第百二十話 ザマの戦いに勝ったので、ローマに滅亡ではなく和平を提案した
紀元前202年。
ザマ近郊。
翌朝。
俺は、ハンニバルとハスドルバルに呼ばれた。
天幕の中央には、大きな地図が広げられていた。
ローマ軍の撤退路。
カルタゴ軍の配置。
そして、周辺の都市。
ハンニバルが言った。
「戦場では、我々が優勢です」
俺は頷いた。
「はい」
「ですが、ローマはまだ降伏していません」
「そうですね」
ハスドルバルが尋ねた。
「追撃すべきだと思うか?」
俺は、しばらく考えた。
そして答えた。
「いいえ」
二人がこちらを見た。
俺は続けた。
「今、ローマ軍を全滅させても、ローマという国は残ります」
ハンニバルが頷いた。
「……そのとおりです」
「ローマは、何度負けても軍を立て直してきました」
俺は地図を指差した。
「だから、必要なのはローマ軍を一度倒すことではありません」
「では?」
「ローマが、戦争を続ける理由をなくすことです」
ハスドルバルが腕を組んだ。
「どうやって?」
俺は答えた。
「和平です」
「……」
「カルタゴが勝った今なら、こちらから条件を出せます」
俺は木板を机に置いた。
そこには、和平案が記されていた。
第一に、双方の捕虜を交換する。
第二に、ローマとカルタゴの商船の安全を保障する。
第三に、互いの本土への侵攻を停止する。
第四に、地中海の交易について、新しい協定を結ぶ。
第五に、今後の領土問題は、武力ではなく交渉で解決する。
ハンニバルは、しばらく読んでいた。
そして言った。
「……穏やかな条件ですね」
俺は頷いた。
「はい」
ハスドルバルが尋ねた。
「ローマに賠償金を求めないのか?」
俺は答えた。
「戦争で失ったものについて、補償を求める余地はあります」
「ならば……」
「でも、ローマが絶対に受け入れられない条件を出せば、戦争は続きます」
ハンニバルは静かに頷いた。
「……なるほど」
俺は続けた。
「カルタゴは、ローマを滅ぼす必要はありません」
「……」
「ローマと戦争をしなくても、豊かになれる仕組みを作ればいいんです」
ハンニバルは、少し笑った。
「やはり、あなたは商人ですね」
俺も笑った。
「はい」
その日の午後。
ハンニバルとスキピオは、再び会談した。
今度は、立場が逆だった。
カルタゴ軍が優勢。
ローマ軍は、撤退条件を求めている。
スキピオは、俺たちが提示した和平案を読んだ。
そして、驚いた顔をした。
「……これだけか?」
俺は頷いた。
「まずは、戦闘を終えるための条件です」
スキピオが尋ねた。
「カルタゴは、ローマの領土を要求しないのか?」
俺は答えた。
「正式な和平交渉では、係争地について協議する必要があります」
「……」
「ですが、ローマ本土を奪うつもりはありません」
スキピオは、しばらく黙っていた。
そして言った。
「……意外だな」
ハンニバルが口を開いた。
「スキピオ将軍」
「はい」
「私は、長い間ローマと戦ってきました」
スキピオは頷いた。
「知っています」
「その間に、多くの兵士が死にました」
「……」
「カルタゴの兵士も、ローマの兵士も」
ハンニバルは続けた。
「もう十分でしょう」
スキピオは、しばらく考えていた。
そして言った。
「私は、ローマ元老院の承認なしに最終的な和平を結ぶことはできない」
俺は頷いた。
「分かっています」
「だが、停戦条件については協議できる」
ハンニバルが頷いた。
「それで構いません」
こうして、ザマの戦いは停戦に入った。
ローマ軍は、負傷者とともに撤退することになった。
カルタゴ軍は、追撃しないことを約束した。
捕虜交換も始まった。
俺は、その様子を見つめていた。
メルカルが尋ねた。
「……これで終わりですか?」
俺は首を振った。
「まだだよ」
「どうして?」
俺は答えた。
「ローマ元老院が、この条件を認めるとは限らないから」
数週間後。
ローマ。
元老院には、ザマの戦いの報告が届いた。
議場は騒然となった。
「スキピオが敗れただと!」
「ハンニバルに!」
「しかも、ハスドルバルまで生きていたのか!」
議員たちは、互いに顔を見合わせた。
だが、さらに驚くべき報告があった。
『カルタゴは、ローマ本土の割譲を要求していない』
『和平交渉を希望している』
議場が静まり返った。
一人の議員が呟いた。
「……どういうつもりだ?」
別の議員が答えた。
「罠かもしれん」
そして、年老いた議員が言った。
「いや……」
全員が彼を見た。
老人は静かに続けた。
「カルタゴは、我々に選択を迫っているのだ」
「選択?」
「戦争を続けるか。
それとも、敗北を認めて国を守るか」
そのころ。
カルタゴ。
俺は港に立っていた。
商船が行き交う。
荷物が運ばれる。
人々が働いている。
戦争が終われば、また交易ができる。
畑を耕せる。
家を建てられる。
子供たちが安心して暮らせる。
俺は、その光景を見つめながら呟いた。
「……これで、ようやく」
だがそのときメルカルが走ってきた。
「アドン殿!」
俺は振り返った。
「どうした?」
メルカルは、息を切らしながら答えた。
「ローマから、新しい情報が届きました!」
俺は眉をひそめた。
「何?」
メルカルは言った。
「ローマ元老院で、和平に反対する議員たちが軍の再編を主張しているそうです!」
俺は目を閉じた。
「……やっぱり、簡単には終わらないか」
メルカルが尋ねた。
「どうします?」
俺は、しばらく海を見つめていた。
そして答えた。
「次は、ローマの商人たちと話そう」
メルカルが驚いた。
「……商人ですか?」
俺は頷いた。
「そう」
「なぜ?」
俺は笑った。
「戦争を続けたい人がいるなら、戦争を終わらせたい人たちにも動いてもらうんだ」
ザマの戦いは、カルタゴの勝利に終わった。
だが、第二次ポエニ戦争は、まだ終結していなかった。
ローマは、最後の決断を迫られていた。
そして俺は、もう一度商人として動くことにした。
剣で勝った戦争を、今度は交易と交渉で終わらせるために。




