐに命じた。

「積み荷の確認が終わるまで、この荷物の積み込みを認めない」

役人が頷いた。

「承知しました」

問題の木箱は、港の管理施設へ運ばれた。

エルダンの立ち会いのもと、内容が記録された。

書簡。

武器。

そして、封印された小さな袋。

俺は書簡の一枚を見た。

そこには、こう書かれていた。

『サグントゥムの守備隊が、カルタゴ軍の使者を攻撃した』

俺は手を止めた。

「……使者?」

ネロンが覗き込む。

「何です?」

俺は書簡を見せた。

ネロンは驚いた。

「……これは」

書簡は、すでに完成していた。

しかも、日付は今日。

内容には、サグントゥムの城壁から矢が放たれたことが書かれている。

俺は深く息を吐いた。

「……早いな」

メルカルが尋ねた。

「何がです?」

「この書簡だよ」

俺は答えた。

「城壁で矢が放たれてから、まだ半日も経っていない」

メルカルは頷いた。

「そうですね」

俺は続けた。

「それなのに、ローマへ送るための報告書が大量に用意されている」

ネロンが眉をひそめた。

「……最初から準備していたということですか?」

俺は答えた。

「その可能性があります」

さらに、別の書簡を確認した。

そこには、もっと危険な文章があった。

『カルタゴ軍はサグントゥムの近郊へ進出し、都市への圧力を強めている』

俺は眉をひそめた。

「……近郊へ進出?」

確かに、武装集団は近づいてきた。

だが、ハミルカル将軍の軍である証拠はない。

俺は次の文章を読んだ。

『サグントゥムは、カルタゴの侵略に対して自衛の行動を開始した』

俺は黙った。

これでは、まるで戦争が始まったように読める。

しかも、すべてが完全な嘘というわけではない。

武装集団が近づいた。

カルタゴの旗があった。

サグントゥムから矢が放たれた。

それらの事実を、都合よく並べ替えている。

俺は静かに呟いた。

「……厄介だな」

ネロンが尋ねた。

「どういうことです?」

俺は答えた。

「嘘だけなら、否定しやすいんです」

そして、書簡を指差した。

「でも、事実の一部を使って、違う結論を作られると厄介なんですよ」

エルダンは封印された袋を開けた。

中には銀貨が入っていた。

数えると、銀貨五百枚。

そして、小さな木札。

そこには短い文章が書かれていた。

『第一報の発送完了後、残額を支払う』

俺は顔を上げた。

「……第一報?」

メルカルが呟いた。

「報酬でしょうか?」

俺は頷いた。

「そうかもしれない」

ネロンが尋ねた。

「誰への報酬ですか?」

俺は答えた。

「まだ分かりません」

だが、木札の裏には印があった。

俺は見覚えがあった。

バアルハンノ商会の取引記録で見た、荷物管理用の印だ。

ただし、それだけで商会の正式な指示だとは断定できない。

印は盗まれることもある。

偽造されることもある。

俺はエルダンに言った。

「この袋と木札は、必ず記録を残して保管してください」

エルダンは頷いた。

「当然だ」

その夜。

俺たちはネロンの商会に集まった。

ルキオも来ていた。

俺は今日の出来事を説明した。

偽装の疑いがある武装集団。

城壁から放たれた一本の矢。

港へ運ばれた木箱。

そして、ローマへ送る予定だった書簡。

ルキオは最後まで黙って聞いていた。

やがて、低い声で言った。

「……これは、ひどい」

俺は頷いた。

「そうですね」

ルキオは続けた。

「私はローマとの関係を強めるべきだと考えている」

「知っています」

「だが、こんな方法でローマを動かそうとするのは間違っている」

俺は頷いた。

ルキオは机を叩いた。

「サグントゥムが危険にさらされる!」

その言葉に、俺は少し驚いた。

以前のルキオなら、カルタゴへの警戒を優先していただろう。

だが、今は違う。

彼は自分の都市が、誰かの利益のために利用されることを嫌っている。

俺は静かに言った。

「では、一緒に止めましょう」

ルキオは頷いた。

「もちろんだ」

俺は机に地図を広げた。

「まず、事実を整理します」

ネロンが頷いた。

俺は続けた。

「カルタゴの旗を掲げた武装集団が近づいた」

「はい」

「サグントゥム側が矢を一本放った」

「はい」

「しかし、相手の所属は確認できていない」

ルキオが頷いた。

「そのとおりだ」

俺は続けた。

「そして、相手は都市へ攻撃していない」

ネロンが頷いた。

「はい」

「ならば、現時点でカルタゴ軍の侵攻があったと断定することはできません」

ルキオは静かに言った。

「……それをローマへ伝えるべきだな」

俺は頷いた。

「そうです」

だが、問題があった。

俺はカルタゴ人だ。

俺がローマへ書簡を送っても、信用されるとは限らない。

ハミルカル将軍の説明も、カルタゴ側の主張として受け取られるだろう。

だから、サグントゥム自身が事実を確認する必要がある。

俺はルキオに言った。

「市の正式な報告として、事実だけをまとめられませんか?」

ルキオは考え込んだ。

「……有力者会議の承認が必要だ」

「もちろんです」

俺は頷いた。

「ですが、あなたなら提案できるはずです」

ルキオはしばらく黙っていた。

そして言った。

「分かった。

明日の会議で提案する」

翌朝。

サグントゥムの有力者会議が開かれた。

会議室には、険しい表情の男たちが集まっていた。

ティマルもいる。

彼は立ち上がるなり叫んだ。

「カルタゴ軍が都市へ接近した! これは明白な威嚇だ!」

何人かが頷いた。

ティマルは続けた。

「ローマへ援軍を求めるべきだ!」

会議室がざわついた。

そのとき、ルキオが立ち上がった。

「待ってほしい」

ティマルが振り返る。

「何だ?」

ルキオは答えた。

「相手がカルタゴ軍だったという証拠は、まだない」

ティマルが眉をひそめた。

「旗があった!」

ルキオは静かに言った。

「旗だけでは証拠にならない」

「何だと?」

「私はカルタゴを信用しているわけではない」

ルキオは続けた。

「だが、我々の都市が何をされたのかは、正確に確認するべきだ」

会議室が静かになった。

ネロンが立ち上がった。

「港で、問題の武装集団に関係する荷物が確認されました」

会議室がざわついた。

「何?」

「どんな荷物だ?」

ネロンは答えた。

「ローマへ送る予定の書簡です」

ティマルが眉をひそめた。

「それがどうした?」

ネロンは続けた。

「書簡には、すでにカルタゴ軍の侵攻が始まったかのように書かれていました」

会議室が静かになった。

ネロンはさらに言った。

「ですが、相手の所属は確認されていません」

ティマルは黙った。

俺は静かに思った。

……ようやく、話を聞いてもらえる。

会議の結果。

サグントゥムは、ローマとカルタゴの双方へ正式な報告を送ることになった。

内容は、確認された事実に限定する。

武装集団の所属は未確認。

サグントゥム側から矢が一本放たれた。

相手からの攻撃は確認されていない。

そして、偽装された可能性のある書簡が発見された。

俺は深く息を吐いた。

「……これで、少なくとも一方的な噂は抑えられるかもしれない」

だが、まだ終わっていなかった。

その日の夕方。

ハンニバルが俺のところへ来た。

「アドン」

「何です?」

少年は少し得意そうだった。

「分かったぞ」

俺は首を傾げた。

「何がです?」

ハンニバルは地図を広げた。

そして、街道の一点を指差した。

「武装集団が止まっていた場所だ」

俺は頷いた。

「そうですね」

ハンニバルは続けた。

「ここからだと、城壁の上の兵士がよく見える」

「はい」

「でも、城壁からも、向こうがよく見える」

俺は頷いた。

「そうですね」

ハンニバルはさらに言った。

「だから、あいつらはわざと見える場所に止まったんだ」

俺は少し考えた。

「……ほう」

少年は続けた。

「でも、それだけじゃない」

「何です?」

ハンニバルは地図の別の場所を指差した。

「ここに小さな丘がある」

俺は頷いた。

「ありますね」

「そこからなら、城壁と武装集団の両方が見える」

俺は顔を上げた。

「……両方?」

ハンニバルは頷いた。

「そうだ」

そして、静かに言った。

「誰かが、矢が放たれるのを見ていたかもしれない」

俺は息を呑んだ。

翌朝。

俺たちは市の許可を得て、その丘を調べた。

同行するのはネロンと、市の警備担当者。

丘の上には、草が生えていた。

だが、一部が踏み荒らされている。

さらに、石の陰には焚き火の跡があった。

警備担当者が呟いた。

「……誰かがいたな」

俺は頷いた。

「そうですね」

そして、周囲を確認した。

すると、草の間から小さな木片が見つかった。

俺は拾い上げた。

木片には、印が刻まれている。

俺は眉をひそめた。

「……これは」

ネロンが覗き込む。

「何です?」

俺は答えた。

「商会の荷札に使う印です」

警備担当者が尋ねた。

「どこの商会だ?」

俺は木片を見つめた。

そして、静かに答えた。

「……バアルハンノ商会です」

だが、さらに気になるものがあった。

焚き火の跡の近くに、小さな布切れが落ちていた。

赤い布。

そこには、黒い染料で短い線が描かれている。

ハンニバルがそれを見た。

そして、顔を上げた。

「……これだ」

俺は尋ねた。

「何です?」

少年は答えた。

「合図だ」

俺は眉をひそめた。

「合図?」

ハンニバルは頷いた。

「旗を振れば、遠くからでも見える」

俺は丘の下を見た。

確かに、ここからなら街道の武装集団が見える。

そして、城壁も見える。

俺は静かに呟いた。

「……誰かが、両方の動きを見ながら合図を送っていた可能性がある」

警備担当者が頷いた。

「調べる必要があるな」

その日の午後。

市の警備担当者が周辺を調べた。

すると、丘の近くの農家から証言が得られた。

前日の朝。

数人の男が丘へ向かっていた。

荷物を持っていた。

そのうち一人は、赤い布を肩に掛けていた。

俺は尋ねた。

「顔は分かりますか?」

農夫は首を振った。

「遠かったからな」

「何人でした?」

「三人だ」

俺は頷いた。

「ありがとうございます」

さらに調べると、三人の男が近くの宿に泊まっていたことが分かった。

宿の主人は言った。

「商人だと言っていた」

俺は尋ねた。

「名前は?」

主人は答えた。

「一人は、マルコスと名乗っていた」

俺は息を呑んだ。

マルコス。

偽の進軍命令を配っていた、バアルハンノ商会の関係者。

俺は深く息を吐いた。

「……やっぱり、同じ人物か」

その夜。

俺はネロンの商会で、すべての資料を並べた。

偽の進軍命令。

カルタゴの旗を掲げた武装集団。

サグントゥムから放たれた一本の矢。

ローマへ送るために準備されていた書簡。

そして、丘の上で合図を送っていた可能性のある人物。

俺は静かに言った。

「……これは、偶然とは考えにくい」

メルカルが頷いた。

「はい」

ネロンが尋ねた。

「では、誰が計画したのでしょうか?」

俺は答えた。

「まだ分かりません」

そして、続けた。

「ただし、少なくとも一つは分かります」

ネロンが顔を上げた。

「何です?」

俺は静かに言った。

「誰かが、サグントゥムとカルタゴの間で軍事衝突が起きたように見せようとしていた可能性が高い」

だが、そのとき、扉が開いた。

ルキオが入ってきた。

顔色が悪い。

「アドン殿」

「どうしました?」

ルキオは息を切らしていた。

「……ローマから使節が来ました」

俺は顔を上げた。

「ルキウス殿ですか?」

ルキオは首を振った。

「違います」

俺は眉をひそめた。

「では、誰です?」

ルキオは答えた。

「元老院から派遣された別の使節です」

俺は深く息を吐いた。

「……ほう」

だが、ルキオは続けた。

「使節は、サグントゥムの安全について、カルタゴ側へ正式な説明を求めると言っています」

俺は頷いた。

「それなら、外交交渉で対応できます」

ルキオは首を振った。

「問題は、それだけではありません」

俺は顔を上げた。

「何です?」

ルキオは静かに言った。

「使節は、カルタゴ軍がサグントゥムへ進軍したという報告を、すでにローマで受け取っているそうです」

俺は黙った。

「……いつ?」

ルキオは答えた。

「数日前です」

俺は息を呑んだ。

数日前。

城壁から矢が放たれたのは、つい先日のことだ。

それなのに。

ローマには、すでにカルタゴ軍の進軍を知らせる報告が届いていた。

俺は静かに呟いた。

「……待てよ」

メルカルが尋ねた。

「どうしました?」

俺は答えた。

「書簡が届いた日付を確認したい」

そして、ルキオを見た。

「その報告は、いつ書かれたものですか?」

ルキオは首を振った。

「まだ分かりません」

俺は深く息を吐いた。

もし、武装集団が動く前に報告が書かれていたなら。

誰かが、最初からこの事件を計画していたことになる。

俺は静かに言った。

「……ローマの使節に会わせてください」

ルキオは頷いた。

「分かりました」

俺は机の上の書簡を見つめた。

そして、心の中で呟いた。

戦争を始めるために、誰かが事件を起こしている。

だが、その計画を立てた人物は、まだ表に出ていない。

そして、俺たちが調べている間にも。

ローマとカルタゴの双方で、戦争を求める声が少しずつ大きくなっていた。

次に必要なのは、偽の命令を暴くことだけではない。

戦争を始めたい人間より先に、戦争を望まない人間たちを動かすことだった。

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