第百一話 ローマとカルタゴが同じ日に交渉に来たので、マシニッサが両国を競わせ始めた
紀元前205年。
北アフリカ、ヌミディア。
天幕の外では、馬が落ち着かない様子で地面を蹴っていた。
その向こうから、赤い縁取りの衣をまとった男たちが近づいてくる。
ローマの使節団だった。
俺は思わず呟いた。
「……本当に来たな」
隣に立っていたメルカルが、小声で言った。
「帰りますか?」
「どうして?」
「敵国の使者と同じ天幕に入るなんて、普通は危険でしょう」
「まあ、そうだね」
「では……」
「でも、帰ったら交渉に負ける」
メルカルは深いため息をついた。
「あなたと一緒にいると、普通という言葉の意味が分からなくなります」
俺は笑った。
「俺もだよ」
マシニッサの天幕には、三つの席が用意されていた。
中央にマシニッサ。
右側にローマの使節団。
左側に俺たちカルタゴの使節団。
まるで商談のようだった。
いや。
実際、商談なのだ。
ただし、取引されるものは麦でも銀でもない。
ヌミディアの未来。
そして、数万の騎兵がどちらのために戦うかという問題だった。
ローマの使者が立ち上がった。
「ローマは、マシニッサ殿の勇気と能力を高く評価しています」
マシニッサは黙って聞いていた。
「我々は、ヌミディアが自らの運命を決める権利を尊重します」
俺は心の中で苦笑した。
うまい言い方だ。
ローマは、カルタゴと違ってヌミディアを直接支配してきたわけではない。
だから、自由を約束する立場に立てる。
使者は続けた。
「カルタゴは、これまでヌミディアの部族間の争いに介入してきました」
マシニッサの目が細くなった。
「知っている」
「ローマは、そのような支配を望みません」
俺は思わず口を開いた。
「それは、ローマが勝利したあとも変わらないのでしょうか?」
使者がこちらを見た。
「カルタゴの商人か」
「アドンと申します」
「あなたには聞いていない」
俺は肩をすくめた。
「失礼しました。
ただ、契約の条件が気になったもので」
マシニッサが笑った。
「答えてやれ」
ローマの使者は一瞬言葉に詰まった。
「ローマは、同盟国との約束を重んじる」
俺は頷いた。
「では、ヌミディアの統一を正式に承認するのですか?」
「その問題については、スキピオ将軍との協議が必要だ」
俺は微笑んだ。
「なるほど。
まだ正式な承認ではないのですね」
使者の表情が険しくなった。
だが、マシニッサは俺を制した。
「アドン。
ローマだけを問い詰めるな」
「……はい」
「カルタゴも同じではないか」
俺は黙った。
そのとおりだった。
マシニッサは二つの使節団を見回した。
「どちらも、私が欲しいのだろう?」
ローマの使者が頷いた。
「もちろんです」
俺も答えた。
「はい」
「だが、私は馬を売りに来た商人ではない」
マシニッサの声が低くなった。
「私の兵士には家族がいる。
土地がある。
守るべき部族がある」
天幕が静まり返った。
「ローマのために死ねと言われても困る。
カルタゴのために死ねと言われても困る」
マシニッサは続けた。
「私が欲しいのは、ヌミディアの未来だ」
俺は頷いた。
「理解しています」
「ならば、具体的な条件を出せ」
マシニッサは机を指で叩いた。
「曖昧な約束は、もういらない」
交渉は夕方まで続いた。
ローマは軍事支援を約束した。
カルタゴは交易上の利益と自治の尊重を提案した。
だが、どちらも完全な回答ではなかった。
やがてマシニッサは立ち上がった。
「三十日待つ」
俺は顔を上げた。
「三十日?」
「そうだ。
それまでに正式な条件を持ってこい」
ローマの使者が尋ねた。
「三十日後に決断されるのですか?」
マシニッサは頷いた。
「そのつもりだ」
そして、俺を見た。
「アドン」
「はい」
「お前は商人だろう?」
「そうです」
「ならば、知っているはずだ」
マシニッサは静かに言った。
「約束を守れない相手とは、取引できない。」
俺は頭を下げた。
「……おっしゃるとおりです」
天幕を出たとき、俺は冷たい風を感じた。
三十日。
それが、カルタゴに残された時間だった。




