第百十二話 ハンニバルとスキピオが会談したので、俺も和平条件を持っていった
紀元前202年。
ザマ近郊。
両軍の陣地から離れた平地に、会談のための天幕が設けられた。
周囲には、双方の護衛兵が立っている。
俺はハンニバルの後ろに立っていた。
目の前には、スキピオがいた。
若い。
だが、その目は鋭かった。
数々の戦場を経験してきた将軍の目だった。
スキピオが口を開いた。
「ハンニバル将軍」
ハンニバルが頷いた。
「スキピオ将軍」
二人は、しばらく互いを見つめていた。
スキピオが言った。
「あなたの名は、ローマでもよく知られています」
ハンニバルは静かに答えた。
「あなたの名も、カルタゴでは知られています」
スキピオは少し笑った。
「光栄です」
ハンニバルも微笑んだ。
「こちらこそ」
やがて、スキピオは本題に入った。
「戦争を終わらせたいと考えています」
ハンニバルが頷いた。
「私もです」
「では、和平について話しましょう」
俺は、持参した書簡を取り出した。
スキピオがこちらを見た。
「あなたは?」
俺は頭を下げた。
「カルタゴの商人、アドンと申します」
スキピオは少し考えた。
「……聞いたことがある」
俺は驚いた。
「本当ですか?」
「カルタゴ軍の補給を支えている商人だな」
俺は苦笑した。
「そう言われることもあります」
スキピオは続けた。
「ヒスパニアでも、あなたの名前を聞いた」
俺は黙った。
「カルタゴ・ノウァの防衛体制を見直そうとした人物だと」
「……」
「そして、イタリアでも補給路を整えた」
俺は頭を下げた。
「商人として、できることをしただけです」
スキピオは静かに言った。
「その『できること』が、ローマにとって厄介だった」
会談が始まった。
ローマ側は、カルタゴに厳しい条件を提示した。
海外領土の放棄。
賠償金。
軍事力の制限。
そして、ローマの同意なしに戦争を行わないこと。
俺は、条件を聞きながら眉をひそめた。
「……かなり厳しいですね」
スキピオは答えた。
「長い戦争でしたから」
俺は頷いた。
「それは理解しています」
そして、続けた。
「ですが、カルタゴが受け入れられない条件では、戦争は終わりません」
スキピオが尋ねた。
「では、何を提案する?」
俺は書簡を広げた。
「まず、双方の捕虜を交換すること」
「……」
「次に、地中海での商船の安全を保障すること」
「……」
「そして、一定期間の停戦を結び、正式な和平条件を協議すること」
スキピオは考え込んだ。
「停戦か」
俺は頷いた。
「はい」
「その間にカルタゴ軍が再編される可能性がある」
「ローマ軍も再編できます」
俺は答えた。
スキピオは、少し笑った。
「商人らしい答えだ」
俺も笑った。
「お互い様です」
だが、スキピオは首を振った。
「問題があります」
俺は尋ねた。
「何でしょう?」
「ローマ元老院が、曖昧な和平を認めるとは限らない」
俺は黙った。
それは、カルタゴも同じだった。
ハンニバルが口を開いた。
「スキピオ将軍」
「はい」
「私は、ローマの強さを知っています」
スキピオは黙って聞いていた。
「何度敗れても、軍を立て直した」
「……」
「その国と戦い続けることが、どれほど難しいかも知っています」
ハンニバルは続けた。
「ですが、カルタゴにも守るべきものがあります」
スキピオは頷いた。
「理解しています」
そして、静かに言った。
「だからこそ、戦場で決着をつける必要があるのかもしれません」
天幕が静まり返った。
会談は、結局まとまらなかった。
双方の条件には、大きな隔たりがあった。
俺は、天幕を出て空を見上げた。
乾いた風が吹いていた。
メルカルが尋ねた。
「……駄目でしたか?」
俺は頷いた。
「今のところは」
「では、戦うんですね」
俺は答えた。
「……そうなるかもしれない」
その夜。
ハンニバルは、軍議を開いた。
「和平は成立しませんでした」
将校たちが黙った。
ハンニバルは続けた。
「では、戦いに備えます」
ハスドルバルが頷いた。
「兄上、準備は進んでいます」
俺も答えた。
「補給は、現時点では維持できます」
ハンニバルは頷いた。
「よし」
そして、静かに言った。
「明日、敵の動きを確認します」
俺は、その夜ほとんど眠れなかった。
本来の歴史では、ハンニバルはザマで敗北する。
だが、今回は違う。
ハスドルバルがいる。
マシニッサはローマ側についていない。
そして、カルタゴ軍は補給を整えている。
それでも、勝てる保証はない。
俺は呟いた。
「……ここまで来たんだ」
そして、拳を握った。
「今度こそ、未来を変えたい」




