第百話 ザマで負ける原因を知っているので、マシニッサを敵にしないための最後の交渉を始めた
紀元前205年。
カルタゴ元老院。
議場には、重い空気が漂っていた。
俺は、マシニッサから届いた書簡を読み上げた。
『カルタゴの決断を待つ時間は、もう長くない』
『私には、ヌミディアの未来を選ぶ責任がある』
議員たちは、黙っていた。
やがて、ハンノが口を開いた。
「……マシニッサは、カルタゴを脅しているのか?」
俺は首を振った。
「そうではありません」
「では、何だ?」
俺は答えた。
「彼は、自分の国の未来を決めようとしているんです」
ハンノは腕を組んだ。
「ヌミディアが統一されれば、カルタゴにとって脅威になる」
俺は頷いた。
「その可能性はあります」
「ならば、認めるべきではない」
俺は静かに答えた。
「ですが、ローマが支援して統一された場合は、もっと大きな脅威になります」
議場が静かになった。
俺は続けた。
「カルタゴが協力して統一されるヌミディアと、ローマが協力して統一されるヌミディア」
「……」
「どちらが、カルタゴにとって安全でしょうか?」
ハンノは黙った。
俺は言った。
「マシニッサは、優秀な騎兵を率いています」
「……」
「そして、ヌミディアの騎兵は、戦場で非常に重要です」
「……」
「もしローマ側につけば、カルタゴ軍は大きな不利を背負います」
議員の一人が尋ねた。
「では、何を提案する?」
俺は答えた。
「まず、ヌミディアの自治を正式に認める」
「……」
「次に、交易と軍事協力の協定を結ぶ」
「……」
「そして、統一については、カルタゴが一方的に妨害しないと約束する」
ハンノが尋ねた。
「完全な統一を承認するわけではないのか?」
俺は頷いた。
「いきなりすべてを決めるのは難しいでしょう」
そして、続けた。
「だから、段階的に進めたいんです」
議論は、長時間続いた。
反対意見。
賛成意見。
そして、慎重論。
俺は、何度も説明した。
だが、簡単にはまとまらなかった。
その日の夕方。
元老院は、ようやく一つの方針を決めた。
『ヌミディアの自治を尊重する』
『交易と軍事協力について、正式な協定を結ぶ』
『統一については、今後の交渉対象とする』
俺は頷いた。
「……一歩前進だな」
メルカルが尋ねた。
「これで、マシニッサはカルタゴ側につきますか?」
俺は首を振った。
「まだ分からない」
数日後。
俺は、再びヌミディアへ向かった。
マシニッサの陣営。
彼は、俺を見て少し笑った。
「……また来たのか」
俺は頷いた。
「はい」
「今度は、何を持ってきた?」
俺は書簡を差し出した。
「カルタゴ元老院の正式な決定です」
マシニッサは、書簡を読んだ。
しばらくして、顔を上げた。
「……自治を尊重する?」
「はい」
「交易と軍事協力?」
「はい」
「統一については、今後の交渉?」
俺は頷いた。
「そうです」
マシニッサは、書簡を机に置いた。
「……まだ足りないな」
俺は黙った。
マシニッサは続けた。
「私は、ヌミディアを統一したい」
「……」
「そして、誰かの命令で動く国にはしたくない」
俺は頷いた。
「理解しています」
マシニッサは尋ねた。
「では、カルタゴは本当に我々の独立を認めるのか?」
俺は答えた。
「その方向へ進めたいと考えています」
マシニッサは首を振った。
「……それでは、足りない」
俺は、しばらく考えた。
そして言った。
「では、条件を一つ変えましょう」
マシニッサが顔を上げた。
「何だ?」
俺は答えた。
「カルタゴとヌミディアが、対等な国として協定を結ぶことを提案します」
マシニッサは黙った。
俺は続けた。
「カルタゴがヌミディアを支配するのではありません」
「……」
「ヌミディアがカルタゴを支配するわけでもありません」
「……」
「互いに独立した国として、協力するんです」
マシニッサは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに言った。
「……それを、カルタゴ元老院が認めるのか?」
俺は正直に答えた。
「まだ、保証できません」
マシニッサは笑った。
「……相変わらずだな」
俺も苦笑した。
「嘘はつきたくないので」
マシニッサは立ち上がった。
「分かった」
俺は顔を上げた。
「……何がですか?」
「もう一度だけ、交渉の機会を与えよう」
俺は頷いた。
「ありがとうございます」
だが、マシニッサは続けた。
「ただし、条件がある」
俺は尋ねた。
「何でしょう?」
マシニッサは言った。
「カルタゴが、ヌミディアの部族同士を争わせる政策をやめること」
俺は頷いた。
「分かりました」
「そして、我々の内部問題へ勝手に介入しないこと」
「はい」
「さらに、交易条件を対等にすること」
俺は頷いた。
「その条件なら、交渉できると思います」
マシニッサは、少し笑った。
「……商人だな」
俺も笑った。
「商人ですから」
だがそのときマシニッサの部下が、天幕へ入ってきた。
「報告!」
マシニッサが顔を上げた。
「何だ?」
部下は答えた。
「ローマからの使者が到着しました!」
俺は息を呑んだ。
「……ローマ?」
マシニッサは、静かに頷いた。
「来たか」
俺は、マシニッサを見つめた。
ローマの使者。
カルタゴの使者。
そして、ヌミディアの未来。
三つの勢力が、同じ場所に集まろうとしていた。
マシニッサは言った。
「アドン」
俺は顔を上げた。
「はい」
「お前にも、ローマの提案を聞いてもらおう」
俺は驚いた。
「……いいんですか?」
マシニッサは頷いた。
「私は、両方の話を聞いて決める」
そして、静かに続けた。
「ヌミディアの未来を、他国に決めさせるつもりはない」
俺は頷いた。
「……分かりました」
そして、心の中で思った。
ここが、最後の分岐点かもしれない。
マシニッサがローマ側につけば、ザマの戦いでカルタゴは大きな不利を背負う。
だが。
カルタゴ側につくなら、未来は変わる。
俺は拳を握った。
ザマの戦いで勝つための戦いは、まだ始まっていない。
だが、その勝敗を左右する交渉が、今まさに始まろうとしていた。




