第百十八話 ハスドルバルがローマ軍の側面を突破したので、ハンニバルが総攻撃を命じた
紀元前202年。
ザマの平原。
夕刻。
戦場の西側では、ハスドルバルが騎兵を再編していた。
馬は汗に濡れ、兵士たちは疲れ切っていた。
それでも、ハスドルバルは諦めていなかった。
彼は副官を呼んだ。
「ローマ軍の騎兵は、まだこちらを警戒しているな?」
「はい」
「中央へ戻る気配は?」
「ありません」
ハスドルバルは頷いた。
「ならば、もう一度動く」
副官が驚いた。
「将軍、兵士たちは疲れています!」
「分かっている」
ハスドルバルは答えた。
「だからこそ、最後の一度だ」
ハスドルバルは騎兵を三つに分けた。
第一隊は正面で敵を牽制する。
第二隊は、低い丘の裏側へ移動する。
第三隊は予備として残す。
副官が尋ねた。
「敵に見つかりませんか?」
ハスドルバルは答えた。
「見つかるだろう」
「では……」
「見つかっても構わない」
副官は驚いた。
ハスドルバルは笑った。
「敵がこちらの第二隊を追えば、正面が薄くなる」
「……なるほど」
「追わなければ、第二隊が側面へ回れる」
彼は馬の手綱を握った。
「どちらでも、こちらに機会が生まれる」
ローマ軍の右翼。
指揮官が報告を受けた。
「敵騎兵の一部が、丘の裏へ移動しています!」
「数は?」
「不明です!」
指揮官は眉をひそめた。
「……罠か?」
だが、放置すれば側面を攻撃される。
彼は一部の騎兵を移動させた。
その瞬間。
ハスドルバルが叫んだ。
「今だ!」
カルタゴ軍の第一隊が前進した。
俺は丘の上から、その動きを見ていた。
「……動いた!」
メルカルが叫んだ。
「ハスドルバル将軍です!」
俺は息を呑んだ。
ローマ軍の右翼が、対応に追われている。
騎兵が分かれた。
隊列に隙間ができた。
そして。
カルタゴ軍の騎兵が、その隙間へ突入した。
「……突破した!」
俺は思わず叫んだ。
ハスドルバルは、敵騎兵を追いかけなかった。
そのまま、ローマ軍の側面へ向かった。
副官が叫んだ。
「敵騎兵が後退しています!」
ハスドルバルは答えた。
「追うな!」
「しかし!」
「目的は敵騎兵ではない!」
彼は剣を掲げた。
「ローマ軍の中央だ!」
スキピオの本陣。
伝令が駆け込んできた。
「右翼の騎兵が突破されました!」
スキピオは顔を上げた。
「何?」
「敵騎兵が、中央の側面へ向かっています!」
スキピオは地図を見つめた。
そして、すぐに命じた。
「中央の右翼を後退させろ!」
「はっ!」
「予備兵を側面へ!」
だが。
その動きを待っていた人物がいた。
ハンニバルだった。
「……今ですね」
彼は静かに言った。
そして、角笛を鳴らさせた。
カルタゴ軍の中央が、再び前進を始める。
イタリアで長年戦ってきた精鋭兵たちが、盾を構えた。
「前進!」
ハンニバルの命令が、戦場に響いた。
俺は、その光景を見つめていた。
ローマ軍の右翼は、ハスドルバルの騎兵に対応するため兵を動かしている。
中央では、ハンニバルの精鋭兵が前進する。
そして、ローマ軍の隊列が少しずつ乱れ始めた。
「……これは」
メルカルが尋ねた。
「勝てますか?」
俺は答えられなかった。
ただ、戦場を見つめていた。
スキピオは、前線へ命令を出し続けた。
「隊列を保て!」
「中央は下がりすぎるな!」
「右翼は、騎兵の突撃を受け止めろ!」
だが、命令が届く前に状況が変わる。
右翼の兵士たちは、騎兵の接近を恐れて後退した。
中央の兵士たちは、その動きを見て不安になった。
一部の隊列が乱れた。
スキピオは歯を食いしばった。
「……ハンニバルめ」
ハンニバルは、戦場の変化を見逃さなかった。
「中央、さらに前進!」
カルタゴ軍の精鋭兵が押し込む。
ローマ軍の中央が後退する。
ハスドルバルの騎兵が、側面から圧力をかける。
俺は拳を握った。
「……いける!」
だが、そのとき。
ローマ軍の左翼から、新しい騎兵が現れた。
スキピオが最後まで残していた予備騎兵だった。
彼らは、ハスドルバルの騎兵を横から攻撃しようとしていた。
俺は顔をしかめた。
「……まだ残していたのか!」
メルカルが叫んだ。
「どうします?」
俺は答えた。
「ハスドルバル将軍へ知らせる!」
伝令が走った。
だが、戦場は混乱していた。
騎兵。
歩兵。
負傷者。
そして、砂埃。
伝令が届くまでに時間がかかる。
俺は、遠くのハスドルバルを見つめた。
「……気づいてくれ」
ハスドルバルは、ローマ軍の予備騎兵を確認した。
そして、即座に命じた。
「第三隊を出せ!」
予備として残していた騎兵が動き始めた。
ローマ軍の予備騎兵と、カルタゴ軍の第三隊が激突した。
俺は息を呑んだ。
「……止めた!」
その瞬間。
ローマ軍の中央が、ついに大きく後退した。
一部の兵士が隊列を離れた。
それを見た別の兵士も、後ろへ下がり始めた。
スキピオは叫んだ。
「逃げるな!」
だが、混乱は広がっていく。
ハンニバルは、その光景を見つめた。
そして、静かに言った。
「……勝負が動きましたね」
俺は、夕日に染まる戦場を見つめていた。
ローマ軍が下がっている。
カルタゴ軍が前進している。
本来の歴史では、逆だった。
俺は呟いた。
「……変わった」
メルカルが尋ねた。
「何がです?」
俺は答えた。
「歴史が」
だが。
まだ、戦いは終わっていなかった。
スキピオは、残った兵士を集めていた。
彼は最後まで諦めていなかった。
そして、ハンニバルもそれを知っていた。
ザマの戦いは、カルタゴ軍が優勢となった。
しかし、ローマ軍はまだ完全には崩壊していなかった。




