第二話 商人の息子は軍隊の弱点を知っている
カルタゴを救う。
そう決意した俺だったが、翌朝になって現実に気づいた。
「……何から始めればいいんだ?」
俺はまだ子供だった。
軍隊を動かす権限もなければ、政治家に意見できる立場でもない。
そもそも、ハンニバルに会う方法すら分からない。
カルタゴの有力者に突然会いに行き、「未来ではローマに負けます」などと言ったところで、相手にされるはずがない。
下手をすれば、頭のおかしい子供として追い払われるだけだ。
ならば、どうするか。
俺は父の商会を見回した。
倉庫には大量の商品が積まれている。
小麦。
オリーブ油。
塩。
干し肉。
革製品。
木材。
鉄。
これらはすべて商品だった。
だが、見方を変えれば別の意味を持つ。
軍需物資だ。
「……そうか」
俺は気づいた。
戦争は、兵士だけではできない。
十万人の兵士がいれば、十万人分の食料が必要になる。
馬がいれば飼料が必要だ。
武器は壊れる。
鎧は傷む。
靴はすり減る。
そして、それらを戦場まで運ぶ必要がある。
どれほど優秀な将軍でも、食料が尽きれば戦えない。
ハンニバルも例外ではない。
むしろ、遠く離れたイタリアで戦うハンニバルにとって、補給は最大級の問題になる。
「だったら、俺がやるべきことは決まっている」
まずは商売だ。
商売で実績を作る。
金を稼ぐ。
信用を得る。
そして軍隊に必要な物資を扱う。
そこから、ハンニバルに近づく。
俺は父の仕事を手伝うことにした。
「父さん、この小麦はいつ入ってきたの?」
ある日のこと。
俺は倉庫に積まれた小麦袋を指差した。
父は帳簿から顔を上げた。
「それか? 三か月ほど前だな」
「じゃあ、こっちは?」
「先月だ」
「どうして古い小麦が奥にあるの?」
父は不思議そうな顔をした。
「新しい荷物が来たら、手前に積むからだ」
「それだと、古い小麦がずっと残らない?」
「……まあ、そうなるな」
俺は倉庫の奥を見た。
古い袋のいくつかには湿気の跡があった。
「古いものから売った方がいいと思う」
父は笑った。
「そんなことは分かっている。
しかし、いちいち奥から運び出すのは面倒だ」
「だったら、入口と出口を分ければいい」
「入口と出口?」
「新しい荷物は反対側から入れて、古い荷物をこちらから出すんだ」
俺は地面に倉庫の図を描いた。
荷物の搬入口。
保管場所。
出荷口。
そして荷物が一方向に流れるように矢印を引いた。
「こうすれば、古いものから順番に出せる」
父はしばらく図を眺めていた。
「……ほう」
それが最初の改善だった。
もっとも、すべての倉庫で入口と出口を分けられるわけではない。
そこで俺は、荷物を置く場所にも番号を付けた。
さらに、入荷した日付と数量を記録するよう提案した。
どこに何があるのか。
いつ入ってきたのか。
どれだけ残っているのか。
帳簿を見れば分かるようにした。
父は最初、面倒くさがっていた。
だが、一か月後には態度が変わった。
「アドン」
「何?」
「小麦の傷みが減った」
「よかったね」
「それだけじゃない。
荷物を探す時間も短くなった」
父は帳簿を見ながら言った。
「お前、誰にこんなことを教わった?」
「……考えた」
「本当か?」
「うん」
もちろん、前世の知識だった。
現代では珍しくもない在庫管理の考え方だ。
しかし、この時代では、帳簿を付けていても倉庫の運用まで細かく管理している商人ばかりではない。
少なくとも父の商会では、大きな効果があった。
それから数年。
俺は父の商会で、さまざまな改善を続けた。
荷物の数量確認。
輸送日数の記録。
船ごとの積載量の管理。
商品の損耗率の計算。
特に力を入れたのは、輸送だった。
カルタゴは海上交易で栄えた都市だ。
地中海各地から大量の商品が運ばれてくる。
しかし、船が港に到着してから商品が倉庫へ運ばれるまでには、意外なほど無駄があった。
荷下ろしの順番が決まっていない。
運搬人が足りない。
倉庫に空きがない。
荷車が別の仕事に使われている。
一つでも問題が起きれば、商品は港に積まれたままになる。
「父さん、船が着く前に荷車を用意できない?」
「船がいつ着くか分からないだろう」
「だいたいの予定は分かるよね?」
「まあな」
「だったら、船ごとに必要な荷車の数を決めておこう」
俺は過去の記録を調べた。
船の大きさ。
積荷の種類。
荷下ろしに必要な人数。
倉庫までの距離。
そして、荷下ろしにかかった時間。
記録を比較すると、問題が見えてきた。
荷車が不足する日もあれば、逆に何台も遊んでいる日もある。
運搬人も同じだった。
俺は予定表を作った。
どの船が来るのか。
何を運ぶのか。
荷車は何台必要か。
何人の運搬人を配置するか。
もちろん、天候によって船の到着は遅れる。
だから予備の荷車と人員も確保した。
すると、港での作業時間が短くなった。
父の商会では、以前より多くの商品を扱えるようになった。
利益も増えた。
そして何より、商会の評判が変わった。
「アドンのところは荷物が早い」
「数量の間違いが少ない」
「約束した日に商品が届く」
商人たちの間で、そんな噂が広がり始めた。
俺にとっては、まだ小さな成功だった。
だが、その評判は思いがけない相手の耳にも届くことになる。
ある日。
父の商会に、一人の男が訪ねてきた。
日に焼けた顔。
頑丈そうな体格。
腰には短剣。
商人には見えなかった。
「この商会の主人はいるか?」
父が応対する。
「私ですが」
「軍の補給を担当している者だ」
俺は思わず顔を上げた。
軍。
その言葉に、心臓が跳ねた。
男は続けた。
「軍用の小麦と油を調達したい。
かなりの量になる」
父は数量を聞き、少し考え込んだ。
「その量ですと、準備に時間が必要です」
「どれくらいだ?」
「二十日ほどは……」
「十日で欲しい」
父は首を振った。
「それは難しい」
俺は横から口を挟んだ。
「どこへ運ぶんですか?」
男がこちらを見た。
「誰だ?」
「息子のアドンです」
父が紹介した。
男は俺を見下ろした。
「子供には関係ない話だ」
「運ぶ場所によって、必要な日数が変わります」
「……何?」
「港までなら十日以内でも可能かもしれません。
でも、内陸の軍営まで運ぶなら荷車が必要です」
男は黙った。
俺は続けた。
「小麦は一度に全部必要ですか?」
「どういう意味だ?」
「最初に必要な分だけ先に運んで、残りを後から届けることはできませんか?」
男の表情が変わった。
「……続けろ」
俺は帳簿を開いた。
現在の在庫。
近隣商会から調達できる数量。
港に入る予定の船。
そして荷車の手配状況。
それらを確認しながら、納入計画を組み立てた。
「最初の四日で三割。
八日目までにさらに四割。
残りは十二日目までに届けられると思います」
男は腕を組んだ。
「十日以内に全部は無理なのか?」
「無理に約束すれば、途中で遅れる可能性があります」
俺は答えた。
「でも、軍が最初から全部使うわけではないなら、必要な分を先に届ける方が確実です」
男はしばらく考えていた。
そして父に尋ねた。
「この子が、いつも荷物の手配をしているのか?」
「ええ。
最近はほとんど息子に任せています」
「そうか」
男は俺を見た。
「面白い考え方をするな」
俺は軽く頭を下げた。
その日のうちに、軍との取引が決まった。
納入は予定どおり進んだ。
最初の荷物は四日目に到着。
次の荷物も遅れなかった。
最後の荷物は十二日目に届いた。
数量の不足もなかった。
後日、あの軍人が再び商会を訪れた。
「助かった」
父が笑顔で迎える。
「お役に立てて何よりです」
「実はな、別の商会にも頼んでいたのだが、そちらは予定より遅れている」
男は苦笑した。
「お前たちの荷物が先に届いていなければ、軍営の食料が不足するところだった」
俺は尋ねた。
「軍では、いつもこんなふうに物資を調達しているんですか?」
「まあ、そうだな」
「必要な量は、どうやって決めるんです?」
「兵士の人数をもとに計算する」
「馬や荷運びの動物の飼料は?」
「もちろん必要だ」
「輸送中に失われる分は?」
男は少し考えた。
「……経験で見積もる」
俺は頷いた。
「そうですか」
この時代の軍隊にも補給を管理する人間はいる。
だが、計算方法や記録の残し方には改善の余地がありそうだった。
「兵士の人数と移動日数が分かれば、必要な食料を計算する表を作れますよ」
「表?」
「はい。
兵士が何人で、何日行軍するのか。
馬が何頭いるのか。
それを記入すれば、必要な物資の目安が分かるものです」
男は俺をじっと見た。
「……作れるのか?」
「作れます」
「では、一度見せてくれ」
俺はその場で紙を取り出した。
兵士の人数。
一日あたりの食料。
行軍日数。
予備の食料。
輸送に必要な荷車。
それぞれの項目を書き込んでいく。
男は黙って見ていた。
そして、完成した表を手に取った。
「これは……便利だな」
「数字を変えれば、別の部隊にも使えます」
「ほう」
男は何度も頷いた。
「アドンと言ったな」
「はい」
「この表を、軍の補給担当者に見せても構わないか?」
俺は笑った。
「もちろんです」
男は表を丁寧に折りたたんだ。
「お前の名前も伝えておこう」
その言葉を聞いた瞬間、俺は確信した。
ようやく一歩進んだ。
まだハンニバルには遠い。
だが、軍とのつながりができた。
商人の息子として、軍に役立つ人間だと認識された。
それだけでも大きな前進だった。
その夜。
俺は自室で地中海の地図を広げていた。
カルタゴ。
シチリア。
サルディニア。
ヒスパニア。
イタリア。
そしてアルプス。
前世で知っている歴史を思い出す。
第一次ポエニ戦争の敗北後、カルタゴはヒスパニアへ勢力を広げていく。
その中心となるのが、バルカ家だった。
ハミルカル・バルカ。
そして、その息子ハンニバル。
やがてハンニバルはカルタゴ軍を率い、ローマと戦うことになる。
俺が目指すべき相手は、最初から決まっていた。
だが、いきなり会いに行くつもりはない。
必要なのは信用だ。
軍の補給を改善する。
実績を作る。
さらに大きな仕事を任される。
そうして軍の上層部へ近づいていく。
そして、いつかバルカ家の人間に会う。
そのとき、ただの商人の息子では駄目だ。
軍隊を支える能力がある。
戦争に必要な物資を用意できる。
そして、将軍が抱える問題を解決できる。
そう思わせなければならない。
俺は地図のヒスパニアに指を置いた。
「……まずは、ここだな」
ハンニバルの軍事的な基盤となる土地。
豊かな鉱山。
兵士。
馬。
そしてローマと戦うための資金。
バルカ家が勢力を拡大する場所だった。
ここで信用を得られれば、未来は変えられるかもしれない。
俺は地図を閉じた。
まだ俺の名前を知っている軍人は、ほんのわずかだ。
ハンニバルは俺の存在すら知らない。
それでいい。
焦る必要はない。
俺が目指しているのは、一度の取引ではない。
将軍が戦争を始める前に、必要な準備を整えられる人間になることだ。
そして、いつの日か。
ハンニバルが重要な決断を下すとき、その隣で意見を求められる存在になる。
俺は小さく呟いた。
「まずは、軍に必要とされる商人になろう」
ザマの戦いまで、まだ時間はある。
だが、歴史はすでに動き始めていた。




