第百二十二話 ローマの商人と交渉したら、敵国同士なのに同じことで困っていた
紀元前202年。
シチリア島西部。
カルタゴとローマの商人代表による会談は、双方が安全を保証した港町で行われた。
俺はメルカルを連れ、商船でその港へ向かった。
到着すると、すでにローマ側の代表が待っていた。
年齢は五十歳ほど。
日に焼けた顔。
太い指。
そして、いかにも商人らしい鋭い目。
男は名乗った。
「ルキウス・アエミリウスだ。
穀物と船舶の取引をしている」
俺も頭を下げた。
「カルタゴのアドンです」
男は俺をじっと見た。
「お前が、ハンニバルの補給を支えた商人か」
「そう言われています」
「厄介なことをしてくれたな」
俺は苦笑した。
「そちらも、こちらの商船を何隻も沈めましたよ」
男は一瞬黙り、それから笑った。
「……確かにな」
会談は、港の倉庫で行われた。
机の上には、双方の帳簿が並んでいる。
俺はまず、カルタゴ側の資料を見せた。
「戦争前の交易量です」
ルキウスは頷いた。
「懐かしい数字だ」
「こちらが現在の取引量です」
男の表情が曇った。
「……ひどいものだな」
「ローマ側も同じですか?」
「同じどころか、もっと悪い」
ルキウスは自分の帳簿を開いた。
「イタリアの農村では、働き手が足りない」
「……」
「土地が荒れ、収穫が減った。
船を造る木材も高い」
俺は頷いた。
「カルタゴでも、軍需品の価格が上がっています」
「戦争が続けば、さらに上がる」
「そうですね」
二人は、しばらく帳簿を見つめていた。
そして、ほぼ同時にため息をついた。
「……商売にならないな」
俺は笑った。
「まったくです」
ルキウスが尋ねた。
「アドン。
お前は、本当に和平を望んでいるのか?」
俺は頷いた。
「はい」
「カルタゴはザマで勝ったんだろう?」
「勝ちました」
「ならば、もっと厳しい条件を要求できるはずだ」
俺は首を振った。
「厳しい条件を出して、ローマが再び戦争を始めたら意味がありません」
ルキウスは黙った。
俺は続けた。
「カルタゴは、ローマを滅ぼしたいわけではないんです」
「……」
「ローマと戦争をしなくても、商売ができればいい」
ルキウスは、しばらく俺を見つめていた。
そして笑った。
「変わった商人だな」
俺も笑った。
「よく言われます」
だが、交渉は簡単ではなかった。
ローマ側は、カルタゴ海軍の活動制限を求めた。
カルタゴ側は、ローマによる商船の臨検を制限するよう求めた。
双方とも、自国の安全を優先する。
俺は地図を広げた。
「では、交易船の安全について、共同の規則を作りませんか?」
ルキウスが眉をひそめた。
「共同?」
「はい」
「敵国同士で?」
「戦争が終われば、敵国ではなくなります」
男は黙った。
俺は続けた。
「商船の積荷を記録する」
「……」
「港での検査方法を統一する」
「……」
「海賊被害が出た場合は、双方が情報を交換する」
ルキウスは考え込んだ。
「……それなら、ローマの商人にも利益がある」
「カルタゴの商人にもあります」
会談は三日続いた。
そして、商人代表同士で一つの文書がまとめられた。
正式な条約ではない。
国家を拘束する権限もない。
だが、交易再開を望む商人たちの共同提案だった。
俺は、その文書に署名した。
ルキウスも署名した。
「……これで、元老院が動くと思うか?」
俺は答えた。
「分かりません」
「ずいぶん頼りないな」
「でも、何もしないよりはいいでしょう?」
ルキウスは笑った。
「それはそうだ」
会談が終わった夜。
俺とメルカルは、港の食堂で夕食を食べていた。
パン。
魚の煮込み。
そして、薄い葡萄酒。
メルカルが言った。
「……不思議ですね」
「何が?」
「ローマ人と話しているのに、いつもの商談と変わりませんでした」
俺は頷いた。
「そうだね」
「敵国の人間なのに」
俺はパンをちぎった。
「商人にとっては、戦争より荷物が届かないことの方が身近な問題だからね」
メルカルは笑った。
「それは分かります」
その翌朝。
ローマから急使が到着した。
ルキウスの顔色が変わった。
「……何だと?」
俺は尋ねた。
「どうしました?」
ルキウスは書簡を握りしめた。
「ローマ元老院が、新たな軍団の編成を承認した」
俺は黙った。
「和平交渉を続けながら、戦争の準備も進めるつもりらしい」
メルカルが顔をしかめた。
「……結局、戦うんですか?」
俺は、しばらく考えた。
そして答えた。
「まだ決まっていない」
ルキウスが俺を見た。
「どうするつもりだ?」
俺は言った。
「今度は、ローマ元老院に直接提案します」




