第百十七話 スキピオがハンニバルの罠を見破ったので、ザマの戦いがさらに激しくなった
ザマの平原。
昼過ぎ。
ローマ軍の中央では、前線の兵士たちが疲れ切っていた。
盾は傷つき、槍は折れ、隊列の隙間には負傷者が倒れている。
それでも、ローマ軍は踏みとどまっていた。
スキピオは前線を見つめた。
「ハンニバルの精鋭は、やはり強いな」
副官が言った。
「中央の損害が増えています」
「分かっている」
「予備兵を投入しますか?」
スキピオは、すぐには答えなかった。
カルタゴ軍の中央は、前進している。
だが、左右の動きが妙だった。
中央が押しているにもかかわらず、両翼は無理に前へ出ていない。
まるで、ローマ軍が中央へ兵を集めるのを待っているようだった。
スキピオは眉をひそめた。
「……包囲か」
副官が顔を上げた。
「何です?」
「ハンニバルは、我々の中央を引きつけている」
スキピオは地図を指差した。
「ここで予備兵をすべて投入すれば、両翼から挟まれる」
「では、どうします?」
スキピオは即座に命じた。
「中央は無理に前進するな。両翼の歩兵を広げろ」
「はっ!」
「騎兵には、カルタゴ軍の側面を監視させろ。追撃するな」
副官が頷いた。
だが、スキピオはさらに続けた。
「それと、敵の側面にある木製の障害物について、詳しく調べろ」
「防御柵のことですか?」
「そうだ」
スキピオは遠くに並ぶ木製の柵を見つめた。
カルタゴ軍の中央歩兵の左右には、移動式防御柵が配置されていた。
前方へ突き出した杭。
複数を連結した防御線。
そして、その後方に待機する槍兵。
騎兵が正面から突撃するには、厄介な障害物だった。
「ハンニバルは、我々の騎兵を警戒している」
スキピオが言った。
「当然ではありませんか?」
副官が尋ねた。
「騎兵の突撃を防ぐための柵でしょう」
「それだけではない」
スキピオは首を振った。
「柵のない場所を見ろ」
副官が目を凝らした。
「……通路があります」
「そうだ。味方の騎兵が戻れるように、あえて隙間を残している」
「では、そこから突破すれば?」
スキピオは首を振った。
「ハンニバルが、その程度のことを考えていないと思うか?」
副官は黙った。
「おそらく、通路の後方には槍兵か予備兵がいる」
スキピオは続けた。
「しかも、敵の補給部隊が奇妙な木箱を運んでいるという報告もある」
「木箱?」
「中身は分からん。だが、戦場で使う何かだろう」
スキピオは目を細めた。
「……まだ、何か隠しているな」
カルタゴ軍の後方にある小高い丘。
俺はローマ軍の動きを見ていた。
「……あれ?」
メルカルが尋ねた。
「どうしました?」
「ローマ軍が横に広がっている」
「逃げるんですか?」
「違う」
俺は顔をしかめた。
「ハンニバル将軍の狙いを読んだんだ」
カルタゴ軍が両翼から包囲しようとしても、ローマ軍は横幅を広げて対応できる。
しかも、予備兵を一度に投入していない。
「……さすがスキピオだな」
メルカルが言った。
「敵を褒めている場合ですか?」
「褒めたくないよ」
俺は苦笑した。
「でも、強いものは強い」
そのとき、側面から伝令が駆け込んできた。
「アドン殿!」
「何?」
「ローマ軍の騎兵が、左翼の防御柵を調べているようです!」
俺は顔を上げた。
「……もう気づいたか」
メルカルが尋ねた。
「何にです?」
「移動式防御柵の弱点だよ」
「弱点?」
「柵がある場所は突破しにくい。でも、柵のない場所なら騎兵は通れる」
「そこには槍兵がいるんでしょう?」
「そう。でも、敵が大勢で来れば、槍兵だけでは防ぎきれないかもしれない」
俺は戦場を見つめた。
「だから、トリブルス(まきびし)も用意してあるんだ」
トリブルス(まきびし)。
トリブルス(まきびし)だ。
四本の鉄の突起を持ち、地面に落とすと必ず一本が上を向く。
馬が踏めば、蹄や足を傷つける危険がある。
以前、ハンニバルと一緒に開発した対騎兵用の障害物だった。
今回のザマの戦いでは、移動式防御柵と組み合わせて使う予定になっていた。
防御柵で騎兵の進路を制限する。
柵のない場所へ敵が向かえば、トリブルス(まきびし)でさらに進路を妨害する。
その間に、槍兵と予備兵が対応する。
ただし、問題もあった。
トリブルス(まきびし)を撒けば、味方の騎兵も通れなくなる。
戦象にも危険だ。
そのため、事前に使用区域を決め、担当兵を配置していた。
俺は補給担当の兵士を呼んだ。
「トリブルス(まきびし)部隊は?」
「各所で待機しています!」
「防御柵は?」
「左翼、右翼ともに異常ありません!」
「予備の柵は?」
「後方の荷車に積んであります!」
俺は頷いた。
「よし。まだ動かさなくていい」
メルカルが尋ねた。
「使わないんですか?」
「今はね」
俺はローマ軍を見つめた。
「スキピオが何を狙っているのか、もう少し見たい」
ハンニバルの本陣。
伝令が駆け込んできた。
「ローマ軍が隊列を広げています!」
ハンニバルは頷いた。
「気づきましたか」
ハスドルバルからも報告が届いた。
『敵騎兵は追撃に応じず。右翼の突破は困難』
ハンニバルは地図を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……面白い」
副官が驚いた。
「将軍?」
「スキピオは、こちらの狙いを読んでいます」
「では、どうします?」
「作戦を変えます」
ハンニバルは即座に命じた。
「中央の精鋭兵を、これ以上前進させない」
「はっ!」
「第二線の一部を後退させ、敵が追ってくるか確認する」
副官が尋ねた。
「罠ですか?」
「罠になるかどうかは、敵次第です」
カルタゴ軍の中央が、少しずつ後退した。
ローマ軍の前線では、兵士たちが歓声を上げた。
「敵が下がるぞ!」
「押し返した!」
だが、スキピオは叫んだ。
「追うな!」
兵士たちが足を止めた。
「隊列を保て!」
カルタゴ軍は後退する。
ローマ軍は追わない。
両軍の間に、わずかな空間が生まれた。
俺は、その光景を見つめていた。
「……どっちも引っかからない」
メルカルが頷いた。
「これでは、決着がつきませんね」
「いや」
俺は首を振った。
「決着はつく」
「どうしてです?」
「兵士が疲れているからだ」
俺は戦場を指差した。
「どちらかが先に限界を迎える」
そのとき。
カルタゴ軍の左翼で、角笛が鳴った。
ローマ騎兵が動いたのだ。
彼らは、カルタゴ軍の左翼を回り込もうとしていた。
俺は息を呑んだ。
「……まずい!」
メルカルが叫んだ。
「左側です!」
ローマ軍の騎兵指揮官は、カルタゴ軍の側面に隙間を見つけていた。
そこは、移動式防御柵の防御線が途切れている場所だった。
味方の騎兵が通るために残していた通路。
ローマ軍は、そこを狙ったのだ。
「今だ!」
ローマ騎兵が前進する。
だが、その進路には乾いた川床があった。
幅は狭い。
しかし、底には石が多く、馬が速度を落とす。
その瞬間。
カルタゴ軍の軽装歩兵が、川床の向こうから現れた。
「投槍!」
槍が飛ぶ。
ローマ騎兵は隊列を乱した。
俺は目を見開いた。
「……あそこに兵を置いていたのか!」
ハンニバルは、最初からその川床を利用するつもりだった。
ローマ騎兵が防御柵を迂回すれば、通る可能性の高い場所。
そこに、少数の軽装歩兵を隠していた。
だが。
スキピオは、さらに一手先を読んでいた。
「川床に敵兵がいる?」
報告を聞いたスキピオは、即座に命じた。
「騎兵を戻せ!」
「しかし、敵の左翼を突破できます!」
「戻せ!」
騎兵は引き返した。
罠は成功した。
だが、決定打にはならなかった。
ハンニバルは、遠くのローマ軍を見つめた。
「……本当に、手強い」
しかし、戦いはそこで終わらなかった。
ローマ軍の別の騎兵部隊が、今度はカルタゴ軍の右翼へ向かって動き始めた。
先ほどとは違う方向だ。
しかも、今度は騎兵だけではなかった。
軽装歩兵が先行している。
俺は眉をひそめた。
「……何をするつもりだ?」
メルカルが望遠用の筒を覗いた。
「歩兵が前に出ています」
「歩兵?」
「はい。騎兵の前を進んでいます」
俺は、嫌な予感がした。
「……まさか」
そのとき、ローマ軍の軽装歩兵が、防御柵へ向かって走り始めた。
「柵を壊せ!」
ローマ軍の指揮官が叫ぶ。
軽装歩兵たちは、盾を構えながら接近した。
防御柵を押す。
杭を引き抜こうとする。
連結部分を外そうとする。
俺は息を呑んだ。
「……やっぱり!」
メルカルが尋ねた。
「どうしたんです?」
「スキピオは、防御柵を騎兵で突破するつもりじゃない」
「では?」
「歩兵で取り除いてから、騎兵を通すつもりなんだ!」
移動式防御柵には、弱点がある。
持ち運べるということは、地面に完全に固定されているわけではない。
そのため、敵の歩兵が近づけば、動かされたり、壊されたりする可能性がある。
もちろん、柵の後方には槍兵がいる。
だが、槍兵だけでは、柵を取り除こうとする敵歩兵を完全には防げない。
俺は叫んだ。
「右翼の防御柵が危ない!」
だが、ハンニバルはすでに対応していた。
「投石兵、前へ!」
カルタゴ軍の投石兵が動いた。
石が飛ぶ。
ローマ軍の軽装歩兵が盾を構える。
さらに、カルタゴ軍の弓兵も射撃を始めた。
ローマ軍の前進が鈍る。
その間に、柵の後方の槍兵が隊列を整えた。
ハンニバルが命じた。
「柵を守ることだけに固執するな! 敵が突破してきた場合に備えよ!」
「はっ!」
防御柵の一部が倒された。
ローマ軍の兵士たちが歓声を上げる。
「道が開いたぞ!」
だが、その先には槍兵が待っていた。
長槍が前方へ向けられる。
ローマ軍の軽装歩兵は、それ以上進めなかった。
そして、その後方では、カルタゴ軍の別の兵士たちが動き始めていた。
トリブルス(まきびし)部隊だった。
「配置準備!」
指揮官が叫ぶ。
兵士たちが木箱を開ける。
中には、大量の鉄製のトリブルス(まきびし)が入っていた。
ただし、すぐには撒かなかった。
味方の騎兵が近くにいる。
しかも、敵の軽装歩兵がすでに接近している。
この状況で無理に撒けば、担当兵が攻撃される危険があった。
指揮官は、敵の動きを確認した。
そして、事前に決めていた防御区域のうち、まだ敵が到達していない場所へ兵士を向かわせた。
「右翼第二通路、配置開始!」
木箱が運ばれる。
兵士たちは、敵騎兵が進入する可能性のある地面に、トリブルス(まきびし)を撒き始めた。
金属が地面に落ちる。
小さな鉄の棘が、乾いた土の上に散らばった。
一つ。
二つ。
十個。
百個。
やがて、その一帯は、馬にとって危険な地面になった。
もちろん、すべての場所を覆えるわけではない。
だが、騎兵が通れる場所を減らすことはできる。
俺は、その光景を見つめた。
「……ついに使ったか」
メルカルが頷いた。
「大量に作った、あのトリブルス(まきびし)ですね」
「そう」
「本当に戦場で使うことになるとは……」
俺は小さく息を吐いた。
「できれば、使わずに済ませたかったんだけどね」
そのときローマ軍の騎兵が、右翼の突破口へ向かって動き始めた。
先ほど、歩兵が防御柵の一部を倒した場所だった。
「突撃!」
ローマ軍の指揮官が叫ぶ。
騎兵が速度を上げる。
だが、その前方には、カルタゴ軍の槍兵がいる。
さらに、その脇には、トリブルス(まきびし)が撒かれた区域があった。
ローマ騎兵の先頭が、異変に気づいた。
「……何だ、あれは!」
地面に、小さな鉄の棘が散らばっている。
「止まれ!」
指揮官が叫んだ。
だが、後方の騎兵はすぐには止まれない。
馬が速度を落とす。
隊列が詰まる。
一部の騎兵が進路を変えようとする。
しかし、その先には防御柵が残っていた。
騎兵は、さらに迂回しなければならなくなった。
俺は思わず拳を握った。
「……効いている!」
メルカルが叫んだ。
「敵の騎兵が止まりました!」
だが、完全に止めたわけではなかった。
ローマ軍の騎兵指揮官は、すぐに状況を理解した。
「無理に進むな! 別の通路を探せ!」
騎兵たちが方向を変える。
その間に、カルタゴ軍の予備兵が移動した。
槍兵が新しい防御線を形成する。
そして、味方の騎兵が側面から現れた。
ハスドルバルの騎兵だった。
「今だ! 敵を押し返せ!」
カルタゴ騎兵が前進する。
ローマ騎兵は、トリブルス(まきびし)と防御柵によって自由な進路を取れない。
そのため、正面から迎え撃つことが難しくなっていた。
両軍の騎兵が衝突する。
槍が交差する。
馬がいななき土煙が舞い上がる。
激しい戦いになった。
だが、カルタゴ軍は防御線を維持した。
ローマ騎兵は、突破できなかった。
俺は大きく息を吐いた。
「……防いだ」
メルカルが喜んだ。
「やりましたね!」
だが、俺は首を振った。
「まだだよ」
「え?」
「スキピオは、これで諦めるような将軍じゃない」
俺はローマ軍の本陣を見つめた。
「きっと、次の手を考えている」
ローマ軍の本陣。
スキピオは、右翼の攻撃が失敗したという報告を受けていた。
「……鉄の棘?」
副官が頷いた。
「はい。地面に大量に撒かれているようです」
「馬が踏めば危険だな」
「そのようです。騎兵が進路を変えざるを得ませんでした」
スキピオは、しばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……なるほど」
副官が尋ねた。
「将軍?」
「木製の防御柵だけではなかったか」
スキピオは地図を見つめた。
「柵で騎兵の進路を制限し、柵のない場所には鉄の棘を撒く」
「はい」
「その間に槍兵と予備兵を動かす」
「そのようです」
スキピオは頷いた。
「よく考えられている」
副官が不安そうに尋ねた。
「では、騎兵では突破できないのでしょうか?」
「そんなことはない」
スキピオは首を振った。
「障害物には、必ず弱点がある」
「弱点?」
「まず、鉄の棘は地面に撒かれているだけだ。歩兵が安全を確認しながら取り除くことはできる」
「なるほど」
「そして、木製の柵も壊せる」
スキピオは続けた。
「だが、それをするには時間がかかる」
彼は戦場を見つめた。
「ハンニバルは、その時間を利用して兵を動かしている」
副官が頷いた。
「では、どうします?」
スキピオは少し考えた。
「障害物を無理に突破する必要はない」
「え?」
「敵の防御線が強いなら、そこを攻撃し続ける必要はないということだ」
スキピオは中央を指差した。
「側面の兵力を守るために、ハンニバルは槍兵と予備兵を使っている」
「はい」
「ならば、中央に圧力をかければどうなる?」
副官は息を呑んだ。
「……中央の兵が足りなくなる可能性があります」
「そうだ」
スキピオは静かに言った。
「騎兵で勝てないなら、歩兵で勝てばよい」
そして命じた。
「騎兵は、これ以上無理に突撃するな」
「はっ!」
「敵の側面を監視し、予備兵を引きつけろ」
「了解しました!」
「中央の歩兵を再編する。まだ動ける兵を集めろ」
副官が驚いた。
「中央で決着をつけるおつもりですか?」
スキピオは頷いた。
「ハンニバルが側面を守るなら、私は中央を攻める」
彼は遠くのカルタゴ軍を見つめた。
「……さあ、ハンニバル。次はどうする?」
カルタゴ軍の本陣。
ハンニバルは、ローマ軍の動きを見ていた。
「……中央に兵を集めていますね」
副官が頷いた。
「はい。ローマ軍が隊列を組み直しています」
「スキピオは、側面突破を諦めたようです」
「では、我々の防御柵が役に立ったのですね!」
ハンニバルは首を振った。
「役には立ちました。ですが、勝利したわけではありません」
「どういうことです?」
「敵は、攻撃する場所を変えただけです」
ハンニバルは地図を指差した。
「防御柵とトリブルス(まきびし)によって、敵騎兵の動きは制限できました」
「はい」
「しかし、その代わりに、スキピオは中央へ兵を集めようとしている」
副官が息を呑んだ。
「……中央で決戦するつもりですか」
「おそらく」
ハンニバルは頷いた。
「ならば、こちらも準備しましょう」
彼は伝令を呼んだ。
「右翼、左翼の防御線は維持。ただし、敵騎兵が後退した場所からは、動かせる予備兵を中央へ戻せ」
「はっ!」
「防御柵は、そのまま残す。トリブルス(まきびし)の配置区域は、味方の全部隊に再確認させよ」
「了解しました!」
ハンニバルは続けた。
「敵が中央に集中するなら、我々も中央を強化する」
副官が尋ねた。
「包囲作戦は?」
ハンニバルは少し考えた。
「まだ捨てていません」
「では?」
「スキピオが中央に集中すれば、今度は側面が薄くなる可能性があります」
副官は頷いた。
「なるほど」
「重要なのは、敵の動きに応じて戦い方を変えることです」
ハンニバルは静かに言った。
「戦場では、最初に考えた作戦に固執した者から敗れます」
その日の戦闘は、夕方まで続いた。
ローマ軍は中央を強化した。
カルタゴ軍も、それに対応して精鋭兵を再配置した。
両軍の歩兵が再び激突する。
盾がぶつかる。
槍が折れる。
兵士たちの叫び声が響く。
一方、両翼では騎兵同士の小競り合いが続いていた。
だが、ローマ軍は、移動式防御柵とトリブルス(まきびし)の配置された区域へ無理に突撃しようとはしなかった。
その結果、カルタゴ軍の側面は大きく崩れることなく持ちこたえていた。
しかし、中央の戦いは激しさを増していた。
日が傾き始めたころ。
ハンニバルは、戦場全体を見渡した。
そして命じた。
「前線を整理する。負傷者を後方へ」
副官が尋ねた。
「撤退ですか?」
「いいえ」
ハンニバルは答えた。
「まだ終わっていません」
俺は丘の上から、夕日に染まる平原を見つめた。
ローマ軍も、カルタゴ軍も、疲れ切っている。
どちらも、最後の一撃を探していた。
メルカルが隣で呟いた。
「……トリブルス(まきびし)も、防御柵も、役に立ちましたね」
俺は頷いた。
「うん」
「これなら、勝てるんじゃないですか?」
俺は、すぐには答えなかった。
確かに、側面は守れた。
ローマ騎兵の突撃も防いだ。
史実のザマの戦いでは、カルタゴ軍の騎兵が戦場から追い払われ、最後にはローマ側の騎兵が背後から襲いかかってきた。
だが、今回は違う。
移動式防御柵が、騎兵の突撃を妨げた。
トリブルス(まきびし)が、敵の進路を制限した。
槍兵と予備兵が、突破口を守った。
そして、ハスドルバルの騎兵が反撃した。
少なくとも、史実と同じ敗北の形は避けられている。
だが、スキピオもまた、優秀な将軍だった。
防御柵の弱点を見つけた。
トリブルス(まきびし)の存在を知れば、無理に突撃することをやめた。
そして、今度は中央で勝負しようとしている。
俺は小さく息を吐いた。
「……まだ分からないよ」
メルカルが尋ねた。
「どうしてです?」
「敵も考えているからだ」
俺はローマ軍の本陣を見つめた。
「俺たちが新しい兵器を作れば、スキピオはその対策を考える」
「はい」
「こちらが作戦を変えれば、向こうも作戦を変える」
「……そうですね」
「だから、最後まで気を抜けない」
メルカルは黙って頷いた。
そのとき。
カルタゴ軍の本陣から、伝令が走ってきた。
「アドン殿!」
「何?」
「ハンニバル将軍がお呼びです!」
俺は顔を上げた。
「何かあったのか?」
「将軍が、次の作戦について相談したいと!」
俺は驚いた。
「……次の作戦?」
伝令は頷いた。
「はい。ローマ軍の中央に動きがあるようです」
俺は、もう一度戦場を見つめた。
夕日が、両軍の旗を赤く染めている。
ローマ軍の中央では、兵士たちが隊列を組み直していた。
その後方には、まだ動いていない予備兵がいる。
そして、カルタゴ軍の中央にも、ハンニバルの精鋭兵が残っていた。
俺は呟いた。
「……次の一手で決まるかもしれない」
メルカルが尋ねた。
「何がです?」
俺は答えた。
「ザマの戦いの勝敗だよ」
俺はハンニバルの本陣へ向かって歩き始めた。
背後には、移動式防御柵が並んでいる。
その先には、トリブルス(まきびし)が撒かれた危険区域が広がっている。
俺たちが用意した二つの兵器は、確かにローマ騎兵の動きを制限した。
だが、それだけで戦争は終わらない。
最後に勝敗を決めるのは、兵士たちの戦いと、将軍たちの判断だった。
そして今。
ハンニバルとスキピオ。
二人の名将が、ザマの平原で最後の一手を探していた。
史実とは違う戦術が、史実とは違う戦場を作り出した。
だが、その先に待っているのが勝利なのか敗北なのかは、まだ誰にも分からなかった。




