第百五話 スキピオがシュファクスを味方にしようとしたので、ヌミディアの内戦を防ぐことにした
紀元前204年。
カルタゴ。
夜明け前の港には、魚の臭いと濡れた木材の匂いが漂っていた。
俺は倉庫の一角で、ヌミディアから届いた報告を読んでいた。
『ローマの使節が、シュファクスの陣営を訪問』
『軍事協力について協議した模様』
『騎兵の提供と引き換えに、領土問題での支援を示唆』
最後の一文を読んだところで、俺は手を止めた。
「……やっぱり、そう来たか」
向かいで帳簿を整理していたメルカルが顔を上げた。
「シュファクスがローマにつくんですか?」
「まだ分からない」
「でも、マシニッサとは仲が悪いんでしょう?」
「そうだ」
俺は地図を広げた。
ヌミディアの東方にはマシニッサの勢力。
西方にはシュファクスの勢力。
両者は以前から土地と部族の支配をめぐって争っていた。
そして、その争いにカルタゴも関与してきた。
「マシニッサを敵にしないことには成功した。
でも、それだけじゃ足りなかった」
「どういうことです?」
「ローマがシュファクスを味方にすれば、結局、ヌミディア騎兵がカルタゴ軍と戦うことになる」
メルカルは顔をしかめた。
「では、シュファクスにも金を渡しますか?」
俺は首を振った。
「それだけでは駄目だ」
「なぜです?」
「ローマがもっと高い条件を出したら終わりだから」
俺は地図の中央を指差した。
「必要なのは、両者がローマやカルタゴの都合で戦わなくて済む仕組みだ」
数日後。
俺は元老院に出席した。
議場では、すでにシュファクスの問題が議論されていた。
「シュファクスは以前から我々と関係が深い!」
「ローマに奪われるわけにはいかない!」
「マシニッサとの協定など破棄してしまえ!」
俺は立ち上がった。
「それをすれば、マシニッサはローマへ行きます」
議員たちが黙った。
ハンノが尋ねた。
「では、どうする?」
「両者の停戦を仲介します」
議場がざわめいた。
「そんなことが可能なのか?」
「分かりません」
俺は正直に答えた。
「ですが、試す価値はあります」
ハンノは腕を組んだ。
「シュファクスは、マシニッサの勢力拡大を恐れている」
「はい」
「マシニッサも、シュファクスを信用していない」
「そのとおりです」
「では、何を条件にする?」
俺は三枚の木板を机に置いた。
「第一に、係争地での軍事行動を一定期間停止すること」
「第二に、双方の商人が安全に交易できること」
「第三に、国境問題について、双方が認める立会人を置くこと」
ハンノが尋ねた。
「カルタゴが立会人になるのか?」
「カルタゴだけでは不公平です」
俺は答えた。
「両者が選んだ代表者と、カルタゴの代表者で協議します」
議場の奥から声が上がった。
「それではカルタゴの影響力が弱まる!」
俺はその議員を見た。
「影響力を守るために内戦を起こさせれば、ローマ軍がその隙を利用します」
誰も反論しなかった。
二週間後。
ヌミディアの境界地帯。
俺は、マシニッサとシュファクスの使者が向かい合う天幕にいた。
両者の護衛は、互いに槍を握ったままだった。
空気が重い。
俺は咳払いをした。
「まず、武器を下ろしていただけませんか?」
シュファクスの使者が言った。
「相手が下ろすならな」
マシニッサの使者が答えた。
「そちらが先だ」
俺はため息をついた。
「……では、俺から下ろします」
腰に下げていた短剣を外し、机に置いた。
メルカルも渋々短剣を置いた。
「どうして私まで……」
「公平にするためだよ」
「私は最初から戦うつもりなんてありません」
「俺もだ」
結局、両者の使者は武器を預けた。
ようやく交渉が始まった。
だが、話は簡単ではなかった。
シュファクス側は、マシニッサの勢力拡大を警戒していた。
マシニッサ側は、過去に奪われた土地の返還を求めた。
どちらも、自分たちが正しいと主張する。
俺は、二人の話を最後まで聞いた。
そして言った。
「今日、国境をすべて決めるのは無理です」
両者がこちらを見た。
「だから、まず戦争を止めませんか?」
シュファクスの使者が鼻を鳴らした。
「相手が攻めてきたらどうする?」
「その場合は、協定違反として記録します」
「記録で兵士を止められるか!」
俺は頷いた。
「止められません」
使者は言葉に詰まった。
「だから、双方が人質ではなく、監視役を交換するんです」
「監視役?」
「互いの軍の動きを確認する使節です。
何か問題があれば、まず彼らを通じて抗議する」
マシニッサの使者が尋ねた。
「それで攻撃を防げるのか?」
「絶対ではありません」
俺は答えた。
「ですが、誤解から始まる戦争は減らせます」
交渉は三日続いた。
結局、完全な和平は成立しなかった。
だが、九十日間の停戦が決まった。
係争地での新たな要塞建設も停止する。
商人の通行を認める。
そして、双方の代表者が国境問題について協議を続ける。
俺は協定書を見つめた。
「……まずは九十日か」
メルカルが言った。
「短いですね」
「そうだね」
「成功なんですか?」
俺は少し考えた。
「少なくとも、今日から戦争が始まることは避けられた」
だが、その夜。
カルタゴから新しい報告が届いた。
『スキピオ軍、沿岸部の拠点を強化』
『ローマ軍、内陸への進出を準備』
俺は書簡を握りしめた。
ヌミディアで時間を稼いでいる間に、スキピオは着実に動いていた。




