第二話 求婚は軍を連れてやってくる
翌朝、宿の主人が泡を食って私を起こしに来た。
「あんた、いったい何をやらかしたんだい。表に、その、騎士様が……いや騎士っていうか、軍だよ。軍が来てる」
宿の前の通りに、黒い軍装の一団が整列していた。下町の朝市が完全に止まっていた。その先頭、漆黒の軍馬から降りた長身の男が、まっすぐ私の前へ歩いてくる。
黒髪に、冬空の色の瞳。左の眉に古い傷。国境の英雄、王弟アルヴィス・グランヴェル将軍。姿絵で国中が知っている顔が、なぜか、宿屋の前の泥道で私に膝をついた。
「捜した」
「……は、」
「十年、捜した」
意味がわからなかった。私は昨日職を失った薬師で、この方は雲の上の人で、接点なんて――
「シェラ峠の冬営を知っているか」
彼は静かに言った。
「八年前、峠で私の隊は雪に閉じ込められた。凍傷と熱病で、半数は死ぬはずだった。だがその年から、支給される携行薬が変わっていた。丸薬は蝋引きの紙に包まれ、湿気ても効き目が落ちなかった。熱冷ましには凍傷の膏薬が添えられていた。そして包み紙の折り方が、独特でな。端が、薬草の葉の形に折ってあった」
心臓が、跳ねた。
それは、私だ。配属二年目の冬、前線から返送されてくる薬袋がことごとく湿気て駄目になっているのを見て、上の許可も取らずに包みを変えた。葉の折り方は、ただの癖だ。母が薬包をそう折る人だった。
「軍務局に問い合わせた。改良の記録はなく、担当者の名もなかった。だが毎年、冬が来る前に携行薬は少しずつ良くなった。おかしいだろう。誰の功績にもなっていないのに、毎年、必ず良くなるんだ」
彼は懐から、小さな古い紙片を取り出した。色の抜けた、葉の形の包み紙だった。
「シェラ峠で、私はこの包みの薬で生き延びた。以来、これを作った人間を捜し続けた。国境で兵の命を拾い続けたのは、剣でも戦術でもない。この包みだ。……ようやく突き止めて王宮に照会をかけたら、医務局はその薬師を昨日、洗い場に異動させたと言った」
冬空の色の瞳の奥で、何かが静かに燃えていた。
「リディア・アッシュフォード薬師。あなたに二つ、伝えに来た。一つ。あなたがこの十年で、この国の兵の死者をおよそ四千人減らしたことを、正確に把握している者が、ここに一人いる」
「よ、四千……?」
「軍の記録は正直だ。あなたが携行薬を変えた年から、越冬時の病死者は毎年減り続けている。積み上げれば四千。控えめに数えて、だ」
そんな数字は知らなかった。私はただ毎年、返送されてくる薬袋の数が減るのを見て、よし、とだけ思っていた。膝の力が抜けそうだった。誰も見ていないと思っていた十年を、この人は、数えていた。
「二つ目」
彼は膝をついたまま、私を見上げた。
「あなたが昨日、何もかも捨てて王宮を出たと聞いた瞬間から、私は自分でも呆れるほど焦っている。あなたは名前を残さない人だ。今度見失えば、次は十年では捜し出せない。だから」
差し出された手のひらは、剣だこだらけだった。
「私と、結婚してほしい」
朝市が、どよめいた。
「……あの、閣下。求婚の前に、せめてお茶でも挟みませんか」
「挟もう。結婚してくれるなら、毎朝でも」
「話が早すぎます」
「十年待った男が、遅いと言われる筋合いはあっても、早いと言われる筋合いはない」
真顔で言い返されて、私は不覚にも噴き出してしまった。行き遅れの人生で、求婚が軍を連れてやって来る朝があるなんて、誰が教えてくれただろう。
◇
お茶は、挟まれた。毎朝どころか、毎朝毎夕。
アルヴィスさまは私を将軍府の客分として保護すると、外堀という外堀を埋め始めた。実家が寄越した「連れ戻しの使い」は門前で法務官に迎えられ、ドルバック侯爵との縁談は「本人の同意なき婚姻契約」として王室法務院へ無効を申し立てられた。仕事が早い。早すぎる。
「閣下は、その、少々過保護では」
「過保護? 心外だな」
彼は執務机の向こうで、心底不思議そうな顔をした。
「あなたはこの十年、他人ばかり守ってきた。ならば、あなたを守る役目は丸ごと空席だということだ。空いていた席に座ったにすぎない」
この人は、こういうことを真顔で言う。心臓に悪い。
気づいたことがある。この方は、私の名前を呼ぶ。
王宮で私は「アッシュフォード薬師」だった。「おい」だった。「ねえ、ちょっと」だった。ミレーヌが「リディア」と呼ぶのは、頼み事があるときだけだった。
「リディア」
彼は一日に何度も、用もないのに私の名を呼ぶ。呼んで、私が顔を上げると、それで満足したように目元を緩める。
「……あの、御用は」
「ない。顔が見たかっただけだ」
だから心臓に悪いと言うのに。
ある夜、遅くまで薬草図鑑の整理をしていた私の手を、彼がふいに取った。
「荒れている」
「薬師の手ですから。水仕事と薬液で、これはもう職業病です」
「知っている」
彼は懐から小さな軟膏の缶を取り出した。見覚えがあった。私が兵向けに作った、あかぎれ用の膏薬だ。
「あなたの膏薬だ。国境では皆これに世話になった。……作った本人が、自分には塗らないのだな」
彼は大きな手のひらに私の手をのせ、剣だこだらけの指で、ゆっくりと膏薬を塗り始めた。壊れ物を扱うような指先だった。指の股まで、丁寧に、丁寧に。
「人に塗ってばかりだろう、あなたは。今日からここは私の管轄だ」
「か、管轄……」
「毎晩塗る。手が治っても塗る。逃げないように」
耳まで熱くなって、私はうつむいた。二十七年生きてきて、誰かに手当てをされたのは、母が死んで以来、初めてだった。薬師のくせに、手当てのされ方を忘れていた。




