第二十八話 存在しない進軍命令が出回ったので、戦争が始まる前に止めることにした
カルタゴ本国。
ハミルカル将軍から届いた書簡を読み終えた俺は、しばらく動けなかった。
サグントゥムへの進軍命令。
しかも、その命令にはハミルカル将軍の名前が使われているという。
「……これは、まずいな」
俺は呟いた。
メルカルが顔を上げる。
「何がですか?」
「もしサグントゥムの人たちが、この命令を本物だと信じたらどうなる?」
メルカルは少し考えた。
「……カルタゴ軍が攻めてくると思います」
「そうだね」
「都市の防衛を強化するでしょうね」
「それだけじゃない」
俺は地図を広げた。
サグントゥム。
周辺の部族。
カルタゴ軍の駐屯地。
そして、交易路。
「サグントゥムが先に兵士を動かすかもしれない」
メルカルの表情が変わった。
「……先に?」
「そう」
俺は頷いた。
「相手が攻めてくると信じたら、先に攻撃した方が安全だと考える人間も出てくる」
「ですが、将軍は攻めるつもりがないんですよね?」
「ない」
俺は答えた。
「でも、それをサグントゥムの人たちが信じるとは限らない」
メルカルは黙った。
俺は深く息を吐いた。
「……戦争って、こういうところから始まることもあるんだ」
俺はすぐに父を呼んだ。
「父さん。
ヒスパニアへ向かう船はある?」
父は驚いた。
「急にどうした?」
「サグントゥムで危険な噂が広まっている」
俺は事情を説明した。
父は険しい表情になった。
「……将軍の名前を使った進軍命令か」
「うん」
「本物なのか?」
「将軍は、そのような作戦を計画していないと言っている」
父は考え込んだ。
「ならば、偽の命令ということか」
「その可能性が高い」
俺は頷いた。
「ただし、実物を確認する必要がある」
父は深く息を吐いた。
「……分かった。
船を調べよう」
その日の午後。
俺はハンノを訪ねた。
「至急、確認していただきたいことがあります」
ハンノは俺の表情を見ると、すぐに人払いをした。
「何があった?」
俺は書簡を見せた。
ハンノは読み進めるうちに、表情を険しくした。
「……政府の印を使った進軍命令?」
「はい」
「ハミルカル将軍は否定しているのだな?」
「そのとおりです」
ハンノは机を指で叩いた。
「……厄介なことになった」
俺は頷いた。
「このままでは、サグントゥムが軍備を強化する可能性があります」
「それ自体は都市の判断だ」
「はい」
俺は続けた。
「ですが、偽の情報によって軍事衝突が起きることは避けなければなりません」
ハンノは頷いた。
「そのとおりだ」
俺は尋ねた。
「政府の印が押された命令書について、確認する方法はありますか?」
ハンノは答えた。
「ある」
「どんな方法です?」
「正式な命令には、発行した役所の記録が残る」
俺は頷いた。
「ほう」
ハンノは続けた。
「命令の内容、発行日、宛先、承認した者の名前が記録される」
俺は顔を上げた。
「では、同じ命令が政府の記録にあるか確認できますね」
「そうだ」
ハンノは頷いた。
「ただし、命令書の実物がなければ照合は難しい」
俺は答えた。
「実物は、ヒスパニア側で探します」
翌朝。
俺はヒスパニアへ向かう船に乗った。
メルカルも同行する。
父は港まで見送りに来た。
「アドン」
「何?」
「今回は、商売の話では済まないぞ」
俺は頷いた。
「分かってる」
父は続けた。
「軍の命令を偽造した者がいるなら、かなり危険な相手だ」
「うん」
「無理をするな」
俺は笑った。
「気をつけるよ」
父は深く息を吐いた。
「……お前の『気をつける』は信用できん」
俺は苦笑した。
「ひどいな」
父も少し笑った。
だが、その表情はすぐに真剣なものに戻った。
「必ず戻ってこい」
俺は頷いた。
「もちろん」
数日後。
俺たちはヒスパニアの港へ到着した。
そこから馬車で、ハミルカル将軍のいる軍営へ向かう。
将軍は、すぐに会ってくれた。
「アドン」
「お久しぶりです」
ハミルカルは頷いた。
「書簡は読んだな?」
「はい」
「どう思う?」
俺は答えた。
「偽の進軍命令が広まっている可能性があります」
ハミルカルは険しい表情になった。
「私がサグントゥムを攻める命令を出したという噂だ」
俺は頷いた。
「はい」
将軍は静かに言った。
「そのような命令は出していない」
「承知しています」
「だが、噂は広まっている」
俺は深く息を吐いた。
「……実物を確認する必要がありますね」
ハミルカルは机の上に一枚の羊皮紙を置いた。
「これだ」
俺は驚いた。
「手に入ったんですか?」
「周辺の商人が持っていた写しだ」
俺は慎重に受け取った。
そこには、こう書かれていた。
『ヒスパニア方面軍は、サグントゥム周辺の安全確保のため、必要な兵力を集結させるものとする』
その下に、さらに文章が続いていた。
『都市側がカルタゴの要求に応じない場合、軍事行動を認める』
俺は眉をひそめた。
「……これは」
ハミルカルが頷いた。
「続けて読め」
俺は最後の部分を確認した。
そこには、こう記載されていた。
『ヒスパニア方面軍最高指揮官 ハミルカル・バルカ』
そして、印章の写し。
俺は深く息を吐いた。
「……将軍の名前まで使っていますね」
ハミルカルは頷いた。
「そうだ」
俺は尋ねた。
「これは原本ですか?」
ハミルカルは首を振った。
「いや。
商人が書き写したものだ」
「では、印章も写しですね」
「そうだ」
俺は頷いた。
「これだけでは、誰が作ったのか分かりません」
ハミルカルは静かに言った。
「だから、お前を呼んだ」
俺は少し驚いた。
「俺を?」
将軍は頷いた。
「商人の間で広まっている書簡だ」
「……」
「商人の情報網なら、出所を調べられるかもしれない」
俺は頷いた。
「分かりました」
そのとき。
部屋の扉が開いた。
「父上!」
少年の声が響いた。
ハンニバルだった。
俺を見ると、目を輝かせた。
「アドン!」
「久しぶりですね」
ハンニバルは笑った。
「また面白いことをしているらしいな」
俺は苦笑した。
「今回は、あまり面白くありませんよ」
ハンニバルは机の上の書簡を見た。
「これか?」
ハミルカルが頷いた。
「そうだ」
ハンニバルは書簡を読んだ。
そして、首を傾げた。
「……変だな」
俺は顔を上げた。
「何がです?」
ハンニバルは答えた。
「父上が、こんな命令を出すとは思えない」
ハミルカルが少し笑った。
「なぜだ?」
ハンニバルは言った。
「敵を攻めるなら、先に準備をするはずだ」
俺は頷いた。
「そうですね」
ハンニバルは続けた。
「食料を集める」
「はい」
「兵士を動かす」
「はい」
「周辺の部族とも話をする」
俺は頷いた。
ハンニバルは書簡を指差した。
「でも、この命令には、何も書いていない」
俺は少し考えた。
「……ほう」
ハンニバルは続けた。
「どの部隊を、どこへ動かすのかもない」
ハミルカルは静かに頷いた。
「そのとおりだ」
少年は得意そうに笑った。
「だから、変だ」
俺も笑った。
「鋭いですね」
だが、俺は、別のことに気づいた。
この書簡は、軍の命令としては曖昧すぎる。
しかし、噂を広めるための文章としては十分だった。
『サグントゥム周辺へ兵力を集結』
『要求に応じなければ軍事行動』
この二つだけで、都市の人々は恐怖を感じる。
俺は静かに呟いた。
「……軍を動かすための命令じゃない」
ハミルカルが顔を上げた。
「何?」
俺は答えた。
「これは、サグントゥムの人々を動かすための文章です」
ハミルカルは黙った。
俺は続けた。
「軍に読ませるためではなく、商人や住民に読ませるために作られた可能性があります」
ハンニバルが頷いた。
「……ほう」
翌日。
俺はサグントゥムへ向かった。
同行するのはメルカル。
そして、将軍の許可を得て、ハンニバルも一緒に来ることになった。
ハミルカルは出発前に言った。
「アドン」
「はい」
「軍を勝手に動かすことはできん」
俺は頷いた。
「承知しています」
「だが、交易路の安全は守らなければならない」
「はい」
将軍は続けた。
「必要なら、サグントゥム側と正式に協議する」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございます」
サグントゥムへ到着すると、街の雰囲気が以前とは違っていた。
城壁の上には、兵士が増えている。
門では荷車の検査が行われている。
市場では、商人たちが小声で話していた。
「カルタゴ軍が攻めてくるらしい」
「本当なのか?」
「政府の命令が出たそうだ」
「ローマに援軍を頼むべきだ」
俺は深く息を吐いた。
「……かなり広まっているな」
メルカルが頷いた。
「はい」
ハンニバルは城壁を見上げた。
「……本当に戦うつもりなのか?」
俺は答えた。
「そうならないようにするために来たんです」
俺たちはネロンの商会を訪ねた。
ネロンは俺を見ると、驚いた。
「アドン殿!」
「お久しぶりです」
ネロンはすぐに扉を閉めた。
「大変なことになっています」
俺は頷いた。
「聞いています」
ネロンは机の上に書簡を置いた。
「これです」
俺は受け取った。
そこには、軍営で見たものと同じ文章が書かれていた。
だが、一つ違うところがあった。
こちらには、印章が押されている。
俺は顔を上げた。
「……これは、どこから?」
ネロンは答えた。
「港の商人から入手しました」
「誰です?」
「名前は分かっています」
俺は頷いた。
「会わせてください」
その商人は、港で布を扱っていた。
俺が書簡について尋ねると、男は少し警戒した。
「……何の用だ?」
俺は答えた。
「この書簡の出所を確認したいんです」
男は眉をひそめた。
「政府の命令だろう?」
俺は首を振った。
「その確認が必要です」
男はしばらく考えた。
そして言った。
「港に来た別の商人から受け取った」
「名前は?」
男は答えた。
「知らない」
俺は頷いた。
「どんな人物でした?」
「カルタゴ語もラテン語も話していた」
俺は少し考えた。
「荷物は?」
「小さな木箱を持っていた」
「中身は?」
「書簡だ」
俺は眉をひそめた。
「書簡だけ?」
男は頷いた。
「そうだ」
さらに話を聞くと、その人物は複数の商人へ同じ書簡を配っていたことが分かった。
しかも、こう説明していたという。
『カルタゴ政府からの正式な情報だ。
交易の安全のため、各商会へ知らせている』
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
つまり、意図的に広めている。
俺はネロンに尋ねた。
「その人物が、どこから来たか分かりますか?」
ネロンは少し考えた。
「港の記録を調べれば、分かるかもしれません」
俺は頷いた。
「お願いします」
その日の午後。
俺たちは港の管理者エルダンを訪ねた。
エルダンは記録を調べてくれた。
「……該当する人物がいます」
俺は顔を上げた。
「本当ですか?」
エルダンは頷いた。
「カルタゴから来た商人です」
「名前は?」
エルダンは記録を確認した。
そして答えた。
「マルコス」
俺は首を傾げた。
知らない名前だ。
エルダンは続けた。
「所属商会も記載されています」
俺は尋ねた。
「どこです?」
エルダンは答えた。
「バアルハンノ商会です」
俺は深く息を吐いた。
「……やっぱり」
だが、これだけでは書簡を偽造した証拠にはならない。
俺はネロンに言った。
「マルコス本人の話を聞く必要があります」
ネロンは頷いた。
「分かりました」
そして、サグントゥムの当局へ報告した。
正式な調査の結果。
マルコスは港の宿に滞在していることが分かった。
当局の担当者が、事情を確認するため宿へ向かった。
俺たちは、少し離れた場所で待っていた。
だが。
しばらくして、担当者が戻ってきた。
「……逃げられました」
俺は顔を上げた。
「何?」
「宿の裏口から出たようです」
ネロンが眉をひそめた。
「いつです?」
「つい先ほどです」
俺は深く息を吐いた。
「……情報が漏れたか」
俺はすぐに港へ向かった。
もちろん、俺に人を逮捕する権限はない。
だから、当局の担当者と一緒だ。
港では、複数の船が出港準備をしていた。
エルダンが記録を確認する。
「……マルコスが乗る予定の船があります」
俺は顔を上げた。
「どれです?」
エルダンは一隻の商船を指差した。
「こちらです」
俺は船を見た。
大きな貨物船。
船体には、商会の印が描かれている。
バアルハンノ商会。
俺は深く息を吐いた。
「……また、あの船か」
当局の担当者が船長に事情を説明した。
「マルコスという人物を探している」
船長は首を振った。
「知らない」
担当者が尋ねた。
「乗船者の記録を確認させてもらえるか?」
船長は渋い顔をした。
だが、港の規則に基づく確認であることを説明されると、記録を差し出した。
そこには、マルコスの名前があった。
担当者は眉をひそめた。
「……ここに名前があるぞ」
船長は黙った。
「どこにいる?」
船長はしばらく考えた。
そして答えた。
「……もう乗っていない」
俺は顔を上げた。
「降りたんですか?」
船長は頷いた。
「そうだ」
「いつ?」
「少し前だ」
俺は深く息を吐いた。
……逃げ足が速いな。
だが、船長は続けた。
「ただし、荷物は残っている」
俺は顔を上げた。
「荷物?」
船長は頷いた。
「小さな木箱だ」
俺は当局の担当者を見た。
担当者は船長に尋ねた。
「確認してもよいか?」
船長は少し迷った。
そして頷いた。
「港の規則に従うなら」
担当者は必要な手続きを確認し、木箱を調べた。
中には、書簡が入っていた。
大量の書簡。
俺は一枚を確認した。
そして、息を呑んだ。
「……これは」
そこには、サグントゥムへの進軍命令と同じ文章が書かれていた。
しかも。
すべてに、同じ印章が押されている。
俺は静かに呟いた。
「……配布用に用意されていたのか」
さらに、木箱の底から別の書類が見つかった。
それは、書簡の配布先を記録した一覧だった。
サグントゥム。
周辺の部族。
港の商人。
そして、ローマ方面の商会。
俺は眉をひそめた。
「……かなり広いな」
ネロンが頷いた。
「はい」
俺は続けて確認した。
すると、最後の欄に気になる記載があった。
『配布完了後、各都市の反応を報告すること』
俺は深く息を吐いた。
「……ほう」
これは、単なる噂の拡散ではない。
書簡を配る。
都市の反応を確認する。
そして、その反応を報告する。
つまり、誰かが意図的に各都市の動きを調べている。
その夜。
俺はネロンの商会で資料を整理していた。
メルカルが尋ねる。
「アドン様。
これで偽造だと証明できますか?」
俺は首を振った。
「まだだね」
「どうしてです?」
俺は答えた。
「この書簡が、政府の正式な命令ではないことを確認する必要がある」
メルカルは頷いた。
「カルタゴ本国の記録ですね」
「そう」
俺は続けた。
「それに、印章が本物かどうかも確認しないと」
メルカルは考え込んだ。
「……ほう」
俺は書簡を見つめた。
「でも、少なくとも組織的に配られていたことは分かった」
翌朝。
俺はルキオを訪ねた。
ルキオは険しい表情だった。
「アドン殿」
「お久しぶりです」
「カルタゴ軍が攻めてくるという噂は、本当なのですか?」
俺は答えた。
「ハミルカル将軍は、そのような命令を出していないと説明しています」
ルキオは黙った。
俺は続けた。
「さらに、問題の書簡が組織的に配られていたことが確認されました」
「……何?」
俺は資料を見せた。
ルキオは読み進めるうちに、表情を変えた。
「……これは」
俺は静かに言った。
「誰かが、サグントゥムとカルタゴの対立を深めようとしている可能性があります」
ルキオは深く息を吐いた。
「……また、バアルハンノ商会ですか」
俺は頷いた。
「配布に関わった人物は、その商会に所属していました」
ルキオは黙った。
そして、静かに言った。
「……私は、あの商会を信用しすぎていたのかもしれません」
俺は首を振った。
「大事なのは、これからです」
ルキオが顔を上げた。
「これから?」
「はい」
俺は頷いた。
「サグントゥムが、偽の情報に基づいて軍事行動を決めないようにする必要があります」
ルキオは考え込んだ。
「……ほう」
俺は続けた。
「カルタゴ軍が攻めてくるという噂があるなら、正式な外交ルートで確認するべきです」
ルキオは頷いた。
「分かりました」
数日後。
サグントゥムの有力者会議が開かれた。
議題は、カルタゴ軍の進軍命令について。
ルキオが立ち上がった。
「諸君!」
会議室が静かになる。
「カルタゴ軍が攻めてくるという噂について、正式な確認が必要だ!」
一部の有力者が頷いた。
ルキオは続けた。
「我々は都市を守る必要がある」
「……」
「だが、根拠が不明確な情報によって戦争を始めるべきではない!」
会議室がざわついた。
ネロンも立ち上がった。
「そのとおりです!」
俺は静かに頷いた。
……よし。
会議の結果。
サグントゥムは、カルタゴ政府とハミルカル将軍に対して、正式な照会を行うことになった。
また、問題の書簡についても調査を進める。
俺は深く息を吐いた。
「……ひとまず、最悪の事態は避けられそうだ」
だが、安心するには早かった。
その日の夕方。
ローマの使節ルキウス・ファビウスが、俺を訪ねてきた。
「アドン殿」
「ルキウス殿」
彼は静かに言った。
「少し話がある」
俺は頷いた。
「何でしょう?」
ルキウスは一枚の書簡を差し出した。
「ローマ方面にも、同じ情報が届いている」
俺は顔を上げた。
「……進軍命令ですか?」
「そうだ」
俺は深く息を吐いた。
「……かなり広まっていますね」
ルキウスは頷いた。
「だが、問題はそれだけではない」
俺は眉をひそめた。
「どういうことです?」
ルキウスは静かに答えた。
「ローマの一部の有力者が、サグントゥムへの軍事支援を主張し始めている」
俺は黙った。
「……軍事支援?」
「そうだ」
ルキウスは続けた。
「カルタゴ軍が進軍するなら、ローマも対応するべきだという意見だ」
俺は深く息を吐いた。
……まずい。
これは、まさに避けたかった展開だ。
俺は尋ねた。
「ローマ政府として、正式な決定は出ているんですか?」
ルキウスは首を振った。
「まだだ」
俺は少し安心した。
だが、ルキウスは続けた。
「しかし、議論は始まっている」
俺は黙った。
ルキウスは静かに言った。
「アドン殿」
「はい」
「もしカルタゴ軍がサグントゥムへ進軍すれば、ローマは黙っていないだろう」
俺は頷いた。
「分かっています」
「だが、カルタゴ軍が進軍しなくても、サグントゥム側が先に動けば、衝突が起きる可能性がある」
俺は深く息を吐いた。
「……そのとおりです」
俺は少し考えた。
そして、ルキウスに尋ねた。
「一つ、提案があります」
ルキウスが顔を上げた。
「何だ?」
俺は答えた。
「カルタゴ政府とローマ政府が、互いに軍事行動を控えるよう正式に確認することはできませんか?」
ルキウスは考え込んだ。
「……簡単ではない」
俺は頷いた。
「承知しています」
「ローマには、サグントゥムの安全を重視する者が多い」
「はい」
俺は続けた。
「だからこそ、サグントゥムの自治を尊重する形にするんです」
ルキウスは俺を見た。
俺は静かに言った。
「どちらの国も、一方的に軍を進めない」
「……」
「サグントゥムも、正式な確認が終わるまでは、軍事行動を控える」
「……」
「そして、問題が起きた場合は、まず外交交渉を行う」
ルキウスは考え込んだ。
「……以前の中立交易協定案に近いな」
俺は頷いた。
「そうです」
ルキウスは静かに言った。
「私は、この案をローマへ伝えることはできる」
俺は顔を上げた。
「本当ですか?」
「ただし、決定するのはローマの元老院だ」
俺は頷いた。
「もちろんです」
ルキウスは続けた。
「カルタゴ側も、政府の正式な承認が必要だ」
俺は答えた。
「承知しています」
そして、少し笑った。
「それでも、何もしないよりはいいと思います」
ルキウスも小さく笑った。
「……君は、本当に戦争が嫌いなのだな」
俺は答えた。
「商売ができなくなりますから」
ルキウスは笑った。
「商人らしい理由だ」
俺も笑った。
だが、本当の理由は、それだけではない。
俺は知っている。
カルタゴがローマとの戦争に敗れれば、何が起こるのか。
都市が焼かれる。
人が死ぬ。
商人も、兵士も、農民も。
そして、いつかカルタゴそのものが滅びる。
俺は静かに思った。
……絶対に、そうはさせない。
翌朝。
俺はハミルカル将軍へ報告書を送った。
偽の進軍命令。
書簡の配布経路。
バアルハンノ商会の関与。
サグントゥムの正式照会。
そして、ローマ側の反応。
最後に、こう書いた。
『現時点では、軍事行動を控え、外交による確認を優先することが重要と考えます。
また、問題の書簡について、軍の正式な命令ではないことを明確にする声明を検討していただければと思います。』
数日後。
ハミルカル将軍から返事が届いた。
『アドン殿。
報告を確認した。
私はサグントゥムへの進軍命令を出していない。
また、現時点で同都市への軍事行動を計画していない。
この内容について、正式な書簡をサグントゥム側へ送る。
ただし、カルタゴ政府の正式な外交方針については、本国の判断を待つ必要がある。』
俺は深く息を吐いた。
「……よかった」
少なくとも、将軍本人の意思は明確になった。
だが、その日の夕方。
ネロンが慌てて駆け込んできた。
「アドン殿!」
「どうしました?」
ネロンは息を切らしていた。
「サグントゥムの城門で、騒ぎが起きています!」
俺は顔を上げた。
「何?」
ネロンは続けた。
「カルタゴ軍が近づいているという情報が入ったんです!」
俺は立ち上がった。
「……本当ですか?」
ネロンは首を振った。
「まだ確認できていません!」
俺は深く息を吐いた。
……また噂か。
だが、今度は状況が違った。
ネロンは続けた。
「都市の一部の兵士が、すでに城門へ集まっています!」
俺は顔を上げた。
「……まずい」
「どうしますか?」
俺は答えた。
「まず、実際に軍がいるのか確認しましょう」
俺たちは城門へ向かった。
そこには、大勢の兵士が集まっていた。
城壁の上では、弓兵たちが外を見張っている。
俺は門の責任者に尋ねた。
「何があったんですか?」
責任者は答えた。
「カルタゴ軍が近づいているという報告があった」
「どこから?」
「北西の街道だ」
俺は地図を思い出した。
北西の街道。
そこは、カルタゴ軍の補給部隊が利用することもある道だった。
俺は尋ねた。
「兵士の数は?」
責任者は首を振った。
「まだ分からない」
「旗は確認できましたか?」
「カルタゴの旗らしい」
俺は深く息を吐いた。
「……らしい?」
責任者は黙った。
俺は続けた。
「実際に確認した人はいますか?」
責任者は答えた。
「斥候を出している」
俺は頷いた。
「では、報告を待ちましょう」
しばらくして。
斥候が戻ってきた。
「報告します!」
責任者が尋ねた。
「どうだった?」
斥候は答えた。
「街道を進んでいる集団を確認しました!」
会議室がざわついた。
「カルタゴ軍か?」
斥候は頷いた。
「カルタゴの旗を掲げています!」
俺は眉をひそめた。
「人数は?」
「およそ二百人!」
俺は少し考えた。
二百人。
都市を攻めるには少なすぎる。
だが、住民を不安にさせるには十分な人数だ。
俺は尋ねた。
「荷車はありますか?」
斥候は頷いた。
「あります!」
「何台?」
「十台ほどです!」
俺は顔を上げた。
「……荷車?」
何かがおかしい。
俺は続けて尋ねた。
「兵士たちは、どんな装備でしたか?」
斥候は答えた。
「槍と盾を持っています!」
「攻城兵器は?」
「確認できません!」
俺は深く息を吐いた。
……補給部隊かもしれない。
だが、なぜ今、サグントゥムへ近づいている?俺はネロンに言った。
「ハミルカル将軍の軍営へ、至急確認をお願いします」
ネロンは頷いた。
「分かりました!」
俺はさらに続けた。
「都市側にも、正式な確認が終わるまで攻撃しないよう提案してください」
ネロンは頷いた。
「はい!」
そのとき。
城壁の上から叫び声が響いた。
「カルタゴ軍が近づいてくるぞ!」
兵士たちが一斉に動き始めた。
俺は城壁へ上がった。
遠くの街道に、確かに集団が見える。
旗。
槍。
荷車。
そして、兵士らしい男たち。
俺は目を凝らした。
だが、何かが違う。
隊列が乱れている。
荷車の配置も不自然だ。
俺は静かに呟いた。
「……本当に軍なのか?」
隣にいたハンニバルが、同じ方向を見つめていた。
そして、突然言った。
「アドン」
「何です?」
ハンニバルは集団を指差した。
「……あれは、父上の軍じゃない」
俺は顔を上げた。
「どうして分かるんです?」
ハンニバルは答えた。
「旗の位置がおかしい」
俺は眉をひそめた。
「旗?」
「そうだ」
ハンニバルは続けた。
「父上の軍なら、あんな場所に旗を置かない」
俺は遠くを見つめた。
確かに、旗は集団の先頭近くに集中している。
まるで、遠くから見えることを意識しているようだった。
ハンニバルは静かに言った。
「……あれは、見せるための旗だ」
俺は息を呑んだ。
見せるための旗。
つまり、カルタゴ軍に見せかけるための旗。
俺は深く息を吐いた。
「……まさか」
そのとき。
城壁の下から、兵士の叫び声が響いた。
「敵が攻めてくるぞ!」
俺は振り返った。
そして、気づいた。
誰も、まだ攻撃されていない。
矢も飛んでいない。
槍も交わされていない。
それなのに。
都市の兵士たちは、すでに戦闘準備を始めている。
俺は静かに呟いた。
「……これが狙いか」
偽の命令を広める。
カルタゴ軍が攻めてくると思わせる。
そして、カルタゴの旗を掲げた集団を近づける。
サグントゥムが先に攻撃すれば。
今度は、カルタゴ側が報復を主張するかもしれない。
俺は城壁の責任者へ叫んだ。
「まだ攻撃しないでください!」
責任者が振り返った。
「何だと?」
俺は続けた。
「相手が本当にカルタゴ軍なのか、確認できていません!」
責任者は眉をひそめた。
「だが、旗がある!」
俺は答えた。
「旗なら、誰でも掲げられます!」
その瞬間。
遠くの集団から、一人の騎馬が飛び出した。
こちらへ向かってくる。
城壁の弓兵たちが、一斉に弓を構えた。
俺は息を呑んだ。
……まずい。
騎馬はさらに近づいてくる。
そして。
サグントゥムの城壁から、一人の兵士が叫んだ。
「射て!」
俺は振り返った。
「待て!」
だが、次の瞬間。
一本の矢が、城壁から放たれた。
俺は、その矢を目で追った。
そして、心の中で叫んだ。
――頼む。
当たるな。
だが、矢は、騎馬の男へ向かって飛んでいった。
戦争を始めるには、たった一本の矢で十分だった。




