第十六話 サグントゥムを攻めなければ、戦争は避けられるのか
サグントゥム。
その名前を見た瞬間、俺はしばらく動けなかった。
前世の歴史で、第二次ポエニ戦争のきっかけとなった都市。
紀元前二一九年。
ハンニバルはサグントゥムを包囲した。
都市は陥落する。
そして翌年、ローマとカルタゴの戦争が始まった。
その後、ハンニバルはアルプスを越え、イタリアへ侵攻する。
トレビア。
トラシメヌス湖。
カンナエ。
数々の戦いでローマ軍を破った。
だが、ローマは降伏しなかった。
そして最終的に、ザマでカルタゴが敗れる。
俺はその歴史を知っている。
だからこそ、サグントゥムという名前には特別な意味があった。
ただし、今はまだハミルカルが生きている時代だ。
サグントゥムが将来ローマとどのような関係を結ぶのかも、まだ決まっていない。
つまり、今なら、歴史を変えられる。
俺は地図を見つめた。
「……まずは、戦争の原因を作らないことだな」
だが、それだけで十分なのだろうか。
サグントゥムを攻めなければ、ローマとの戦争は起きないのか。
答えは分からない。
ローマとカルタゴの対立は、一つの都市だけが原因ではないからだ。
交易。
領土。
軍事力。
同盟関係。
地中海の覇権。
さまざまな問題が積み重なっている。
俺は深く息を吐いた。
「……だから、サグントゥムを味方にする必要がある」
ただし、軍事力で従わせるのではない。
サグントゥム自身が、カルタゴと協力したいと思う関係を作る。
それが今回の目的だった。
数日後。
俺はヒスパニアへ向かう船に乗っていた。
同行するのは、父の商会で働く若い商人、メルカル。
それに、ハミルカル将軍が手配した護衛二人だった。
メルカルは帳簿を抱えながら尋ねた。
「アドン様」
「何?」
「今回も軍の仕事なんですか?」
「軍の仕事でもあるし、商売の仕事でもある」
「……どちらなんです?」
俺は少し考えた。
「両方かな」
メルカルは困った顔をした。
「一番難しい答えですね」
俺は笑った。
「そうだね」
彼は帳簿を開いた。
「サグントゥムは、交易都市としても重要なんですよね?」
「そうだ」
「ならば、カルタゴの商品を売り込めばいいんですか?」
「それだけじゃ足りない」
「なぜです?」
俺は海を見つめた。
「向こうにも、取引相手を選ぶ理由があるからだ」
メルカルは首を傾げた。
「理由?」
「価格が安い」
「はい」
「商品がよい」
「はい」
「約束を守る」
「ほう」
「それから、戦争に巻き込まれない」
メルカルは黙った。
俺は続けた。
「どれほど安い商品を売ってくれる相手でも、その相手と取引したせいで町が戦場になるなら、誰だって考え直すだろう?」
「……確かに」
「だから、今回は商品を売るだけじゃない」
俺は答えた。
「カルタゴと取引しても安全だと思ってもらう必要がある」
ヒスパニアへ到着すると、俺はすぐにハミルカル将軍の司令部へ向かった。
将軍は地図を広げて待っていた。
「アドン、戻ったか」
「はい」
「ローマの使節との会談はどうだった?」
俺は本国での交渉内容を説明した。
軍事行動の制限。
交易拠点の扱い。
同盟都市の安全。
そして、今後も協議を続けること。
ハミルカルは黙って聞いていた。
やがて、低い声で言った。
「……ローマは、我々の動きを止めたいのだな」
「少なくとも、北東部への進出を警戒しています」
「当然だろう」
ハミルカルは地図を指差した。
「ヒスパニアで我々の力が強くなれば、ローマも無視できなくなる」
俺は頷いた。
「はい」
「だが、我々にも必要なものがある」
「軍の維持費ですね」
「そうだ」
将軍は続けた。
「ヒスパニアの収入がなければ、軍を維持するのは難しい」
俺は頷いた。
「だから、交易を拡大する必要があります」
「うむ」
「ただし、サグントゥムについては慎重に進めたいと思っています」
ハミルカルが顔を上げた。
「理由は?」
俺は少し考えた。
前世の歴史を話すわけにはいかない。
だから、現実的な理由を説明した。
「サグントゥムは、複数の勢力と交易しています」
「そうだな」
「そこへカルタゴ軍が強引に介入すれば、ローマやマッシリアに警戒されます」
ハミルカルは頷いた。
「そのとおりだ」
「だから、まずは現地の商人や有力者と話したいんです」
「よかろう」
将軍は少し笑った。
「また商売で問題を解決するつもりか?」
俺も笑った。
「できれば、そうしたいですね」
そのとき、部屋の扉が開いた。
「父上!」
ハンニバルだった。
俺を見ると、嬉しそうに近づいてきた。
「アドン! 戻っていたのか!」
「はい。
お久しぶりです」
「ローマの使節と話したそうだな」
「はい」
ハンニバルは興味深そうに尋ねた。
「どうだった?」
俺は少し考えた。
「思っていたより、冷静な相手でした」
「ほう?」
「こちらの話も聞いてくれました」
ハンニバルは腕を組んだ。
「だが、ローマは信用できるのか?」
俺は答えた。
「信用できるかどうかは、これからの行動で判断するべきだと思います」
ハンニバルは少し考えた。
「……ほう」
俺は続けた。
「相手を最初から敵だと決めつけると、交渉できることまで交渉できなくなります」
ハンニバルは頷いた。
「そうだな」
そして、地図を見た。
「今度はサグントゥムか」
「はい」
「俺も行きたい」
俺は驚いた。
「ハンニバル様も?」
「ああ」
ハンニバルは笑った。
「商人がどうやって都市を味方につけるのか、見てみたい」
俺はハミルカルを見た。
将軍は少し考えた。
そして頷いた。
「よかろう。
ただし、軍事行動はするな」
ハンニバルは笑った。
「分かっています!」
俺は苦笑した。
こうして、ハンニバルも同行することになった。
数日後。
俺たちはサグントゥムへ到着した。
丘の上に築かれた都市。
堅固な城壁。
周囲には農地が広がり、商人たちが荷車を行き交っている。
俺は城壁を見上げた。
「……ここがサグントゥムか」
前世の歴史では、この都市が長い包囲戦の末に陥落する。
だが、今は平和だった。
市場には商品が並び、人々が買い物をしている。
子供たちが走り回っていた。
俺は静かに呟いた。
「……この町を戦場にしたくないな」
ハンニバルが尋ねた。
「何か言ったか?」
俺は首を振った。
「いえ。
立派な都市だと思いまして」
ハンニバルは頷いた。
「確かにな」
俺たちはまず、市場を調べることにした。
サグントゥムの市場には、さまざまな商品が並んでいた。
穀物。
オリーブ油。
ワイン。
陶器。
金属製品。
布。
そして、遠方から運ばれてきた装飾品。
俺は一つずつ価格を確認した。
メルカルが記録していく。
「アドン様」
「何?」
「カルタゴの商品もありますね」
「そうだね」
「ですが、マッシリアから来た商品も多いです」
俺は頷いた。
「それが普通なんだろう」
「普通?」
「サグントゥムは、カルタゴだけの市場じゃないから」
俺は続けた。
「複数の交易相手がいる方が、都市にとっては有利なんだ」
メルカルは少し考えた。
「価格を比較できますからね」
「そういうこと」
俺は笑った。
「商人が競争すれば、買う側は得をすることが多い」
ハンニバルが尋ねた。
「では、カルタゴだけと取引させるのは難しいのか?」
「難しいでしょうね」
俺は答えた。
「それに、無理に独占しようとすると反発されます」
ハンニバルは頷いた。
「ほう」
俺は続けた。
「だから、カルタゴと取引する利点を増やすんです」
そのときだった。
一人の若い男が声をかけてきた。
「あなたたち、カルタゴから来た商人ですか?」
俺は振り返った。
年齢は二十代後半ほど。
落ち着いた表情。
質素だが清潔な衣服。
そして、商人らしい鋭い目をしていた。
「そうですが」
俺が答えると、男は頷いた。
「市場の価格を調べているようでしたので」
「はい」
「何か商品を売りに来たんですか?」
俺は笑った。
「それも考えていますが、まずは市場の状況を知りたくて」
男は少し考えた。
そして言った。
「それなら、私の店へ来ませんか?」
俺は顔を上げた。
「よろしいんですか?」
「はい」
男は笑った。
「私はネロン。
ここで交易商をしています」
こうして、俺たちは若い商人ネロンと知り合った。
ネロンの店には、多くの商品が並んでいた。
カルタゴ産の布。
マッシリア産の陶器。
ヒスパニア内陸部の金属製品。
そして、各地の農産物。
俺は思わず感心した。
「……いろいろ扱っているんですね」
ネロンは笑った。
「この町では、それが普通です」
「ほう」
「カルタゴの商品だけでは商売になりませんし、マッシリアの商品だけでも足りません」
俺は頷いた。
「複数の地域と取引しているんですね」
「そうです」
ネロンは椅子を勧めた。
「ところで、あなたたちは何を調べているんですか?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「カルタゴとサグントゥムの交易を、もっと増やせないか考えています」
ネロンの表情が変わった。
「……カルタゴとの交易?」
「はい」
「それなら、一つ聞きたいことがあります」
俺は頷いた。
「何でしょう?」
ネロンは真剣な表情になった。
「カルタゴは、この町を支配するつもりなんですか?」
俺は黙った。
いきなり核心を突かれた。
「支配するつもりはありません」
俺は答えた。
ネロンは眉をひそめた。
「本当ですか?」
「少なくとも、私はそのために来たわけではありません」
ネロンは俺を見つめた。
「カルタゴ軍がヒスパニアで勢力を広げていることは知っています」
「はい」
「道路を作り、部族と協定を結び、軍事拠点を増やしている」
「そうですね」
「では、次はこの町ではないのですか?」
俺は首を振った。
「私は、サグントゥムとは交易で関係を築きたいと考えています」
ネロンは黙った。
俺は続けた。
「この町には、この町の政治があります」
「……」
「それを無視して、カルタゴの都合だけで動かすべきではないと思います」
ネロンは少し驚いた。
「カルタゴの商人が、そんなことを言うんですか?」
俺は笑った。
「商人だからこそです」
「なぜ?」
「町が戦場になったら、商売どころではありませんから」
ネロンはしばらく俺を見つめた。
そして、少し笑った。
「……ほう」
だが、ネロンは続けた。
「それなら、もう一つ聞きます」
「はい」
「ローマも、我々との交易を増やしたいと言っています」
俺は頷いた。
「そうでしょうね」
「マッシリアの商人たちも、この町を重視しています」
「はい」
「ならば、なぜカルタゴと特別な関係を結ぶ必要があるんですか?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「特別な関係を結ぶ必要はありません」
ネロンは驚いた。
「……何?」
「サグントゥムは、複数の国と取引すればいいと思います」
「……」
「その中で、カルタゴの商品や交易条件がよければ、選んでいただければいいんです」
ネロンは黙った。
俺は続けた。
「ただし、カルタゴには強みがあります」
「強み?」
「ヒスパニア内陸部との交易路です」
俺は地図を広げた。
「現在、カルタゴは道路や交易拠点の整備を進めています」
「それは聞いています」
「それを利用すれば、内陸部の商品を今より安定して運べるようになります」
ネロンは地図を見た。
「……ほう」
「金属製品や農産物を運びやすくなれば、サグントゥムの商人にも利益があります」
ネロンは頷いた。
「確かに」
俺は続けた。
「それに、カルタゴの港を利用すれば、北アフリカ方面への交易も広がります」
ネロンは考え込んだ。
「……悪くない話ですね」
俺は笑った。
「ありがとうございます」
だが、ネロンはすぐに真剣な表情になった。
「ただし、問題があります」
「何でしょう?」
「この町には、カルタゴとの関係を強めたい人もいれば、ローマとの関係を強めたい人もいます」
俺は頷いた。
「そうでしょうね」
「そして、どちらにも近づきたくない人もいる」
「ほう」
ネロンは続けた。
「私は、その最後の立場です」
俺は顔を上げた。
「どちらにも近づきたくない?」
「はい」
ネロンは答えた。
「カルタゴにもローマにも、支配されたくありません」
俺は黙った。
ネロンは続けた。
「我々は、自分たちの町で商売をしたいだけなんです」
その言葉を聞いて、俺は深く頷いた。
「……分かります」
ネロンは俺を見た。
「本当に?」
「はい」
俺は答えた。
「商人にとって、戦争は大きな損失ですから」
ネロンは少し笑った。
「そうですね」
俺は続けた。
「だから、サグントゥムが中立的な交易都市として発展する方法を考えたいと思います」
ネロンの表情が変わった。
「中立的な交易都市?」
「はい」
俺は頷いた。
「カルタゴとも取引する。
ローマとも取引する。
マッシリアとも取引する」
「……」
「ただし、どの国の軍隊にも、勝手に町へ入らせない」
ネロンは黙った。
俺は続けた。
「そうした取り決めができれば、町の安全を守りながら交易を続けられるかもしれません」
ネロンはしばらく考えた。
そして、静かに言った。
「……それができるなら、理想的です」
俺は頷いた。
「ですが、簡単ではありません」
「そうでしょうね」
「カルタゴだけでなく、ローマにも同じ条件を認めてもらう必要があります」
ネロンは深く息を吐いた。
「……そこが難しい」
俺も頷いた。
「そうですね」
その日の夕方。
俺たちはサグントゥムの有力商人たちとの会合に招かれた。
参加者は十数人。
カルタゴとの交易を重視する者。
マッシリアとの関係が深い者。
ローマとの交易に期待する者。
それぞれ立場が違う。
俺は会議の冒頭で、こう説明した。
「本日は、カルタゴの商品を売り込むためだけに来たわけではありません」
商人たちが顔を上げた。
「サグントゥムとカルタゴが、互いに利益を得られる方法を考えたいと思っています」
一人の商人が尋ねた。
「軍隊は来ないのか?」
俺は答えた。
「今回の交易交渉に、軍隊を使うつもりはありません」
別の商人が言った。
「では、カルタゴの保護を受ける必要もないのか?」
「交易のために政治的な従属を求めるつもりはありません」
会場がざわついた。
俺は続けた。
「ただし、軍事的な安全保障については、都市の正式な代表者とカルタゴ政府が別途協議する必要があります」
商人たちは頷いた。
その区別は重要だった。
商人同士で勝手に軍事同盟を結ぶわけにはいかない。
俺は交易の話に戻した。
まず、輸送費について説明した。
サグントゥムから内陸部へ商品を運ぶ場合。
現在は、途中の道路が悪く、荷車の移動に時間がかかる。
雨が降れば通れなくなる道もある。
さらに、部族ごとに通行料を求められることもある。
俺は地図を広げた。
「これらを改善できれば、輸送費を下げられます」
商人たちが地図を覗き込んだ。
「具体的には?」
一人が尋ねた。
俺は答えた。
「まず、主要な交易路の状態を調べます」
「……」
「次に、道路の補修が必要な場所を確認します」
「……」
「そして、通行料については、現地の部族と契約を結びます」
ネロンが頷いた。
「ほう」
俺は続けた。
「重要なのは、軍隊だけが使える道路にしないことです」
「どういう意味だ?」
「商人も自由に利用できる道路にするんです」
商人たちの表情が変わった。
「それなら、我々にも利益がある」
「そうですね」
「だが、費用は誰が出す?」
俺は笑った。
「そこが一番大事な話です」
俺は新しい提案書を広げた。
『サグントゥム交易路共同整備計画』
内容は単純だった。
カルタゴ側の商人。
サグントゥム側の商人。
そして、交易路沿いの部族。
それぞれが利益を得られる仕組みを作る。
道路の補修費用は、利用する商人たちの出資や、合意した通行料から賄う。
ただし、通行料は事前に明確にする。
勝手に値上げできないようにする。
さらに、道路を管理する部族にも報酬を支払う。
一人の商人が尋ねた。
「カルタゴ軍も、その道路を使うのか?」
俺は頷いた。
「使う可能性はあります」
会場が静かになった。
俺は続けた。
「ですが、軍が使う場合は、別途決めた条件に従う必要があります」
「条件?」
「例えば、事前の通知や、農地を荒らさないことなどです」
ネロンが頷いた。
「ほう」
俺は続けた。
「交易路を整備することと、軍隊を自由に進めることは別の問題です」
商人たちは考え込んだ。
そして、一人が言った。
「……悪くない」
別の商人も頷いた。
「少なくとも、今より輸送費が安くなるなら検討する価値はある」
俺は少し安心した。
だが、そのときだった。
会議室の扉が開いた。
「待っていただきたい」
一人の男が入ってきた。
年齢は四十代ほど。
整った衣服。
落ち着いた表情。
そして、鋭い目。
ネロンが立ち上がった。
「……ルキオ殿」
俺は顔を上げた。
ルキオ。
サグントゥムの有力商人で、ローマとの交易を重視する人物だった。
男は俺を見た。
「あなたがカルタゴから来た商人ですか?」
「はい。
アドンと申します」
ルキオは頷いた。
「話は聞きました」
そして、地図を指差した。
「カルタゴが道路を整備するそうですね」
「共同整備を提案しています」
「ほう」
ルキオは少し笑った。
「ですが、その道路を使ってカルタゴ軍が進軍することもできる」
俺は頷いた。
「可能です」
「では、これは軍事的な計画ではないのですか?」
会場が静かになった。
俺は答えた。
「軍事的な利用も可能ですが、商業的な利益もあります」
ルキオは首を振った。
「それでは安心できません」
俺は黙った。
ルキオは続けた。
「カルタゴ軍が近づけば、ローマは警戒するでしょう」
「そうですね」
「その結果、この町が戦争に巻き込まれたらどうするのですか?」
俺は深く息を吐いた。
もっともな質問だった。
「ルキオ殿」
俺は静かに言った。
「私も、この町が戦争に巻き込まれることは避けたいと思っています」
ルキオは俺を見た。
「ならば、カルタゴ軍を近づけないことです」
俺は頷いた。
「それも一つの方法でしょう」
ルキオは少し驚いた。
「……認めるのですか?」
「はい」
俺は答えた。
「ただし、ローマ軍についても同じ条件にするべきだと思います」
ルキオの表情が変わった。
「何?」
「カルタゴ軍だけを制限して、ローマ軍は自由に入れるというのでは、中立とは言えません」
会場がざわついた。
ネロンが頷いた。
「そのとおりだ」
ルキオは黙った。
俺は続けた。
「もしサグントゥムが中立を望むなら、双方の軍隊に同じ条件を求める必要があります」
「……」
「そして、その条件を双方が守る仕組みを作ることが重要です」
ルキオはしばらく考えた。
そして言った。
「……理屈は分かります」
俺は頷いた。
「ありがとうございます」
「ですが、ローマがそれを受け入れるとは限りません」
「そのとおりです」
俺は答えた。
「だからこそ、正式な外交交渉が必要なんです」
会議はその後も続いた。
だが、最終的な結論は出なかった。
カルタゴとの交易を増やしたい商人。
ローマとの関係を重視する商人。
中立を望む商人。
それぞれの立場が違う。
簡単にはまとまらない。
俺は少し疲れた。
「……やっぱり、都市の政治は難しいな」
会議が終わった後。
ネロンが声をかけてきた。
「アドン殿」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
ネロンは少し考えた。
そして言った。
「あなたの提案には、賛成する人も多いと思います」
俺は顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい」
「それはよかった」
だが、ネロンは続けた。
「ただし、問題があります」
俺は苦笑した。
「また問題ですか」
ネロンも笑った。
「この町では、商人だけが政治を決めるわけではありません」
「そうですね」
「有力な家系や、軍事を重視する人々もいます」
俺は頷いた。
「ほう」
ネロンは続けた。
「その人たちの中には、カルタゴを強く警戒している者もいます」
俺は深く息を吐いた。
「……そうでしょうね」
ネロンは静かに言った。
「そして、その人たちにローマの使節が接触しているようです」
俺は顔を上げた。
「ローマの使節が?」
「はい」
「どんな話をしているんですか?」
ネロンは少し考えた。
「詳しくは分かりません」
そして、低い声で続けた。
「ですが、ローマとの友好関係を強めれば、カルタゴから守ってもらえるという話が出ているそうです」
俺は黙った。
ほう。
ローマは、サグントゥムの安全保障に関与しようとしている。
それ自体は外交として理解できる。
だが、もしサグントゥムがローマの保護を受けるようになれば、カルタゴ軍との衝突が起きたときに問題が大きくなる。
俺は静かに呟いた。
「……まずいな」
その夜。
俺は宿でハンニバルと話していた。
「アドン」
「はい」
「サグントゥムは、思ったより難しい都市だな」
「そうですね」
ハンニバルは腕を組んだ。
「カルタゴと取引したい者もいる」
「はい」
「ローマと取引したい者もいる」
「そうですね」
「そして、どちらにも従いたくない者もいる」
俺は頷いた。
「そのとおりです」
ハンニバルは少し考えた。
そして尋ねた。
「もし、この町がローマの味方になったらどうする?」
俺は黙った。
難しい質問だった。
前世の歴史では、サグントゥムを攻めたことが戦争の引き金になった。
だが、今のハンニバルにその話をするわけにはいかない。
俺は静かに答えた。
「それでも、すぐに攻めるべきではないと思います」
ハンニバルは顔を上げた。
「なぜ?」
「ローマと戦争になる危険があるからです」
「だが、敵の拠点が近くにできるのは危険だ」
「そのとおりです」
俺は頷いた。
「だから、軍事的な備えは必要です」
「……」
「ですが、備えることと、先に攻撃することは別です」
ハンニバルは黙った。
俺は続けた。
「もしサグントゥムがローマと友好関係を結んでも、カルタゴの商人が自由に交易できるなら、必ずしも敵になるわけではありません」
ハンニバルは少し考えた。
「……ほう」
俺は続けた。
「問題は、その都市がカルタゴの交易や安全を脅かす行動を取るかどうかです」
ハンニバルは頷いた。
「つまり、同盟関係だけで敵と決めつけるなということか」
俺は笑った。
「そういうことです」
ハンニバルは少し笑った。
「お前と話していると、戦争がどんどん複雑になるな」
俺も笑った。
「実際、複雑なんだと思います」
翌朝。
俺はサグントゥムの商人たちから、交易路の詳しい情報を集め始めた。
道路の状態。
輸送費。
通行料。
交易量。
そして、商品価格。
すると、気になることが分かった。
サグントゥムから内陸部へ向かう交易路の一部で、通行料が急に上がっていたのだ。
俺は記録を確認した。
「……おかしいな」
メルカルが尋ねた。
「どうしました?」
「この道の通行料、以前の二倍近くになっている」
「本当ですね」
「理由は?」
メルカルは別の記録を確認した。
「道路の維持費が増えたと書いてあります」
俺は眉をひそめた。
「維持費?」
「はい」
「道路が壊れたのかな?」
「分かりません」
俺は地図を見た。
その道路は、サグントゥムと内陸部を結ぶ重要な交易路だった。
しかも、カルタゴ側の商人がよく利用している。
俺は少し考えた。
「……現地を見に行こう」
翌日。
俺たちは問題の交易路へ向かった。
道は確かに荒れていた。
だが、通行できないほどではない。
橋も残っている。
大きな崩落も見当たらない。
俺は首を傾げた。
「……これで通行料が二倍?」
メルカルも困った顔をした。
「少し高いですね」
そのとき、道の先に小さな関所が見えた。
武装した男たちが立っている。
俺たちが近づくと、一人が声をかけてきた。
「止まれ!」
俺は馬を止めた。
「何でしょう?」
男は答えた。
「通行料を払ってもらう」
「いくらですか?」
男が金額を告げた。
俺は眉をひそめた。
記録にある金額より、さらに高かった。
「……ずいぶん高いですね」
男は肩をすくめた。
「決まりだ」
俺は尋ねた。
「誰が決めたんですか?」
男は答えた。
「この道を管理している者だ」
「名前を教えていただけますか?」
男は少し考えた。
そして言った。
「ルキオ商会だ」
俺は顔を上げた。
「……ルキオ商会?」
「そうだ」
サグントゥムで、ローマとの交易を重視していた商人。
あのルキオの商会だった。
俺は黙った。
これは偶然だろうか。
それとも、カルタゴ商人の交易を不利にするための行動なのか。
まだ分からない。
だが、調べる必要がある。
俺は静かに呟いた。
「……交易路まで政治に使われているのか」
そして、さらに詳しく調べた結果。
俺たちは、もっと厄介な事実を知ることになる。
通行料が上がっていたのは、カルタゴ商人がよく使う道路だけだった。
一方、マッシリアの商人たちが利用する道路では、通行料が据え置かれていたのだ。
俺は記録を見つめた。
「……これは、単なる値上げじゃないな」
サグントゥムを巡る争いは、軍隊ではなく交易路から始まっていた。
そして、その背後には――ローマとの関係を強めたい商人たちの思惑が隠されていた。




