第一話 俺はカルタゴが滅びることを知っている
俺が生まれた町は、美しかった。
青い海。
白い石造りの建物。
港には無数の商船が並び、朝から荷運び人たちの声が響いている。
市場へ行けば、小麦、オリーブ油、ワイン、香辛料、象牙、染料。
地中海各地から運ばれてきた商品が山のように積まれていた。
金が集まる。
人が集まる。
船が集まる。
世界でもっとも豊かな都市の一つ。
その名は――カルタゴ。
そして俺は、そのカルタゴで生まれた。
名前はアドン。
商人の息子だった。
何不自由ない生活だった。
ただ一つだけ俺には、とんでもない問題があった。
前世の記憶があったのだ。
そして、この町の未来を知っている。
「……カルタゴって、あのカルタゴだよな?」
幼いころ。
父親に連れられて港を歩きながら、俺は何度も確認した。
カルタゴ。
ローマ。
シチリア。
ヒスパニア。
聞けば聞くほど間違いない。
ここは、俺が前世で知っていた古代地中海世界だった。
ならば、この国はローマと戦争になる。
いや、すでに一度戦っている。
第一次ポエニ戦争。
カルタゴは敗北した。
シチリアを失った。
多額の賠償金まで背負った。
だが、それで終わりではない。
やがて一人の男が現れる。
ハンニバル・バルカ。
アルプスを越え、ローマ軍を次々と撃破し。
カンナエでは、ローマ史上でも最大級の大敗北を与える。
だが――それでもカルタゴは負ける。
紀元前二〇二年。
ザマの戦い。
ハンニバルはスキピオに敗北する。
そしてカルタゴは軍事力を奪われ、ローマの許可なしでは、まともに戦争することすらできなくなる。
その後、ヌミディアに領土を削られ、追い詰められ、最後にはローマ軍によってカルタゴそのものが滅ぼされる。
紀元前一四六年。
町は破壊される。
多くの住民が殺され、財産を奪われ、男も女も嬲られ、
弄ばれ、玩具にされ、殴られ、切られ、
生き残った者も奴隷として売られ所有物化されて凄惨な末路をたどる。
つまり、俺の家族も友人も。
この市場の商人も。
港で働いている男たちも。
未来ではすべてを失う可能性がある。
「冗談じゃない」
俺は港を見ながら呟いた。
父が振り返る。
「どうした、アドン?」
「なんでもない」
俺は笑った。
まだ時間はある。
ザマの戦いは、ずっと先だ。
だったら、変えればいい。
問題は、どうやって変えるか。
俺は軍人ではない。
剣の達人でもない。
戦象を操ることもできない。
ましてや、ハンニバルに戦術を教えられるほどの軍事的天才でもない。
しかし、俺には一つだけ武器がある。
歴史を知っている。
カルタゴが、どこで間違えるのかを知っている。
そして何より、ザマで何が起こるのかを知っている。
俺は地面に枝で線を引いた。
中央。
カルタゴ歩兵。
前方。
戦象。
そして敵はローマ軍。
スキピオは、戦象を恐れない。
歩兵隊列に通路を作る。
象をそこへ誘導する。
投槍。
騒音。
混乱。
戦象部隊は突破力を発揮できない。
それどころか、混乱した象が味方へ戻ってくる危険まである。
さらに――
「ヌミディア騎兵」
俺は呟いた。
これだ。
ザマの勝敗を決める最大の要素の一つ。
カルタゴは、それまで優秀なヌミディア騎兵を利用してきた。
だがザマでは違う。
ヌミディア王国の初代国王マシニッサがスキピオ側につく。
ローマ側が騎兵で優位に立つ。
カルタゴ騎兵は追い払われる。
そして最後には、戻ってきたローマ・ヌミディア騎兵がハンニバル軍の背後を襲う。
正面にはローマ軍。
背後には騎兵。
挟撃。
敗北。
「だったら……」
俺は枝を止めた。
カルタゴは商業国家だ。
有力者たちには、それぞれの利益がある。
ハンニバルを支持する者もいれば、バルカ家の勢力拡大を警戒する者もいる。
祖国が危機だからといって、全員が同じ方向を向くわけではない。
俺は枝を折った。
ザマで奇跡を起こすつもりはない。
奇跡なんて信用しない。
――ハンニバルを勝たせる。
「紀元前二〇二年……」
まだ誰も知らない。
その年、ザマという場所で、カルタゴの運命を決める戦いが起きることを。
だが俺だけは知っている。
だから準備する。
十年でも二十年でも。
必要なら、人生そのものを使ってカルタゴを滅ぼさせない。
ザマの戦いで――今度は、カルタゴが勝つ。




