第百三話 マシニッサがカルタゴの条件を受け入れたのに、ローマ軍がアフリカ侵攻を決めてしまった
紀元前205年。
ヌミディア。
俺が再びマシニッサの陣営へ到着したとき、彼は馬の訓練を見ていた。
騎兵たちが草原を駆け抜ける。
槍を構え、標的へ突進する。
そして、素早く方向を変えて離脱する。
俺は、その動きを見つめた。
「……やっぱり、すごいな」
メルカルが頷いた。
「ローマも欲しがるわけですね」
「そうだね」
マシニッサは、俺が差し出した書簡を読んだ。
長い沈黙が続いた。
やがて、彼は顔を上げた。
「……カルタゴ元老院が、ここまで認めたのか?」
俺は頷いた。
「正式な決定です」
マシニッサは、もう一度書簡を読んだ。
「自治の承認」
「はい」
「統一についての協議」
「はい」
「国境の確定」
「はい」
「相互不可侵」
「そうです」
マシニッサは静かに笑った。
「……アドン」
「はい」
「お前、本当に商人なのか?」
俺は苦笑した。
「最近、自分でも分からなくなってきました」
だが、マシニッサはすぐには署名しなかった。
「一つ問題がある」
俺は頷いた。
「何でしょう?」
「シュファクスだ」
俺は表情を引き締めた。
ヌミディアには、マシニッサだけがいるわけではない。
西方には、シュファクスが率いる勢力がある。
彼もまた、ヌミディアの支配を目指していた。
「カルタゴは、シュファクスとも関係を持っている」
マシニッサは言った。
「私と協定を結びながら、彼を支援するつもりではないだろうな?」
俺は答えた。
「その問題は、元老院でも議論になっています」
マシニッサの表情が険しくなった。
「……やはりな」
「ですが、提案があります」
俺は地図を広げた。
「まず、両勢力の間にある係争地について、カルタゴが一方的にどちらかを支援しないことを約束します」
「……」
「そして、双方の代表者による協議の場を設けます」
マシニッサは首を振った。
「シュファクスが応じるとは思えない」
「そうかもしれません」
俺は頷いた。
「でも、カルタゴが争いを煽らないことには意味があります」
マシニッサは、しばらく考えていた。
そして言った。
「分かった」
俺は顔を上げた。
「……では?」
「協定を結ぼう」
俺は息を呑んだ。
「本当ですか?」
マシニッサは頷いた。
「ただし、私はローマと戦うことまで約束しない」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「それで構いません」
メルカルが驚いた顔をした。
「アドン殿!」
俺は首を振った。
「いいんだ」
マシニッサを敵にしない。
まずは、それが重要だった。
こうして、カルタゴとマシニッサの間に、新しい協定が成立した。
相互不可侵。
交易の自由。
国境協議。
そして、ヌミディアの自治の尊重。
マシニッサは、最後に俺へ言った。
「アドン」
「はい」
「私はカルタゴの家臣になったわけではない」
俺は頷いた。
「分かっています」
「ローマの家臣にもならない」
「はい」
「私は、ヌミディアのために動く」
俺は笑った。
「それでいいと思います」
その夜。
俺はメルカルと焚き火を囲んでいた。
「……これで、ザマの戦いが変わるかもしれない」
俺は小さく呟いた。
メルカルが尋ねた。
「また、そのザマという場所ですか?」
俺は頷いた。
「そうだ」
「何があるんです?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「まだ、起きていない大きな戦いだよ」
翌朝。
カルタゴから緊急の使者が到着した。
使者は馬から飛び降りると、俺に書簡を差し出した。
「ローマについての情報です!」
俺は封を開いた。
そこには、こう書かれていた。
『スキピオが、アフリカ遠征の準備を本格化させている』
俺は目を閉じた。
「……やっぱり、来るか」
メルカルが尋ねた。
「どうします?」
俺は答えた。
「カルタゴへ戻る」
「……」
「そして、ハンニバルに連絡する」
俺は地図を見つめた。
イタリア。
カルタゴ。
ヌミディア。
そして、海。
本来の歴史では、スキピオはアフリカへ侵攻する。
そして、カルタゴはハンニバルを呼び戻す。
だが、今回は違う。
ハスドルバルは生きている。
ハンニバルと合流している。
そして、マシニッサは少なくともカルタゴの敵にはなっていない。
俺は呟いた。
「……今度こそ、勝てるかもしれない」
だが。
戦争は、そんなに簡単ではなかった。
ローマは、マシニッサを味方にできなくても、アフリカへ攻め込むつもりだった。
そして、スキピオはすでに、別の協力者を探し始めていた。




