第百三十五話 カルタゴを若い世代に任せることにしたので、最後の仕事を始めた
紀元前190年。
カルタゴ。
俺は、商人組合の会議室にいた。
目の前には、若い商人たちが集まっている。
彼らの多くは、第二次ポエニ戦争が終わったあとに商売を始めた世代だった。
戦争中の苦労を知らない者もいる。
だが、それは悪いことではない。
むしろ、喜ぶべきことだった。
俺は、机の上に帳簿を置いた。
「今日から、商人組合の運営を皆さんに任せたいと思います」
若い商人たちが驚いた。
「アドン殿が引退されるのですか?」
俺は頷いた。
「少しずつね」
「ですが、まだ教えていただきたいことがたくさんあります!」
俺は笑った。
「全部を俺が教える必要はありません」
「……?」
「皆さん自身で考えて、決めてください」
俺は続けた。
「商売には、正解が一つしかないわけではありません」
「……」
「時代が変われば、必要な商品も変わります」
「……」
「交易路も変わります」
俺は若い商人たちを見渡した。
「だから、昔の成功例だけに頼らないでください」
一人の若い商人が尋ねた。
「アドン殿が、最も大切にしてきたことは何ですか?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「……信用かな」
「信用?」
「そう」
俺は頷いた。
「一度の取引で大きく儲けることより、何度も取引できる関係を作ること」
若い商人たちは、静かに聞いていた。
「相手が困っているときに、足元を見ないこと」
「……」
「契約を守ること」
「……」
「そして、相手にも利益が残るようにすること」
俺は笑った。
「それが、長く商売を続ける一番の方法だと思う」
会議が終わったあと。
メルカルが俺のところへ来た。
「……本当に任せるんですね」
俺は頷いた。
「うん」
「寂しくありませんか?」
俺は少し考えた。
「少しね」
メルカルは笑った。
「私は、かなり寂しいですよ」
俺は驚いた。
「メルカルも引退するんじゃないの?」
「まだです」
「……え?」
「若い連中が、帳簿を間違えないか見ておかないと」
俺は笑った。
「結局、働くんだな」
メルカルも笑った。
「あなたに似たんですよ」
その日の夕方。
俺は港を歩いた。
新しい商船が出航していく。
若い船長が、船員たちへ指示を出している。
荷物を積み込む商人たち。
帳簿を確認する役人。
そして、港で働く人々。
俺がいなくても、すべてが動いている。
俺は、しばらくその光景を見つめていた。
「……これでいいんだ」
その夜。
俺は古い木箱を開けた。
中には、戦争中の記録が残っていた。
アルプス越えの補給計画。
カンナエの戦いの報告。
メタウルスでのハスドルバル救出に関する書簡。
ヌミディアとの協定。
そして、ザマの戦いの記録。
俺は、それらを一冊ずつ取り出した。
どれも、忘れられない出来事だった。
最後に、一枚の地図が出てきた。
ザマの平原。
俺は、その地図を広げた。
本来の歴史では、カルタゴが敗北する場所。
だが、この世界では違った。
ハンニバルとハスドルバルが並んで戦った。
マシニッサはローマ側につかなかった。
そして、カルタゴ軍が勝利した。
俺は、地図を見つめながら呟いた。
「……あの日、すべてが変わったんだな」
俺は地図を畳み、木箱へ戻した。
そして、蓋を閉じた。
「……もう、十分だ」
戦争を変えるために始めた仕事。
それは、ようやく終わろうとしていた。




