第百十九話 ザマの戦いでスキピオを包囲したので、ハンニバルが最後の降伏勧告を出した
紀元前202年。
ザマの平原。
夕日が地平線へ沈みかけていた。
ローマ軍は、少しずつ後退していた。
だが、完全に敗走したわけではなかった。
スキピオは、残った兵士たちを集めて防御隊形を作っていた。
俺は丘の上から、その様子を見つめていた。
「……まだ戦うつもりか」
メルカルが頷いた。
「ローマ軍は、簡単には降伏しないでしょうね」
俺は答えた。
「そうだね」
ハンニバルの本陣。
将校が報告した。
「敵の中央は後退しています!」
ハンニバルは頷いた。
「追撃は?」
「可能です!」
ハンニバルは、しばらく考えた。
そして言った。
「無理な追撃はしません」
将校が驚いた。
「将軍! 今なら敵を壊滅できます!」
ハンニバルは首を振った。
「敵は、まだ隊列を保っています」
「ですが……」
「追撃した兵士が乱れれば、反撃を受ける」
ハンニバルは続けた。
「それに、これ以上の犠牲は避けたい」
ハスドルバルが馬で戻ってきた。
「兄上!」
ハンニバルが顔を上げた。
「無事でしたか」
ハスドルバルは笑った。
「はい」
だが、その鎧には傷がつき、馬も疲れ切っていた。
ハンニバルは頷いた。
「よくやってくれました」
ハスドルバルは答えた。
「まだ終わっていません」
「分かっています」
ハンニバルは地図を広げた。
「敵の退路を確認しましょう」
ハスドルバルが頷いた。
「こちらです」
「騎兵を回せますか?」
「可能です。
ただし、兵士は疲れています」
ハンニバルは考えた。
そして言った。
「では、退路を完全に塞ぐ必要はありません」
ハスドルバルが驚いた。
「……?」
「敵に、撤退できる道を残します」
俺は、その話を聞いて驚いた。
「……逃がすんですか?」
ハンニバルは頷いた。
「はい」
「なぜです?」
「逃げ道のない敵は、最後まで戦います」
俺は黙った。
ハンニバルは続けた。
「しかし、撤退できると分かれば、戦いを終える可能性があります」
俺は頷いた。
「……なるほど」
ハンニバルは、スキピオへ使者を送ることを決めた。
白い布を掲げた騎兵が、ローマ軍の陣地へ向かった。
俺は、その姿を見つめていた。
メルカルが尋ねた。
「何を伝えるんです?」
俺は答えた。
「降伏勧告だと思う」
ローマ軍の陣営。
スキピオは、使者を迎えた。
使者は書簡を差し出した。
スキピオは、それを読んだ。
『これ以上の流血を避けるため、戦闘の停止を提案する』
『ローマ軍が武器を置き、撤退条件について協議するならば、負傷者の救護を認める』
スキピオは、しばらく黙っていた。
そして、書簡を机に置いた。
「……ハンニバルらしい」
副官が尋ねた。
「どうされますか?」
スキピオは答えた。
「まだ、降伏はしない」
副官が頷いた。
「では、戦闘を続けますか?」
スキピオは首を振った。
「……いや」
彼は、疲れ切った兵士たちを見つめた。
「今、戦えば犠牲が増える」
スキピオは使者へ言った。
「ハンニバル将軍に伝えてくれ」
「はい」
「戦闘停止には応じる」
使者が顔を上げた。
「……!」
「ただし、ローマ軍の名誉を守る条件でなければ、正式な降伏には応じられない」
使者は頷いた。
「承知しました」
その夜。
ザマの平原に、静けさが戻った。
両軍は、負傷者の救護を始めた。
戦場には、多くの兵士が倒れていた。
俺は、その光景を見つめていた。
メルカルが静かに言った。
「……勝ったんですよね?」
俺は、すぐには答えられなかった。
そして言った。
「戦場では、勝ったと思う」
「……」
「でも、戦争が終わったわけじゃない」
ハンニバルが近づいてきた。
「アドン」
俺は顔を上げた。
「はい」
「あなたのおかげで、マシニッサがローマ側につきませんでした」
俺は首を振った。
「それだけじゃありません」
「……?」
「ハスドルバル将軍が生きていたことも大きかった」
ハンニバルは頷いた。
「そうですね」
俺は続けた。
「そして、兵士たちが最後まで戦ってくれた」
ハンニバルは静かに笑った。
「そのとおりです」
俺は、遠くのローマ軍の陣地を見つめた。
スキピオは、まだそこにいる。
ローマ軍も、まだ存在している。
だが。
本来の歴史とは、まったく違う結果になった。
俺は呟いた。
「……ザマで、カルタゴが勝った」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が熱くなった。
長い戦争。
多くの犠牲。
何度も失敗した計画。
それでも、ここまで来た。
俺は拳を握った。
「……あとは、戦争を終わらせるだけだ」




