第百二十一話 ローマが和平を拒否しそうなので、商人たちに戦争の損失を計算してもらった
紀元前202年。
カルタゴ。
ザマの戦いから数週間が過ぎた。
カルタゴの港には、久しぶりに活気が戻り始めていた。
戦争が終わったわけではない。
それでも、ローマ軍がアフリカから撤退を始めたことで、人々の表情にはわずかな余裕が生まれていた。
港では商船が修理され、倉庫には穀物が運び込まれている。
しかし、俺の机の上には、相変わらず大量の帳簿が積まれていた。
「……また計算ですか?」
メルカルが呆れた顔をした。
「そうだよ」
「ザマで勝ったんですよね?」
「勝った」
「ハンニバル将軍も帰国しましたよね?」
「帰国した」
「だったら、少しくらい休んでもいいのでは?」
俺は帳簿を閉じた。
「メルカル」
「はい」
「ローマが戦争を続けたら、どうなると思う?」
「また軍隊が来ます」
「そうだね」
「今度も勝てばいいんじゃないですか?」
「それができる保証はない」
俺は窓の外を見た。
「ローマは、カンナエで大敗しても降伏しなかった国だ」
「……」
「ザマで一度負けたくらいで、簡単に諦めるとは思えない」
メルカルは黙った。
俺は机の上に、別の帳簿を置いた。
「だから、戦争を続けるより和平を結んだ方が得だと、ローマ自身に考えてもらう必要がある」
「どうやって?」
俺は笑った。
「商人なら、損得を数字にできるだろ?」
その日の午後。
俺はカルタゴの商人組合に集まってもらった。
集まったのは、穀物商人、船主、金属商人、織物商人、そして金融業者たちだった。
俺は彼らに尋ねた。
「戦争が始まる前、ローマとの交易はどのくらいありましたか?」
年老いた船主が答えた。
「かなりあった。
特に穀物と金属だ」
別の商人が頷いた。
「ローマの商人は、北アフリカの穀物を欲しがっていた」
「こちらもイタリアの木材や加工品を買っていた」
俺は頷いた。
「では、戦争が始まってから、その取引はどうなりました?」
商人たちの表情が曇った。
「減ったどころじゃない」
「船を何隻も失った」
「取引先が潰れた」
「保険料に相当する危険手当も跳ね上がった」
俺は言った。
「それを、全部数字にしてください」
商人たちは顔を見合わせた。
「全部?」
「はい。
可能な範囲で構いません」
「何に使うんだ?」
「ローマの商人に見せます」
一人が笑った。
「敵に帳簿を見せるのか?」
「敵だからこそです」
俺は答えた。
「戦争が終われば、どれだけ商売が戻るかを知ってもらいたい」
十日後。
商人組合から集まった資料を、俺とメルカルは整理していた。
戦争によって失われた船。
閉鎖された交易路。
値上がりした輸送費。
減少した穀物取引。
そして、戦争が終わった場合の予想利益。
メルカルは数字を見て目を丸くした。
「……ものすごい金額ですね」
「そうだね」
「これだけあれば、何隻船が造れるんでしょう?」
「かなりの数だろうね」
俺は資料を二つに分けた。
一つはカルタゴ向け。
もう一つはローマ向けだ。
メルカルが尋ねた。
「同じ内容じゃないんですか?」
「基本の数字は同じだよ」
「では、何が違うんです?」
「説明の仕方」
俺はローマ向けの資料を指差した。
「ローマの商人には、ローマ側の利益を中心に説明する」
「……なるほど」
「カルタゴが儲かると言われても、ローマ人は喜ばないからね」
数日後。
俺は中立の立場にある商人たちを通じて、ローマの有力商人へ書簡を送った。
内容は単純だった。
『戦争が続けば、輸送費は高いままです』
『和平が成立すれば、地中海の交易は再開できます』
『ローマとカルタゴの双方に利益があります』
だが、返事はすぐには来なかった。
そして、最初に届いた返書には、こう書かれていた。
『我々は商人であって、元老院議員ではない』
俺は苦笑した。
「……まあ、そうだよな」
メルカルが尋ねた。
「失敗ですか?」
「いや」
俺は返書の続きを読んだ。
『ただし、交易再開の条件については関心がある』
俺は笑った。
「話を聞いてくれるらしい」
そのころ。
ローマ元老院では、和平をめぐる議論が続いていた。
「ザマの敗北は、一時的なものだ!」
「軍を再編すれば、再びアフリカへ侵攻できる!」
「ハンニバルを野放しにしてよいのか!」
だが、別の議員が立ち上がった。
「では、その軍を誰が養うのだ?」
議場が静まった。
「新たな軍団を編成するには金が必要だ」
「……」
「船を造るにも、兵士へ給料を払うにも、金が必要だ」
その議員は続けた。
「そして、その金を負担するのはローマの市民だ」
反戦派というわけではなかった。
彼も、ローマの勝利を望んでいる。
だが、現実を見ていた。
長い戦争で、イタリアの農村は荒廃していた。
多くの農民が兵士として徴兵され、土地を離れていた。
税負担も重い。
そして、ローマの商人たちも、戦争の継続に不安を感じ始めていた。
その報告がカルタゴへ届いたとき、俺は小さく頷いた。
「……少し動いたな」
メルカルが尋ねた。
「和平になりますか?」
「まだ分からない」
俺は答えた。
「でも、ローマの中にも、戦争を終わらせたい人がいることは分かった」
そのとき、港から使者がやってきた。
「アドン殿!」
「何ですか?」
「ローマの商人代表が、会談を希望しています!」
俺は顔を上げた。
「……来たか」
ザマで勝ったのは、ハンニバルだった。
だが、戦争を終わらせるための戦いは、これからだった。




