第三話 世話を焼かれる側
極めつけは、ひと月後だった。彼は一枚の書状を私の前に置いた。国王陛下の裁可印が捺されていた。
「王立薬草院を新設する。軍と民の両方に薬を供給し、薬師を育てる機関だ。初代院長は、あなたに頼みたい」
「わ、私、先月まで洗い場要員の予定だった女ですよ!?」
「国でただ一人、四千人を救った実績を持つ薬師だ。ほかに誰がやる」
設立趣意書の中ほどに、一行があった。
『薬事の功績は、処方の考案者の名において記録される』
「あなたのような人間を、二度と名無しにしないための一行だ。院の規則の、一番最初に置く。……気に入ったか」
気に入ったか、じゃない。
私はその日、人生で三度目に人前で泣いて、この人と結婚しようと本気で決めた。求婚の返事より先に院長職を受けたのは、我ながら仕事人間の性だと思う。彼は「順番はどちらでもいい。両方もらえるなら」と笑っていた。
薬草院の開設準備は、戦だった。建物の改修、人員の選抜、軍と医務局の間の調整。十年分の「見えない仕事」を今度は制度として組み上げるのだから、楽しくないはずがない。楽しくて、つい、やりすぎた。
倒れたのは、開院を十日後に控えた朝だった。
気づいたら将軍府の寝室で、額に濡れた布が載っていた。窓の外が夕暮れで、つまり半日消えていた計算になる。枕元には、軍議を三つ飛ばしたはずの人が、腕を組んで座っていた。ものすごく、怒った顔で。
「も、申し訳ありません。開院前の大事な時期に、私としたことが」
「謝る場所が違う」
彼は布を替えながら、低い声で言った。
「仕事に穴を開けたことを謝るな。私に黙って三日、夜を徹していたことを謝れ」
「……気づいて、いらしたんですか」
「あなたの部屋の灯りが消える時刻を、毎晩確かめてから寝る男だぞ、私は」
重い。重いのに、目の奥が熱くなるのはなぜだろう。
熱を出した私に、彼は薬湯を運んできた。匙で掬って、口元まで。さすがにそれは、と身を起こしかけた私を、視線一つで寝台に戻した。
「リディア。あなたは十年、熱を出しても薬棚の前に立っていたんだろう。誰にも代われないからと」
「……ええ、まあ。私が休むと、薬が止まりますから」
「もう止まらない。あなたが人を育てる側になったからだ。だから」
匙が、口元に寄せられる。
「今日からあなたは、熱を出したら世話を焼かれる側だ。この国であなたの代わりは育てられても、私のあなたの代わりは、どこにも育たないのでな」
……この人は本当に、こういうことを真顔で言う。
薬湯は、少し苦くて、今まで飲んだどの薬より効いた気がした。薬師として断言するが、これは配合のせいではない。
◇
婚約の披露は、王宮の夜会で行われた。
正直に言えば、気が重かった。夜会は十年間、私を「壁の染み」として扱ってきた場所だ。案の定、広間に入った途端、扇の陰のさざめきが聞こえてきた。
「あの方でしょう、例の。二十七の行き遅れですって」
「薬品臭い手の令嬢なんて、と思っていましたけれど、殿下もお珍しい趣味……」
「どうせ薬で誑かしたのよ。地味な女ほど、ああいうことをするの」
聞き流す訓練は、十年で積んである。けれど隣の人は、積んでいなかったらしい。
アルヴィスさまは広間の中央で足を止めると、楽団に手を上げて音楽を止めさせた。王弟殿下の特権行使である。広間中の視線が集まった。
「諸卿に紹介したい。我が婚約者、リディア・アッシュフォード。王立薬草院の初代院長である」
そして彼は、満座の中で私の手を取り、荒れた指先に口づけた。
「この手は十年、王宮の誰よりも多くこの国を守った。シェラ峠の生き残りは、皆この手に命を借りている。私もだ。……この手より美しいものを、私は生涯で見たことがない」
広間が、水を打ったようになった。
「今後、彼女を軽んじる言葉は、私と国境軍全将兵への侮辱と同義と心得られよ。以上だ。音楽を」
楽団が慌てて弾き始めた円舞曲の中、私は真っ赤になって彼を睨んだ。
「や、やりすぎです、閣下」
「足りないくらいだ。十年分と言っただろう」
「政敵が増えます」
「減るさ。敵になる阿呆が、あぶり出されて減る」
実際、減った。この夜を境に、社交界の風向きは面白いほど変わった。もっとも私に群がってきた方々の名前を、隣の人が全員手帳に控えていたことは、また別の話である。
その夜会で、私は思いがけない方に呼び止められた。王太后さまだった。
「そなたが、リディアか」
先の国王の妃にして、現国王と、そしてアルヴィスさまの母君。雲の上のさらに上の方は、私をじっと見て、ふ、と目元を緩めた。
「常備薬の味が、この春から変わっての。眠りが浅くなった。……ようやく合点がいった。わらわの薬を十年調えていたのは、筆頭でも局長でもなく、そなたじゃな」
「……恐れながら。夏のお薬は冷えに、冬のお薬は眠りに寄せておりました。季節の変わり目に、女官さまから寝つきのご様子を伺って」
「名乗りもせずに、の」
王太后さまは扇で口元を隠して、小さく笑われた。
「アルヴィスが十年かけて見つけた女の意味が、よくわかった。……薬草院のこと、わらわも後ろ盾になろう。年寄りの眠りを返してもらわねばならぬしの」
帰り際、王太后さまはアルヴィスさまに「そなたは昔から、一度決めたら梃子でも動かぬ子じゃった」と仰った。隣で聞いていた私に、彼は悪びれもせず頷いてみせた。うちの旦那さまになる方は、雲の上が相手でも、この調子である。
このお言葉が後にどれほど効いたかは、すぐにわかることになる。




